2019年10月 7日 (月)

犬種特性

つい先日、犬の繁殖業のことについて書いた(とても驚いたこと(後書きブログ))。長編なこともありますが、何度も書き直している間に「犬のことに興味を持っている人たちに読んで考えてほしいな」とおもった記事がネットに載っていた。
残念なことですが、時間が経ったら2ページ目が会員登録しないと読めなくなってしまった。
ですが備忘録として、このブログに書いておきます。

 

昨今の日本では犬や猫の殺処分数が話題になることが時々あります。以前はなかなか一般のニュースにはなりませんでした。

この問題を議論するとき「問題行動」がテーマになることがあります。ここでは「攻撃性」とは書きません。攻撃性について焦点に絞って語りたがる人が少なからずいらっしゃいますが、それだけではないし、攻撃性の定義についても人によって違うようなので、ここでは人間に対して「問題」になる「行動」として話をしたい。

以前SNSで(殺処分数の話題の中で)犬の攻撃性について話し合っている人たちがいました。その中に「産まれて来る時は皆同じ。その後の環境で変わってしまう(攻撃性を獲得する)」と書いている人たちを見た。ここまで犬を知らないことに驚いたが、日本人の中には少なからずそのような人たちがいるのかもと思ったりもした。

ただ殺処分の問題を論じるのなら、それなりに調べた上で発言していただきたいものである。

 

そのような人たちに読んでいただきたい記事が以下のもの。

イヌは品種によって脳の構造も違う、お役目と関連
品種改良で「脳の進化が急激に進んだ」と研究者
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/090400515/

 

動物の基本的なことを学んだことがある人は「時間の無駄だった」と感じるかも。
人と身近な動物の関係を学んだことのある人なら「えっ、今更?」と感じたかも。

この記事の中で面白いと思った言葉があります。

「偽の動物」
(内容が2ページ目に書いてあります。公開当初は登録しなくても2ページ目が読めました。今は読めない・悲)

では「本物の動物」って何?、そこをちょっと考えてみていただきたい。

(英語で云うところの)「野生動物」と「家畜」の違いについて学び、それらどちらにも接した経験もあり、犬が産まれながらにして(野生動物との違いは勿論のこと)多くの「家畜」とも違うことを体感している人であれば、「偽の動物」の意味は感覚的にも理解できるとおもいます。

 

ついでにもう一つ。
アメリカ教育省が1993年に定義した「ギフテッド」という言葉をご存知だろうか。
人間の話です。産まれてきた時にもっているものがあり、多くの人とは明らかに違う人のこと。WikiPediaはこちら
「産まれて来る時は皆同じ」ではなことが、今の世の中の定説になっています。

他の動物と同じだった犬が、今の犬になった歴史を考えてみます。
(偽の動物である)犬になる前の状態から、犬になるまでの間、人間によって選択繁殖されてきただろうことを想像する人は多いとおもいます。
どのような選択繁殖か?
人間とのコミュニケーション能力に長けている能力、その意味での「ギフテッド」の犬を選んできた。訓練(人間の言葉もどれだけ発達していたか分からない時代に、動物の訓練なんてあったとしても大したものではないはず)しなくても人間とコミュニケーションがとれる個体を選択繁殖したのだろう。
「選択繁殖」と書くと固く聞こえるかもしれない。こう書けばいいかな。

自分ととても分かり合える動物に出会った。その動物の子供欲しいとおもって子供をとった。

こいうことだ。

 

話がどんどん逸れてきたので、思いっきり逸れてみたいと思う。
冒頭に紹介した先に書いたブログの続きのようなこと。

このような(選択繁殖の)積み重ねが、今の犬となっている。
その副作用が問題行動や遺伝性疾患。
(野生における生存競争のような)外的要因全てを考慮した生命力ではなく、人間とのコミュニケーションを優先した選択繁殖なので、そのようなことになってしまうのだろう。

繁殖業のプロの人たちは、このようなことが感覚として身についている人だ。
人間がやってきたことの積み重ねによるリスク、自分が行うことによるリスクも重々承知。
素晴らしいとおもう犬の子供と暮らしたい。勿論、繁殖した犬に一生について責任をもつ。譲った犬に対しても。
どれだけ大変なことか分かっているが、繁殖した全ての犬の一生を知らなければ、素晴らしい犬がなんであるかさえ分からない。ただの自分勝手な「好み」になってしまう。そのことも理解している。だからオープンな場であるショーにも顔を出す。

 

多くの犬の一生に携わる。
犬が産まれる前から携わり、その一生を知り、思い出になったその後も。
さらに客観性も備えるように気を配る。

繁殖業とはそのような人たちであるはず。

 

英語では、ブリーダーに対してパピー・ミルという言葉がある。長年、この言葉を(マスコミが)どう訳すか悩んでいたようですが3年くらい前から「子犬工場」とすることが一般的になってきた。
子犬を作り出し商品として売る。ほとんどの場合(命のない商品と同じく)最終購入者とは接しない。それで良いと思っている最終購入者がほとんどだかから。
最終購入者(飼い主)の意識が変わらない限り、根本的な解決に繋がらないと私は感じている。

 

紹介した記事の2ページ目の最後に書かれていること(IDを取得しないと読めないことなのでここにはコピペしませんが)が印象的でした。
私の言葉で言い換えれば、

人間は周囲の環境をより暮らしやすいものにしてきましたが、他の動物の脳をも変えてきた。だから今の人間に暮らしやすい世の中がある。その代償もあるはず。それを認識しつつ恩恵を享受すべきだろう。

| | コメント (0)

2019年8月31日 (土)

亡骸をどうするか(個人的な考え)

