2018年9月15日 (土)

新江ノ島水族館(その4)

その3から)

なかなか書きにくいテーマだなと、書くのに手間取っていたら、こんなニュースが流れてきた。

https://www3.nhk.or.jp/news/easy/k10011624491000/k10011624491000.html
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180911-00000070-asahi-spo

こういう大会のセレモニーのイベントとして承認もなく行うことは、非常識だと私も感じます。現在、万人が楽しめるものではなく、一部の人には著しく不快に感じるのですから。
今は慎重にショーも続ける必要があり、議論も必要な時期だとおもいます。

その議論の中で、色々な立場の人の考えを並べて聞いてみたいです。
特に、日々イルカたちの相手をしている人たちの考えや感じていること、何を理想と考えているのかなどを聴いてみたい。

 

自分がある動物に対して湧いてくる感情が、他人も同様な感情が湧くとは限らず、逆の感情をもつ人もいることを認識しなければならない時代になりました。

各地域に昔からある文化・習慣等からの動物の扱いも見直さなければなりません。
グローバリズムなる言葉が知られるようになって久しくなりました。さらに、インターネットが世界的に普及し、文字だけでなく静止画・動画も個人レベルで共有されています。
たぶん一生行くこともないだろう土地で起こっていることの情報が動画で見る事ができ、複数の人からの情報を得ることが出来る(意見も聴くことが出来る)時代です。

「日本古来の文化だから鯨を食べてきた。だからこれからも食べる」は、通用しない時代です。「世界全体で考えよう、情報共有、感情共有しよう!」という時代になってきました。

 

イルカのショーも同様の問題なのでしょう。

イルカのショーが世界的に問題視されていることは、ネットのニュースなどでも伝わってきていました。イルカを(人間の)治療などに参加させることについても、今までは配慮が不充分であったという認識が一般的になりつつあるらしいことも資料を読んだことがあります。しかし、私には高度で理解しきれませんでした。

前の方(その2)で「日常のご飯をあげるときに、じゃれあうようにトレーニングすることはそんなにいけないことなのだろうか」と書きました。
私がトレーニングを体験した相手は、馬と犬。その経験から言わせていただければ、食べ物をあげるとき(イルカからすればもらうとき)が、トレーニングの切欠になっても大きな問題はないような気がします。
しかし馬と犬は、人との関係において特殊であるといわれているので(動物のカテゴリーとして)野生動物とされるイルカにあてはめるのは間違えなのだろう。
つまり、私のような感覚で今までは水族館などのイルカショーが行われてきたが、それが間違えだ、と考えられるようになってきた様です。
(野生動物をペットにしようと考えてはいけないのも、同様の考え方だとおもいます。)

 

日本でもイルカのショーの中止を求める意見がネットで見かけるようになりました。ただし、そこに書かれている根拠を私は理解できません。大きな愛護団体や何処かの論文などに書いてあるとかいうものがほとんどで詳しくは書かれていません。
治療などに参加させることの是非についての意見も、(少しだけ読んだだけですが)「全体のこととしていいのかな?、事例が少ないのでは?」と疑問をもつような私には、こちらの論文等も「そんなに酷いのかなぁ」と感じてしまいました。

 

このような問題に関わる文書を読んでいると、こんなことが頭に浮かぶ。

日々、イルカの世話をしたり、ショーで一緒に歌ったり踊ったりしている人たちはどう思っているのだろう。
そのような仕事に就くのだから、イルカのことが大好きなのだろう。好きなことを仕事にすると葛藤があると言われますが、動物の仕事はそれが大きいことも予想できるだろうし、予想できなくても仕事に就けば分かることだ。
日々、イルカと一緒にいる人たちが、海獣の(ショーを含めた)今の飼育について、どのようにおもっているか・感じているのかを知りたい。現在議論されている内容について、勉強されている人もいるだろう。そのような海獣について知識・経験が豊富な人に話を聴きたい。

もし法律などで規制されるようになり、今とは違う感覚で飼育することになったとしたら、その飼育を行うも彼らだろう。そんな彼らがどのように感じているか是非話を聴きたいし、聴くべきなのではないだろうか。