ブログなんて個人的な考えの塊であることは分かり切ったことがですが、たぶん「それって一般常識から離れ過ぎ」と思われる方も、少なからずいらっしゃるとおもいますので「個人的な考え」と前置きしておきます。

 

先日、こんなFacebookの記事を読んだ。
なるほど、こうやれば効率がいいというか、迷惑もかけないし、しっかり自然に帰るんだろうな、と納得した。
記事を書いている方とは知り合いではなく、どのような方なのか存じ上げません。偶然、この記事を読みました。

まず思ったことは「これを風葬呼ぶの?」ということ。
日本の幾つかの島での葬儀の方法を聞いている私としては違和感をもった。

Wikipediaで風葬を調べる。Wikipediaに書いてあるのは人間の場合ですが「風にさらし」とあるので、やはりちょっと違うような。でも、そんなことはどうでもいい。
沖縄のことも書いてある。私が沖縄に居た時に聞いた話とは違う部分があるが、そうしないとならない理由も分からないでもないので気にしない。

 

子供の頃、「墓」は自分に関係のない迷惑なものくらいに感じていた。父に連れられて行く墓参りにいい思い出がない。
成人して「そのうち自分も墓に入るのだろな」とおもったら、なんだか嫌になってきた。

若い時に、幾つかの土地で仕事をしながら滞在したことがあった。一ヶ月の場所もあれば半年以上の場所もあった。
島へ行き、ある程度島の人と仲良くなると、死体をどうするかという話になった。今、考え直してみると、私が滞在した時期がちょうどお先祖様が帰って来ると言われる時期であったからだとおもう。

Wikipediaの風葬を読むと、日本に於いて火葬をしなかったのは、少なくとも50年以上前のように読めた。私がお世話になった小さな島には火葬場はなかった。大きな島の病院で亡くなれば火葬となるが、私が居た島では高齢者でも島に残る人もいた。
そこで昔(50年とかではなくてもう少し最近)はどうしたかという話を聞いた。風葬の所もあった。風葬であっても墓が存在する。しかし自然に帰る部分も多い。

「墓」が好きになれない私は、風葬に魅力を感じた。

 

(ここで余談)
10年くらい前だろうか。
家の前のアスファルトの道にメジロが死んでいた。このままでは車に轢かれてしまう。以前、スズメが轢かれてペシャンコになった姿はなんとも哀れだった。
なので、我が家の庭とも呼べない建物と塀の間の場所に運び、地面を少し綺麗にならして横たえてあげた。
この場所は、アナグマの記事中にあるような微生物も多々いる場所で、菌類やミミズ、ナメクジ、ダンゴムシ、蟻、蜘蛛、ヤスデ、その他多様な生き物が生息している。ナメクジが増えた後にコウガイヒルが居ついていたこともある。
初夏の晴れた日だったと思う。メジロを横たえた後、どうしたものかとおもっていた。そして一時間くらい放置して見に行くと、小さな蟻たちがメジロの周りから土の粒の毛布を掛けてゆくように覆い始めた。三時間もすると綺麗な土饅頭のようになり、その下にメジロの骸があるとは分からなくなった。
それから何日を要したか覚えていないが骨もなくなった。全て自然に(命の循環に)帰ったのだ。
この時の感情を何と表現していいのか分かりませんが、たぶん「羨ましい」が近いのかもしれない。
(余談ここまで)

 

三年くらい前だろうか。長野県の南の方を車で走っていた。同乗者が急に、元善光寺に寄りたいと言い出した。
そこで九相図のようなものを見た。このとき九相図というものを知らず、後からそのようなものがあることを知った。(Wikipediaのページはこちら

そして小野小町の老後といえばいいのか、死との向き合い方を知る。

更に、日本に於いて、市井の方々が亡くなった場合、火葬し埋葬することが義務の当たりなったのは、遠い昔ではないことも知る。
飢饉などがあると死体があちこちにゴロゴロしてよろしくないので埋葬するように、とお達しが出るようになったとか。それから誰でも何らかの形で埋葬され、私が産まれた時代では墓地の墓に入るのが当たり前だった。
この30年くらいだろうか。子供がいない(=墓守がいない)者が増えたからか、散骨そして樹木葬が広まりつつあるのを感じる。

それらは火葬が前提のようですが、個人的な考えとして、そのまま動物や微生物に喰われて自然に帰りたいとおもうこともある。

ならば検体や臓器移植がいいのかも。

 

元の記事に関連した話。

車で旅行をしていて、動物の死体に出会うことがある。
はじめの内は、車を止めて端に寄せてそれ以上のことは出来ないかと考えたこともあるのですが、その周りの土地は(山の中であっても)私有地だろうから、道の近くの土の場所に運ぶのも気が引ける。だからと言って、車に乗せて一緒に旅をするのも気が引ける。結局何も出来ないのがもどかしい(動物愛護法に従い通報すればいいんですよね)。
 

またまた話は変わります。

自宅の周りでも、動物愛護法の大改正施行(2000年)以後は道路で事故に遭った犬や猫の死体を見る回数がどんどん減ったとおもいます。最近はほとんど見ません。

 

これまた「とても個人的な考え」ですが、死体、つまり死そのものと直面する機会が減るのはいいことなのかな、とおもうことがあります。
人が死を嫌う理由の一つに(身体的・精神的)苦痛が伴うだろうということもありますが、死や苦痛がバーチャルなものとして感じる人が増えたような気がします。つまり苦痛という感覚について考えない人が増えたような気がします。とにかく、現実の死については、とても距離をとっているように思えてなりません。

もちろん、道路で犬や猫、メジロやスズメが死んでいるのがよいとは思いませんが、何か直面する機会があった方がよいのではとおもえてなりません。
昔は三世代世帯が当たり前だったし、家で息を引き取るのも当たり前だった。なので子供も死に際に直面した。
と、書いている自分も、その後の世代で核家族で育った。祖父母の死に際には立ち会っていません。記憶を手繰ってみても、誰か(人間)の死のその時に立ち会ったことはないかも。

亡くなった直後に病院に駆け付けたら、病室から霊安室に移され、すぐに葬儀の話になったことは記憶にあります。これは気が紛れていいとおもったこともありますが、その通り「紛らわしていて」受け止めることを避けているのかも。

そんなことを考えると、火葬場のない小さな島で高齢で亡くなることは、それだけでも価値のあることなのかも。

 

以上、散らかった文章になってスミマセン。
「個人的な考え」でした。

| | コメント (0)

2014年5月20日 (火)

暗い話は好きではありませんが

こんなことがあったらしい。

何処までが事実で、ここに書かれたこと以外の事実がどれだけあるのか、私は全く知らない。だいたいのこととして受け止めるしかない。
この方のご冥福を祈ると同時に、彼のしてきたことが当然とされる世の中になることを祈るばかりです。

| | コメント (0)

2014年5月18日 (日)

犬や猫の「遺棄」の考え方

私にとって不思議な事件が起きた。Twitter や Face であれこれ知った。こんな事件だ。

届けられた猫保護断る 遺棄教唆容疑で書類送検

警察に持ち込まれた猫を、警察の人がセンターに持ち込んだ。センターは通常業務通り、「自活出来る猫は基本的に引取らない。元の場所に戻してくださいな。」と対応したらしい。警察の人はその猫たちを何処かで逃がしたらしい。

ここまでは「はぁ、そうですか。警察は何で引取ったんでしょうかね?」程度に思ったのですが、しかし、タイトルの通り、センターの人が書類送検されてしまったらしい。誰が悪いの?、考えると「猫を捨てた人」と思うのですが、センターの人が送検された。

 

この事件については、FaceBook で情報を寄せていただき、「はぁ~、なるほど、ま、総合的に考えて、そうなんだなぁ」と微妙な納得感があるので、この事件そのものについて語ることはしない。

動愛法が改正されて、罰則規定が厳しくなった。各罰則が適切に運用されることが期待されていますが、虐待や遺棄の定義がはっきりせずに法律が実効されていないように感じる。

今回問題になった「遺棄」については、専門家でも議論があるようです。そのような中、法律については全くの素人が、分かり易い考え方を示してみる。

私が遺棄について初めて勉強したのは、10年くらい前だろうか。動管法が動愛法になり、実質的な運用されはじめてきたかな、と思えるような時期だったと思う。そのときに聞いた話は、「そこに置いてゆくことで、その犬や猫が危険にさらされるような状態」であることが条件になる、と聞いていた。「なるほど」と思ったものでした。
この状態であるのであれば「遺棄である」ことについては誰も異論はないと思う。

ということで、以下のようなことを考えた。
尚、以下に書く各事件は説明する上で作り上げたフィクションであり、実際に起こった事件とは何ら関係ありません

(その1)

犬連れがよく利用する公園があったとする。駐車場は通行量が多い道路から入ることになる。料金ゲートはあるが、24時間出入りできる。
犬を捨てようと思った人が夜中に3~4頭の犬を、駐車場脇の芝生に置いていった。つまり捨てていった。クレートに入れ、水もフードもつけて。
しかし、朝になり公園職員が気付いたときは、犬たちはクレートから出されていて、一頭は道路に出て命を絶たれる結果になった。

このケースの場合、誰が犬の命を立つ原因を作ったことになるのか。誰がやったか分からないがクレートから出した人になるのだろうか。

この事件(架空の事件だけどね)で分かることは、クレートに入れておいても出されてしまう。つまり、クレートに入れて置いておいても安全ではない現実がある、という事例になる(これは架空の事件で本当にあれば、の話ですが)。

(その2)

私が10年くらい前に聞いた「遺棄」が成立しない事例として、動物病院や愛護団体の前に犬や猫を置いてゆくケースだと聞いた。しかし、もしこんな事件があったらどうだろう。

動物病院の前に猫が捨てれる。病院の人が、これらの猫たちを拾得物として警察に持ち込む。警察では遺失物法(4-3)に従い、動愛法(35-3)を適用するとしてセンターに持ち込む(35-1を理解しないまま)。その都道府県のセンターでは、自活出来る猫は引取らないことを決めているので、「このような理由で引取ることは出来ません。元の場所に戻してください」と持ちこんだ警察の人に説明する。
警察の人は引取ったことが間違いであったことに、このとき気がつく。そうなると元の場所(動物病院の前)で放すことはしたくないだろう。そもそも、それがその猫の居た場所ではないのだろうし。仕方なく、隠れるように人気の少ない畑や河川敷などに放すことになる。
このような場所は、猫が生活してゆくにはなかなか厳しい場所。限られた数の猫がどうにか生きてゆくような場所(食べ物を定期的にあげている人がいれば別ですが、もしそれが確認出来るのであれば、その人に話をつけて放すべきだろうが、立場上したくないだろう)。そのような場所に放すことは、命の危険が充分に考えられる状態、つまり遺棄となるのではないだろうか。
そのようなことを警察が理解してか(ここの書いているのはあくまでもフィクションですが)警察がセンターの人を遺棄の教唆で送検したとする。となると、現在、遺棄の定義がはっきりしていませんので、この行為が命の危険に晒される状態であったと証明したことになる。

で、何が言いたいかというと、動物病院の前に犬や猫を置いたから命の危険はないとは言い切れず、命の危険に晒される結果になると充分に考えられる、という認識を持てば、遺棄の定義を難しく考えずに運用できるのではないでしょうか。