 

その動物に近い人、現場の人、そのような人たちの話を聴きたい。

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新江ノ島水族館(その3)

その2より)

「カワウソを飼いたい!」と口にしていた女の子たちが、本気で云っていたのかは定かではありませんが、ニュースで「カワウソが人気で密輸までされている」と伝わってきている。

売れるものは売る。合法であるものは当然だし、人によっては違法であっても売買する。違法に入手した店舗から一般の人が(どのように仕入れたかを知らずに)その動物を購入することもあるだろう。

このようなことは昔からのこと。このようなことがなくなるには、「動物を飼うのは簡単ではない。忙しい現代人は特に。そして、珍しい動物は健康を保つのが大変。その動物を診ることができる獣医師を探すのも大変である」ということが一般常識にならなければ、この状況は変わらないとおもう。
また、幾つかの法律もあり「飼ったらその動物の健康管理をしっかり行うのは当然。面倒だから捨てることは出来ない。健康に飼い続けなければならない」時代である。

最近は情報が氾濫し、AだからBだ!的な解り易い情報が好まれている。そのような形式であるなら、「野生動物は一般人が飼うものではない」と広まってほしい。その理由は上記のこもともありますが他にも理由は多々あります。その理由をしっかり勉強してくれる人はほとんどいないのではないかと思うくらいに。何故なら動物は多種多様であり個体差もあるからだ。
なので単純に、「野生動物は一般人が飼うものではない」と広ってくれればいい。

広める方法の一つは教育だろう。そしてもう一つは法律で罰することだろう。つまり「やってはいけないことなんだよ」と見せしめる。
逮捕されれば、テレビなどでは実名報道がされなくてもネットで知れてしまうのが今の世の中。懲役刑になれば、さらに多くのものを失うだろう。
その過程を目にする人が増えれば、「あんなことをしてはいけないのね」と分かってもらえることでしょう。

法律で罰するようにするには問題があります。
今まで特にお咎めがなかったことを、あるとき急に咎められるようになるのであれば、今までやっていた商売できなくなる人も出てきます。その対応も含めて考えねばなりません。
この20年間は特に、動物を飼育することに対する法律の動きが活発です。法律を作ることはとても大変な作業です。それを国民に理解してもらうことも。そして、実効性のあるものにすることも。

20年あれば、子供も大人になります。教育の方でも力をいれていただければと願うばかりです。

とにかく、簡単に解決できる問題ではありません。可愛いカワウソを見ながら、可愛い若い女性の声を聞き、そんなことを考えてしまいました。

 

水族館を出たのはもう14時も近かった。駅に向かう途中、しらす丼の看板を出しているお店で遅い昼食を食べた。店内で聞こえる話声から、他のお客さんは、私たちと同じように水族館に来た人か、海水浴客のようだった。

そして電車に乗って我が家に向かう。電車のお客さんの多くは、やはり水族館か海に来た人たちだろう。夏の暑い日だったので、疲れが顔に表れている人が多い。

私はイルカショーのこと、動物園や水族館のこと、鯨を食べることなどが頭に浮かんでしまう。周りからは疲れた顔に見えたことだろう。

 

20180824_2女房は水族館で、おばまにお土産を買った。ガチャガチャで出てくるかぶりものである。どんなものがあるのが写真があった。ゴマちゃんやウーパールーパーなど可愛いものがあった。唯一あまり可愛くないし、デザインも単純で「これだけは出てほしくない」と思ったのがシャチ。
お金を入れて、ぐるっと回して出てきたものは、シャチ。

ばまちゃん、ごめんね。でも、それなりに似合っているかも。
鋭い眼差し(?)で猫パンチの瞬間まで撮らせてくれました。

つづく

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新江ノ島水族館(その2)

その1より)

新江ノ島水族館に行き、あちこち観ていた。
イルカのショーが始まる時間になったので会場へ向かった。着くと既に説明が始まっていた。

遅れて着いたので、ある程度楽しめる(見る事ができる)場所を探さねばならない。場所探しをしながら、説明に耳を傾ける。
「前の方の人は水が飛び散るから気をつけて」、とかそんなことだろうと思ったのですが、どうも説明が長い。「食べ物が、、」どうとか言っている。そのとき更に思い出した。

日本の水族館におけるイルカの入手方法が問題になり始めたのは何年くらい前だろうか。更に、イルカを飼育することを問題視している人たちもいます。ショーやそのためのトレーニング方法についても問題視している人たちもいるらしい。
そのようなことが関係していると思われましたが、場所探しに一所懸命になり詳しくは聴いていなかった。

 

そしてショーが始まる。ビックリした。「なんなんだこれは?」と思った。
イルカのショーと云えば、直立不動に近い姿勢の飼育員さん(服装も、如何にも飼育員さん)が腕をさっと上げてホイッスルをピッと吹くものかとおもっていた。全く違う。
妖精のような衣装とカラフルな網のようなスカートなのか道具なのか分からないものを身に付けている。そのような姿をした4人が出てきました。彼女たちは歌って踊る(口パクではない)。彼女たちのショーに、イルカやその他小型の鯨が一緒に参加するという形式になっている。

確かに食べ物を与えることもなく、イルカ達が一緒に参加している。慣れの問題だとおもいますが、不自然さを感じるし、力強さを感じない。自然の動きなので、そう感じるのだろう。この違和感は「イルカのショーとはこういうもの」という固定概念からくるものだろう。

地味な作業服やウェットスーツなどではない、カラフルな衣装できちんと歌って踊って(水の中ではシンクロナイズド・スイミングのように踊っていました)イルカとショーをやるのは、とても大変なことだとおもう。
パフォーマンスとしては評価すべき点は多々ありましたが、私個人としては「ここまで、こここに力を入れる必要あるの?」と感じてしまった。

日常のご飯をあげるときに、じゃれあうようにトレーニングすることはそんなにいけないことなのだろうか。「うわ~い、ご飯だ!、楽しい時間だ!」とはしゃいではいけないのだろうか。
野生のイルカの日常には、そんな時間はないのだろうか。

 

こちらに来る一週間くらい前に、女房がこんなことを言った。

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今日、スーパーに行って(ばまちゃん用の)刺身を探していたら、とっても赤黒くてちょっと違う感じのものがあったと思ったら鯨だった。
===============

このショーにはイルカ以外に小型の鯨(ハナゴンドウらしい)も出ていた。イルカよりも体が大きく、丸みを帯びた額が可愛い。
ショーを見ていたら、ふと女房の言葉が頭に浮かんだ。今、一般的に販売されているのは小型の鯨がほとんどだろうということも頭に浮かんで、「やはりもう鯨を食べるのはやめよう」とおもった。
それは、身近な動物(犬や猫など)を食べようとは思わない感覚に似ている。
実際に目の前にショーを行っている鯨を見たからこその感情だろう。

 

その後、カワウソの餌あげの時間だというので行ってみた。
ガラスの向こうにカワウソはいる。三方向がガラスになっており、餌あげがよく見える正面は人がいっぱいでもう観ることが出来なかったので、横や裏に行ってみていた。その辺りだとアナウンスがよく聞こえないので、何を説明していたのか分からない。

耳に入ってくるのは、あちこちの女の子の「カワウソ可愛いぃ~、飼いた~い」という言葉。

現在、カワウソの密輸が問題になっている。動物の飼育を仕事にしていたことがある人間としては、「水のある環境(すいすい泳げるくらいの大きさ)を提供するだけで大変だろうな。食べ物はペレットみたいのもあるだろうけど、やはり新鮮なものをあげないと病気になるだろう。あと日光浴もさせないと。紫外線当てとけばどうにかなるということじゃないだろう。相当なお金持ちでないとまともに飼うことは出来ないだろうな」と思ってしまう。

簡単に飼いたいと思うのは、「餌をあげていればお互い幸せ」とおもってしまうからだろう。
人間も身体を動かすトレーニングを日常的にやっている人がいるくらい、身体を動かすことは健康に必要なこと。(人間も)食べ物についても色々と語られている。身体といっても体だけではなく心も。飼育環境により心の状態が悪くなれば病気にもなるし、人間との関係も悪くなる。