(その3)

極論というか理論のみの話だと思ってください。
センターの前に犬や猫を捨てたとする。結果としてセンターが引取ることになりますが、捨てた人は犬や猫がどうなるか分からない。都道府県の考え方やそのときのセンターの状況によっては、命が断たれる結果になる。命が絶たれる結果になることも考えられるような場所に捨ててゆくことは遺棄と解釈してしまっていいのでは?。(センターを悪者したくないですが)

何処に置いても、最近では虐待目的で動物を欲しがる人はいるので、それらの人たちに渡らないとも言い切れないのではないでしょうか。

ということで、「何処にどのように置いていっても、命の危険に晒すことになる」と考える(以上はフィクションですが、本当にこのような事件があるのなら)、のが今の世の中として妥当、当然であるという認識に立てば、遺棄の解釈を難しく考えずとも、遺棄(44条3)を適用出来るのではないかと考えます。
そのような現状があるから今の動愛法がある。そう考えてもいいのではないでしょうか。

 

(補足)

※その1の作り話で、犬を3~4頭としたのは、1頭だと適切に保護される可能性が高いから。実際に起こった事件とは関係ありません。一頭でも同様に放されてしまう(保護しようとしてクレートを開けたら逃げられ、道に向かってしまう)可能性も充分に考えられます。

※その2の作り話を考えてみると、警察に持ち込んだ時点で対応した警察署の人が「センターに相談してください」とし、センターで「こちらとしては、このような事情で引取らないと決めています」と説明すれば、まず病院に持ち帰ることになっただろう。
動物病院は地域の事情が分かっていると思われるので、飼い主探しをするか、適当な場所に、その場所の地域猫ボランティアと相談の上、放すことになったのではないかと思われます。

※その3では、捨てた人の終生飼養の責任について考えてください。ここで考えたいのは「遺棄とは」ですから。
そうなると、「遺棄とは終生飼養の責任を果たさず手放すこと」になるかも。

 

以上、一般飼い主の思いついたことでした。

| | コメント (0)

2013年12月30日 (月)

Twitter や FaceBook より

ここ1~2ヶ月で、「これは忘れないようにしなくては!」、と思った情報を備忘録として。

 

災害時の伴侶動物の扱いについて活動されている方のTwitter から知ることになったYouTube ビデオ。一時間ものですが、これを見ずして災害時のことを語るなかれ、という感じの内容。是非、全て見てください。

http://www.youtube.com/watch?v=xLc3aOWI6aM&feature=youtu.be

ビデオがアップされたのが、2013/02/19 、私がつぶやいたのが、2013/11/29 。その時点で再生回数が440 だけであることにビックリした。多くの方に見て欲しい。どのようなポジションの人が何が出来るのか、知っておけば、新潟のように後々も、災害時の基盤ができてゆく。
論点が多々あります。色々な立場の人に見てもらいたい。

 

20世紀から「日本にもアニマルポリスを!」と望んでいた人たちはいました。
しかしなかなか実現しない。動物に関わる事件の現場では、動物愛護管理法が実効性を持たない感があり、多くの人がヤキモキしていました。
しかし、ついに、兵庫県警では「アニマルポリス・ホットライン(動物虐待事案等専用相談電話)」なるものを設置するに至った。警察官が対応するようです。つまり、動物愛護管理法に詳しい警察官が配置されることになるらしいです。

http://www.police.pref.hyogo.jp/sodan/animal/index.htm

今日現在、上記ページに書かれていることの一部をコピペしておきます。
========================
警察では、県民生活の安全と平穏を確保するため、重要凶悪事件の前兆事案である動物虐待事案への的確な対応を図るべく、動物虐待事案等専用相談電話「アニマルポリス・ホットライン」を設置して、平成26年1月6日(月)午前9時から相談に応じます。     

  • 犬や猫などを殺したり傷つけたりする行為
  • 犬や猫などに餌を与えず衰弱させる行為
  • 犬や猫などを捨てる行為

========================

今まで、犬や猫のトラブルを警察に相談しても、後回しにされているのでは?、と感じる話を多々耳にしてきましたが、兵庫県においてはかなり改善されることでしょう。

開設された経緯については、こちらのブログにありますが、これだけだとしてら信じられないくらいのスピードですね。
http://ameblo.jp/sugimoto-aya/day-20131221.html

この件についての情報ソースは、毎度お世話になっております細川のTwitterやFaceBookから。いつも貴重な情報をありがとうございます。

 

20131230a 今月はまいすのことがあり気分は低下しっぱなしですが、このブログはまいすネタのお陰(?)でときどきランキングが上がる。なんだか妙な月でした。(ブログ村などに登録しようかな、と思ったけどやっていない。)
来年も今年同様、多様な話題のブログになると思います。(そうだ、カテゴリーが定まらず、ブログ村に登録するのをやめたんだ。)
そして今年同様、コメントがなくても書き続ける予定。犬や猫、その他、伴侶動物との生活が、社会にもう少し認めてもらえるようになるまでは。または、うーにーとの約束の日までは。

| | コメント (0)

2013年12月18日 (水)

細川先生へのご返事

この書き込みは、FaceBook で細川先生に対して訳の分からぬコメントを書いてしまったので、それについての説明です。
https://www.facebook.com/atsushi.hosokawa.982/posts/536150359814170

上記ページを見ることが出来ない人は、読んでも何のことやら?、となると思います。
以下、細川先生への返事です。
====================

まず、分かり難いコメントを書いてお詫びいたします。(これも長いし、文章が分かり難くてスミマセン m(_~_)m )
「みんななんとなく分かっているよね」というつもりで書きましたが、後から読んで「別の読み方も出来るな」と反省しています。
これから書くことは、分かっている人も多いと思うし、はっきり分かっていなくても何となく感じていて「そういうことか~」と納得できるのでは、と思っています。