たまに、しかもガラスの向こうやテレビなどの画面の向こうでしか見ない人には直感できないことなのだろう。

 

カピバラの展示もあった。
展示されている場所(放飼場)に不自然さを感じてしまいました。この水族館に必要なのか。最近の動物園や水族館にはいるのが当たり前の存在なのかも。

その横にはウミガメの展示場所。複数種類がよく見えるように展示されていて嬉しい反面、小笠原でウミガメを間近で見たり、沖縄の離島で話を聞いたりした人間としては、これも不自然に感じました。でも、また海で会いたい思いました。

生のウミガメを間近でみれて良かった、とおもった。忘れていた何かを思い出させてくれたと感謝した。

矛盾に満ちて我が侭です。

 

動物を展示することはどうしても不自然になってしまうことは仕方ないことですが、レテビやDVDなどで見るのとは違うものを感じます。
画面の向こうに映る小型の鯨を見ても「食べるのをやめよう」と思ったことは一度もありません。ウミガメの映像を見て、また南の海に行きたいと思ったことはありません。その違いは説明できませんが確かに違います。

そんなこともありますので、私は最小限動物園や水族館を存続してほしいと考えています。

 

そのためには客観的に理解できる議論がされることを望みます。
つづいて、そんなことを書いてみたいとおもいます。

つづく

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新江ノ島水族館(その1)

8月23日(木)、新江ノ島水族館に女房と行ってきました。
http://www.enosui.com/

特に何が見たいということもなく、なんとなく行くことに。

風はありましたが晴れて暑い日でした。いつもは車で動く我が家ですが、この日は電車で行くことに。
小田急線で藤沢までは快速急行が行ってくれるので速いです。最後の藤沢・片瀬江ノ島間が乗り換えもしなければならず、少々面倒でした。

駅から少し歩きます。その間、海水浴客とおもわれる人たちの姿がありました。そして水族館が近くなると、砂浜に並ぶ「海の家」も見え、「そういえば湘南の海って海水浴に来たことないかも」とおもったり。

まだ女房と結婚したかしないかくらいの頃(まだ江ノ島水族館だった頃)マンボウを見に来たことを記憶しています。あの当時とは海沿いの道からして雰囲気が全く違う。

 

今年の三月に行ったサンシャイン水族館と展示の考え方が似ている。その生き物の生態を紹介することを基本としている。その上で、お客さんが見易いよう工夫をしている。

マンボウはもういない。
大きな水槽には、大小色々な種類の魚などがいっぱいで、スタッフのお姉さんが水槽の中に入り、魚の説明をするショーをやっていた。女房曰く、「魚の方が危険じゃない。ばまちゃんよりも、、」とため息をつきながら呟く。
深海の生き物については、生体以外のものを含めて展示に力をいれているのを感じた。深海生物が好きな私たちは興味深く見ましたが、やはり生体が見たかったなと思うこともありました。
ここはクラゲの展示が有名らしい。幾つもの水槽あり展示方法も色々。
20180823_1水族館なので、魚を個別に展示している水槽もあった。
フウセンウオの赤ちゃんは見ていて飽きない。家に飾っておきたい気持ちにもなりますが、これは赤ちゃんで成魚になったら姿は違うだろうし、生き物ですからその気持ちにはブレーキを。だからといって写真を飾ってもつまらない。

 

入口でいただいたプログラムには、イベント開始の時間が書いてある。そろそろイルカのショーが始まるとのことで、会場に向かう。

途中、砂浜が見える通路があった。黄色い旗が強風に晒されていた。風が強く白波が立っていた。お盆も過ぎていたからだろうか、風のせいだろうか、海水浴客の姿はあまり見えない。強い日差し、強風にはためく黄色の旗、濁って白波が立つ海、その手前には綺麗な海の家が並ぶ。その風景がどこか寂しく感じた。

通路の先にイルカのショーの会場はあった。そのとき何気なく思い出した。
ここのイルカの飼育について一部の人たちが問題視していることを。
会場に着くと、既に説明が始まっていた。