FBのコメントで「このページ」と書いたページの先生が、よく頑張っているとことは理解しているし、感謝の気持ちもあります。そして、この方向性がより良い方法であることも。
「欲をいえば」という気持ちだったのですが、毒づいていましたね m(_~_)m(この書き込みの中でも、一部そのように読めるところもありますが (~_~;) )

まず「業界」について。
90年代後半から始まった今のペットブーム(その前は「ペットじゃなくてコンパニオンアニマルだ!」と言っていたものです)は、業界主導で始まり、業界主導でここまできました。
私のいうところの「業界」とは繁殖業や生体販売業だけではありません。グッズに関わる人たちも、飼い主に近いところだとトレーナーやインストラクターも、ドッグランやドッグカフェに関わる人たちも。さらに保険関係も。とにかくペットに関わるビジネス全てです。その意味では、先生も業界の人かも(笑)

 

言いたいことは二点。

まず、コメントで書いたことの「後半」を説明します。
ここでの「このページ」は、細川先生の書き込みではなく、先生がリンクを張ったページです。そして、これから書くことは「このページ」個別のことではなく「一般論として」読んでいただければ幸いです。

先にも書きましたが、この15年以上のペットブームは「業界主導で」進んできました。少し遅れて愛護活動も広まり始めます。広まったといっても多くの飼い主は関わりを持っていません。殺処分のことを調べると、ペットブームや愛護活動とは(一時的に関わっていても)離れていってしまった人たちが見えてきます。
世の中はペットブーム、「可愛い、癒されるらしい」とペットを迎え、子供が受験になったり、自分が忙しくなったり、引っ越しになったときに、手放してしまう、置いて行ってしまう。一言で表現すれば「よく考えていない」。
このような人たちとペットビジネスの人たち(業界)は関わらないですよね。インストラクターなどに相談すれば、その様なことにならなかったかもしれません。しかし、その様な人の多くは、お金を出せないし、時間的余裕もない。と、なれば、ボランティアや家族、友人からの働きかけでしか対策がなされることはないでしょう。(この働きかけを行政がバックアップできればいいですね)

なので、「このページ」の「1. 犬・猫の殺処分0(ゼロ)を目指した取組の推進 」には是非、力を入れていただきたい。

それに対して、「2. 人と動物との共生のための施策の推進」についてですが「ペットと暮らすには勉強してくださいよ」とお願いすることはいいのですが、ここで「犬学校」が出てくることに、「特定の業種を推奨するようなことを書いていいのかな?」と思ったりする訳です。
何故、ボランティアや飼い主同士の意識の向上という考えがないのでしょうか。その答えは「今までダメだったじゃないか!」ということからでしょう。
しかし、TNRは個人同士の繋がりで少しづつ育ち、近年の行政の後押しを得て、実りました。近年の殺処分数の急激な減少はその果実に他ならないのではないでしょうか。
公共のドッグランの管理にも同様の効果を期待しておりますが、方向性の指導という点で、行政の関わりはこれからになり、効果はその後になることでしょう。

ペットブームがやってきて、2000年の改正以降、ペットと暮らす環境、社会からの視線もいい方向に変わって来ました。それを引っ張ってきたのはペット業界です。それについては感謝しています。業界は頑張ってきました。ある程度「来るところまで来た」という感じがあります。引っ張り揚げることが出来る人たちは、もう引っ張り揚げきった、という感じです。
次は、業界が引っ張り揚げることが出来なった人たちを、行政の後押しで、ボランティアや個人間で、引っ張り揚げなければ誰がやるのでしょうか。

このページ」に「ドイツやイギリスでは」とあり、先生のFBにも「ドイツは欧米や日本と比べて、犬猫(だったかな?)の飼育率が低いということです」と書いていますが、飼育率が低い理由は「簡単に飼うことが出来ない社会」だからです。経済的な余裕、時間的な余裕、さらに精神的な余裕がない人(というより家族・家庭ですね)には犬や猫を迎えることは「出来ない」と言ってもいいような社会です。それを今の日本に持ち込むことは「締めつけ」と感じることでしょう。
飼い主のモラルの向上をこれらに倣い、急激にこの方向に向かおうというのが、今の日本の愛護の考えのようですが、今までの(そして今でもそう感じている人が少なくない)「犬は外で番犬、猫は家と外を自由に行き来する」を頭ごなし否定するような形(「これからはこうなんだ!」と指導する)で行えば、そこに歪ができますよね。
その歪は、ペット業界にとって「指導する業界(トレーナー、インストラクター、シッター)」には活躍の場を提供することになりますが、その他の業界は喜ばしくない結果になることでしょう。
今まで(例えば)繁殖業界や生体販売業界は色々抜け道を探して、ときには作って対応してきました。そろそろそれも難しくなってきました。それくらい、行政は頑張っています。

しかし、国民全体の意識はどうでしょうか?、それに追いついているのなら、安易な繁殖により産まされてショップに並ぶペットを衝動買いする人は、もっと減るはずです(ここ数年減ってきたような気がしますが、まだまだだと思います)。
いきなり「簡単に買うんじゃないよ」と締めつけるのではなく「何故、安易に飼ってはいけないのか」を広く啓発し、(現実的に)「どのように迎え、飼えば(共に暮せば)いいのか」を示してあげなければならないはずです。このことについて「このページ」には、現実可能で効果が期待出来そうな提案が見当たりません。(ここだけではなく、ほとんどの施設でも。この書き込み全般を一般論として読んでくださいね。)