つづく

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2018年8月22日 (水)

アゲハ再び(たぶん)

20180822_172704もう「アゲハ」というカテゴリーを作った方が良さそうな、このブログ。

アゲハの幼虫に食い尽くされたイタリアン・パセリも葉が出始めてきた。幼虫たちは蛹になるために姿を消し、イタリアン・パセリは鬼のいぬ間の復活に励んでいる。

「このまま茂ってくれれば幼虫がいっぱいきても大丈夫かも。あと2週間くらいかな」とおもいながら、葉をよく見てみたら、写真の通り。たぶん、キアゲハの卵です。

全て違うプランターの葉です。見つけられないものもあるはずなので、また食料危機になりそうです。

20180822_172803  20180822_172837

こことは別の明日葉が茂った場所では、30匹くらいの小さな幼虫がいました。
彼らは明日葉を消化しきれずに黄色い液状の排泄物をするので小さくてもすぐに見つかります。明日葉は(今のところ)大量にありますが、この数ではこちらでも食料危機になることでしょう。

こんなことをやっているのを、近所で一生懸命ガーデニングやっている人が知ったら腹立たしくおもうかもcoldsweats01

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2018年8月13日 (月)

手は出さないように(アゲハの幼虫)

これは備忘録。今後も余計なことはしなように、という意味で。

アゲハの幼虫たちのほとんどは、脱皮を繰り返し、姿を消した。どこかで蛹になっているのだろう。

しかし、3匹だけ成長を遅らせどうにか生きているものがいた。それらは種や皮を食べている。
内一匹がベランダにいた。彼が居た鉢は、種が乾燥し、枝も乾燥し始め、何も食べられない状態だった。私が見た限り2日ほど動いたのを見たことがない(場所は少し移動していた)。体が少ししぼんで(張りがなくなって)きているように見えた。これは時間の問題か、とおもった。

ちょうどその頃、他のプランターに葉がつき始めたので、移動してあげることを考えた。
指でつまむと、触角を出し、口から薄いオレンジ色の液体を出した。口から液体を出すのはあまり記憶にないが、水分を出すくらい余裕があるのかとおもっていた。

そして葉が生え始めたプランターに移動。
置いてすぐは少し動いて、歯を食べそうになったが食べない。たぶん休憩時間なんだろうとおもっていた。これは8月9日の午前中だった。

その後、ときどき見ていたが、食べる様子もないし動いていなようだ。身体も皺ががくっきりしてきたし、肌も乾燥してきているかんじだった。
、移動してから二日後、下の写真のようになり、3時間後くらいには落ちていた。

20180811_124303  20180811_124317

身体の真ん中辺りの脚をしっかりと茎につけて、そこから折れるように亡くなっていた。最後の力は「とにかくしがみついていよう」とおもっていたのだろう。身体はしぼんでいた。

私が移動したからこのようになったのだろうか。たぶん、あのままでも同じだったとおもう。
「もしかしたら」という気持ちがぬぐえないので、今後はこのようなことは辞めようと心に誓った。

似たような固体が道路面の株にいるがそのままにしておこう。
以前、道路面辺りにいたが玄関横に移動した個体(前回の書込みで正面写真を撮ったもの)は丸々と太り、「まだ蛹にならないの?」とおもうくらいになったのですが、大雨の直前に姿を消しました。たぶんどこかで蛹になったことでしょう。

20180811_124414ベランダで種と皮だけを食べて、大きくなれずに最終齢を迎え、近場で蛹になった個体はまだ蛹でいる。


とにかく、以降は(余程確実でない限り)幼虫の移動他、手を貸すのはやめるようにしよう。

 

今朝(8月13日)、ベランダに(たぶん)キアゲハがやってきていた。今、卵を産み付けられてしまうと、また食糧問題が発生するので別の場所で卵を産んでほしい。しかし、庭によっては害虫扱いされる。

たぶん、このブログも「害虫育てて何が面白いんだ、いい加減にしろ!」と思いながら読んでいる方もいらっしゃることでしょう。

世の中って、そういうものですよね。

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2018年8月 9日 (木)