何故、このような啓発活動が出来ないのか。それは今まで何度か書いてきた「業界主導」だからです。商売を一生懸命やっている人たちの中に、まったりペットと暮らしている人は少ないし、手放すような人たちの生活もよく分かっていないので、「どのように暮らせばいい」と聞かれても、指導の方法を訊かれても、有効な対策を提案できないことでしょう。
補足しておきます。犬を手放す人の多くは、商売を一生懸命にやっている人や愛護活動を継続的にやり続けている人たちとは、時間やお金の使い方・回し方が違います。つまり「生活に対する感覚」が違います。
ここで書いていることは、「教科書的ないい飼い主」の話ではなく「現実の飼い主」です。業界の人が、行政やマスコミにそれらのことを聞かれたときに、外形的なことは理解していても、何故、そのようなことになるのかは、よく分かっていないし、先に書いたように(お金を払えないのですから)業界の人たちには関係のない部分でもあります。
その業界の人たちに(今までのことはとても有り難いと感じているし、それらの活動は今後も続けていって欲しいのですが)今後、新たなことを模索するときも頼り続けることに疑問を感じます。

業界主導にすると、動物を手放すような飼い主、それに近い飼い主、しっかり世話をしているけど経済的・時間的余裕のない飼い主などは、蚊帳の外になってしまいます。これらの飼い主の数が多いこと、そして殺処分数や虐待に関わる可能性が高いことから考えると、「犬の学校」などビジネス主導では効果が期待できないのでは、と考えます。
つまり「飼い主不在」「業界健在」の動物愛護行政では、これから先、充分な効果を得られないのでは、と危惧します。

飼い主のことだから飼い主に聞けばいいのですが、それをしてこなかった。敢えて聞かなくても、例えば職員の方たちも飼い主であることがありますが、業界の人たちの「正しい飼い主」まで至っていなかったり、明らかに至っていないとは言えないにしても、違和感のようものを感じてしまう。それは多くの飼い主が感じていることだと思います。「教科書的な飼い主とはこうあるべきだ!」と「飼い主として自分」に乖離がある人がほとんどではないでしょうか。

イギリスやドイツの施設に視察し、よく調べた人なら、施設運営の思想の基礎は「飼い主」であることが分かるはずです。なのでボランティアを受け入れるし、ヘンは人は断ることも出来る(やんわりとお断りするみたいですが)。そうやって入ってきたボランティアが育ち、施設運営に深く関わることになる。獣医やトレーナーとして関わるようになった人も、飼い主としての側面や飼い主への理解が尊重されて声がかかる。

日本に於いては、今までは、業界主導で良かったと思います。そろそろ次の段階ではないでしょうか。今まで「こっち向かない人のことなんて知らないよ」と切り捨てていたような人へのアプローチ(啓発)です。そこが殺処分数減少への本丸であることは多くの人が気付いているはず。

このページ」には、その部分が弱い。それは業界主導だから仕方ないのでしょう。方向性としてはいいと思いますが、体質的には足踏みではないでしょうか。「こっち向かない人」を変えることは出来ないでしょう。(何度も書きますが、この施設だけでなくほとんどが同じだと思います)

言いたいことの一点目は、だいたい以上のことです。
「誰に訊く?、それりゃ~プロでしょ!、業界人でしょ!」で、やっとここまで来ました。私が想像していた以上の早さで、世の中を変えてくれました。これには心から感謝しています。
業界といっても繁殖業界については締めつける必要がある(締めつけなければ、健全な生体を産みだそうという意識が広まらない)と私も感じていますが、それと同時に、飼い主にも「何故、安易な繁殖がイケナイのか」を伝える必要がありますが、それは後回しにされてきた。「飼い主不在」を感じます。

「飼い主」というものを学問的に統計をとるなどして、それを行政の現場に活かすという方法もありますが、私が知る限り(最近、幾つもの大学で試みているようですが)「どのようにデータをとっていいのか分からない」のが現状だと思います。
その理由は、飼い主(人)とペット(動物)の関係のバックグランドはとても広範囲であり、それを理解していないようだし、調べる(データを集める)ことも、なかなか難しいのが現状です。

ならば、センターなどで「この人(飼い主)、いいな~」と思える人に活躍していただき、その人から学べる場を作る必要があるのではないでしょうか。「飼い主」として素敵だと伝わってくる、つまり、ペットと共に活動出来る、啓発活動、その他、愛護活動、社会福祉活動の場を提供すればいいのです。その一つとしてAAAなどがあります。
それら運営は何かと問題も出て来るかと思いますが、まずそのような場があることが重要ではないでしょうか。また、問題が発生すれば「飼い主の問題」と捉え「飼い主」を知るデータとして受け止めるべきです。
このような活動を通して「実際の」「現実可能な」動物との「素敵な生活」を広める時期に来ていると感じています。

この「飼い主不在」の施策を、先生への書き込みで「多くのところで同じ勘違いがされていて」と表現しました。
業界の人に指導していただけば、「飼い主不在」は仕方ありません。なので、最後の一行「業界に関わりをもったら言えないのかな」となります。

そろそろ「こっち向かない人」の「心」に重きを置くことを考えるところまで(やっと?)辿り着いたと思います。彼らを「切り捨てる」方法もあります。それを考えるのであれば、それにより生まれる歪対応も考えてください。それは実現可能な方法だと思いますが、愛護活動が「多くの飼い主を切り捨てる」ことに違和感を感じます。また、切り捨てられた人たちは、地下に潜るだけでは、とも考えます。

以上、一点目は「飼い主不在」対策も頑張って考えてください!、ってことです。

 

やっと、二点目へ。(一点目に比べれば、短いです)
FBの前半の「よく頑張っているのかもしれませんが、「繁殖者」という視点がないのが残念」について。

今まで書いてきたような「こっち向かない人」も含め、多くの飼い主さんと話を重ねてゆくと、犬も猫もその他の動物も、人間と同じように「遺伝」というものがあることに気が付きます。体つきも性格も遺伝する。
これらを理解していれば(なんて高尚なものではなく、経験的に知れば)捨てられない犬や猫を生み出すことが出来ることが分かります。安直な表現ですが「飼い易い動物を産みだすことは、繁殖でコントロールできる」と言うことです。
それを確認しながら繁殖するには、子供を残したり、飼い主と末長く付き合わなければならないし、それらのデータを整理するために仕事が増え、ビジネスとして成り立ちません。
「ホビー・ブリーダー」という言葉がそれをよく表していると思います。

このページ」に「犬の学校」が出てきますが、この辺りを読んだ時、飼い主(繁殖者からすれば他人)との心地よい暮らしを考えた繁殖をしている人がいることを知らないのかな、知らない振りをしているのかな、と思ったりしました。
まるで「犬は全て猛獣か珍獣で、一緒に暮らしているだけでは分かり合えないからプロの人に教えを請いなさい」と読める一文(「犬の学校」等を通じて養われた飼い主の高度の飼育能力)は、繁殖者への責任を隠しているように見えます。猛獣や珍獣ではない、ペットらしいペットとして繁殖する責任を。
その後に「それを前提にした、ペットの受け入れに対する人々の理解力」と書いてありますが、繁殖に関しては一切触れていない。意図的に除外しているように感じますが、ほとんどのところで同様ですね。

以上のことから、繁殖業者への配慮を感じました。

「欧州でもそんな話聞かないよ?」という人には「もっと深く調べて!」と言いたいです。
欧州でも日本と同様、核家族化が進み、動物との暮らしが文化として継承されず「犬の学校」のようなところで、犬との暮らしを教えていただくことになり、繁殖の重要性を忘れられがちのようですが、繁殖者(ブリーダー)がそれを忘れていません。譲っていただく側(飼い主)も繁殖者の所へ行き、話をきき、犬を見せてもらい、触らしてもらうのが普通ですが、その過程だけでも判断材料になることは幾つもあると思います。(滲み出て伝わるというか。)

新しい家族の中で幸せに暮らすことを祈って繁殖する人たちは、飼い主としても魅力的です。「この人に譲って、私が繁殖した動物は幸せになれるか」とその度考えます。そのような繁殖者が今の愛護活動をしている人の中にどれくらいいるでしょうか。そのような人たちからどれだけ話を聞いているでしょうか。(そのような繁殖者は忙しいので活動には参加できないと思います。動物の世話は途切れないですから。)

 

愛護活動といえば「殺処分数」「虐待問題」がクローズアップされ活発な活動がなされています。それは取り組む必要があることがですが、それと各飼い主の手中にある「動物との生活の質」はリンクしているはずです。より多くの人が「心地よい動物との生活」を送ることが出来なければ「殺処分数」も「虐待問題」も何処かで下げ止まることでしょう。
「虐待や迷惑でなければいい。みんなそれぞれ楽しめばいいじゃないか!」も一理あると思いますが、楽しみ方を広めたり、楽しみ方のチェックをする(というと大袈裟ですが、日々の生活のことを聴く)なんてことも必要なのではないでしょうか。そのデータもなく話をまとめようとすれば、どうしても現実に即さない教科書的な話に流れます。

長年、犬や猫、その他の動物と心地よい生活をしてきた人ならば、繁殖をした人、近くで見てきた人も多いはず(そのような人たちでも、今は繁殖をしないようになった人が増えてきました。理由は色々ありますが締めつけの結果もあります)。その感覚でブリーダーをやってきた人もいます。今までそのような人たちの話を聞いてこなかったのではないでしょうか。その理由は分からないでもありません。科学に裏付けられた検査よりも自分の経験を重視したりするからです。私の経験からすれば(犬しか知りませんが)、科学の裏付けよりも、長年の経験により繁殖された犬の方が素敵な犬が多いです。

動物福祉は科学に裏づけされるべきですが、動物愛護はそれ以上の材料により判断する必要があると考えています。個人的に、繁殖はそれに似ていると感じています。なので論じることは難しいです。しかし、そろそろ論じ始めてもいい時期ではないでしょうか。

 

日本における愛護活動は北風のように感じています。
「殺処分数を減らそう」「虐待を減らそう」。どちらも必要でどんどんやって欲しい活動です。しかし、その実現方法が「禁止する」ばかりであることが残念です。それに対し、少しでも同感できない部分がある人は、胸襟を閉じ、関わらないようにしたくなるのだと思います。

飼い主が「手放すことなんてありえない。もし手放すことがあったとしても、引取ってもらう人は決めているし、その人がダメでも引取って欲しいと言ってくれる人はいる」「虐待なんて考えるはずがない」と皆が言えるくらいの生活になってくれることを考えてもいいのではないでしょうか。
ボタンを外し光を浴び、体を温めたくなるような、そんな活動が、必要になってきているのではないでしょうか。

「イギリスやドイツ」を目指すのであれば、彼の国々で積み上げられた歴史を短期間で得ようとするならば、こんな活動も不可欠になるはずです。(締めつけが前提にあるのならバランスとして必要ではないでしょうか)

 

======================

20131217aまいすが死んで9日。
彼は障害をもって我が家にやって来ました。どれだけ生きることが出来るかも分かりませんでしたが、14年以上我が家に居てくれました。
彼が我が家に来た当時、猫のことを全く知らない私は、彼に酷いことしました。今の私なら「それは虐待だ!」と指摘するでしょう。しかし、当時の私は知らなかった。もし、それを教えてくれる人が、いや、猫がどんな動物か知ることが簡単に出来る社会であれば、私はあんなことをせずに、はじめから穏やかに暮らせたはずです。
この9日間、涙を流さない日は一日もありません。それだけ彼は素晴らしい猫でした。(顔は別にして)何処に連れていっても恥ずかしくない猫でした。誇りであり、宝でした。
そんな彼に酷いをことをしてしまったことは、今も心が痛みます。人によっては手放したことでしょう

そのような人が一人でも減って欲しいと、心より願っています。

 

お忙しい中、ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

心より感謝申し上げます。

率直な感想をコメントいただければ嬉しいです。
メアドの入力を要求されますが、それは適当に書いていただいてもOKです。
いただいたコメントに対して、コメントを出来ないこともありますがご了承ください。

| | コメント (0)

2013年9月20日 (金)

犬や猫を譲渡する時、お金は?(1)

久しぶりの大作です(爆)。FaceBook のやり取りの中で「犬や猫を譲渡する時に、お金をもらうことは重要では?」という問いかけに対し「私もそう思うけど、でも・・・」とこの先を書こうと思ったのですが、簡潔に書くことが出来る文章力がないな、と、こちらで書くことにしました。
量を制限せず書くのだからと、思いっきり書くことにします

本文中、意図的に虚偽の記述が含まれています。また、やり取りした人への答えであることが前提なので、一部偏った話が出てきます。引用などする場合は慎重に。

Twitter のリツィート、FaceBookのシェアはどんどんしてください。批判的なコメント付きでも歓迎です。皆さんからのご意見、お待ちしております。
そして、この内容が私の知らない、届いて欲しいと願う人に届くことを願って。

では、はじまり、はじまり

昔々、まだ私が子供の頃、犬や猫は、近所で無計画に産まれて、その中の一匹を貰ってくるのが一般的なことでした。

私が成人し、山の麓に住んでみたり、最果ての島でちょっと暮らしてみたりしたときに、似たような話を聞きました。貰い手がつかない犬は埋められたり、沈められたり。20年、30年近く前の話です。今はどうだか。

今、8週齢がどうしたとか言っていますが、目が開くまでに譲る。何故なら目が開いたら魂が入り、殺してはいけない。そんな話をきいた。
その他、地方に暮らすと、嘘か真か掴み処のない、たぶん真の話を幾つも訊いた。日本の動物との関わりの歴史というか、民族としての「感覚」をおもい知らされました。(とても勉強になった貴重な話もありましたけど。)

つづく

| | コメント (0)

2013年7月 4日 (木)

FaceBookの写真の並び

うーにーが来た年、1994年の写真をFaceBookにアップした。でも、並びがおかしい

どうにか並び変えが出来ないものかとネットで調べてみた。

アルバムを選択し、右上の「編集」へ。そこで只管(ひたすら)ドラッグで並び変える
ネットを見ると日付順に自動で並び変えてくれるようなことが書かれているページもあるのですが、私の画面には出てこない(他にも「出てこない」という書き込みありました)

やっと整理できたので、1995年をやろうかな・・・

| | コメント (0)

2013年6月15日 (土)

雲丹写真1994

うーにーの写真とか思い出とか整理しようと思ったけど、どうやればいいのか分からなかった。
旅行一つにしても、思い出はいっぱいなので、ちょっとためらってしまっていた。

断片的な思い出が多いだろう、来たばかりのことに手をつけようと思った。断片的ならば、FaceBook のアルバムでもいいかな、とやってみた。うーにーが来た1994年の写真を幾つかアップしてみました。
 

結果はこちら

(いいね)
写真の一覧が分かるのがいい
仔犬のときのことは、もう忘れていたな~、と。

(いくないね)
文字が読みにくい。後から検索出来ない
当時はデジカメもないし、一眼レフでもなかった。それをスキャナーで取り込んでいるので、画質はよくないし、ホコリが入ってしまっていることもある

(やってみて分かったこと)
思い出いっぱい過ぎる
トピック的に文章を書いたけど、頭の中には「あのとき、こんな人とあって、こんな表情していて、うーにーがこんなことして・・・」などなど、覚えているものですね。

 

さてさて、1995もやるべきか?

| | コメント (0)

2013年6月11日 (火)

動物の愛護及び管理に関する施策を総合的に推進するための基本的な指針

昨年、動愛法が改正され、今年の9月に施行される。それにともない(国の)基準やら指針も変わっていく。

「指針はまだかな~」と思っていたら、修正箇所が分かるものが先月末に出ていたようです。

こちら

勉強会などでも伝えていますが、「飼い主のいない猫対策」と「引取動物の譲渡」は引き続き、前進していることを感じます。

災害時対策も、今まで以上に現実的に推進することを求めています。

言葉の使い方も、現場的になっていることを感じ、「作っている人も分かってきたな」「本気かも」と感じる部分もあります。
 

これからには、推進員さんたちが活躍することになると思いますが、以下の記述には驚きました。「これしかいないの?」と

-----------(11ページ)

・・・都道府県知事、指定都市及び中核市の長により委嘱された動物愛護推進員等の人数は、平成15 年度末現在には、98 地方公共団体中2 1 地方公共団体、約1400 人にとどまっているなどであったところ、平成 23 年度末現在、108 地方公共団体中60 地方公共団体、約2900 人へ増加したが、・・・

----------------

法律とその周辺も変わって、今後、都道府県の条例、その先、区市町村の条例も変わり、施行され、今まで以上に力強く動きだしそうな予感です

| | コメント (0)

より以前の記事一覧