「進化」について

前回のブログを書いていて、進化について考えた。

ダーウィン的な進化論は、その環境下で優位な遺伝子をもった個体が突然出てきて、生存競争で残り、そして子孫を残していった結果、と私は理解している。
つまり、ある種の突然変異を起こした(他の個体とは遺伝子が違う)固体が、種としての進化の引き金となる、と理解している。

10年以上キアゲハの幼虫を見ていて思ったことは、遺伝子の変化がなくても、種としての行動に変化が起こることがあるということ(形の変化はないようですが)。

 

幼虫たちが姿を現した当時は、食べ物(イタリアンパセリの葉)にも余裕があった。
余裕がなくなると姿を消してゆくものもいる。成長を遅くするものもいる。
それ以外に、今まで食べなかったものを食べるものが出てきた。

 
一つは、明日葉。
これを食べられるようになる個体の数はとても限られている。ほとんど個体は生まれたときに口にしない限り、まず食べることはないようです。
どちらも「セリ科」ではあるが、イタリアンパセリは「オランダゼリ属」、明日葉は「シシウド属」。見た目からして全く違う。
前回も書きましたが、これを食べても消化しきれていないようで、黄色い液体状の排泄物をを出します。
これらの数は、その時々で多少の幅はあるのですがとても少数であることは変わりない。(明日葉が食べて黒い丸い排泄物が出せるようになるには遺伝子レベルでの変化が必要とおもわれます。)

二つ目は、イタリアンパセリの種を食べる幼虫だった。
まだ実の形になったばかりの緑色の種を食べていた。葉に比べて栄養が多いためか、一気に食べることをしない。彼らに共通なことは、最終齢の手前で色白になる。
このような個体は、葉も食べることが出来るし、次の茎も食べることが出来る。

三つ目は(種のところで書きましたが)茎を食べるようになった個体。
実を食べた後、その付け根まで食べたことが始まりではないかと想像している。平たく言えば、実を食べた勢いあまって食べたのではないかと思っている。
葉だけ食べている個体にとって茎を食べることは咀嚼する力を考えると難しいだろう。

種や茎を食べる個体は葉も食べる。そして争わない。
昔、皆が葉だけ食べていた頃は、近くに他の固体が来ると角を出し、音を出し、威嚇していましたが、最近はそれを見聞きしなくなった。

四つ目は、茎の皮。
これが出来る個体数は少ないのですが、確実に増えているのを感じます。明日葉を食べる個体のより多くなりました。
何故、茎そのものを食べないのか不思議だったのですが、茎の先が枯れてしまうと食べないようです。仕方なく、先端以外の所を齧ったら皮を食べることが出来たのでしょう。
彼らは、葉を見つけることが出来れば、このようなことしません。

 

イタリアンパセリの何処まで食べることが出来るか、ではありますが、食性が変わったように見えてなりません。
葉を食べるだけであれば、それに必要な口の能力があればいいのであり、実や茎を食べるほどの頑丈な口は必要ないとおもいます。

たぶん、「実を頑張って食べたら、すぐにお腹いっぱいなった」(食事のために使うエネルギーが少なくて済んだ)ことから、この方向に変化していったのだと想像しています。

理由は分かりませんが、一匹だけということはなく、周囲の個体の中から同じことをやる個体が出てきます。実を食べる個体がいると、1~2日経つとその周囲で他の個体が食べ始めることがあります。
犬や猫が他の個体から行動様式を得ることに似ていると思いますが、コミュニケーション能力のツールである、視覚等の能力が違いすぎるので、信じられない気持ちはあります。

補足(前回も書いたことですが)。
イタリアンパセリは実をつける前、花を咲かす頃から葉の形を変える。この葉は、彼らは食べることが出来ない。なので、実のある株に登った幼虫は、実または茎を食べるしかない。
それでも実をつけている株に居続ける個体がいる(色白になる)。

 

環境の変化に合わせられるようになった個体が増え、色々な部分が食べられるようになっただけ。そして、仲良くなって団体行動がとれるようになっただけ、で進化とまではいないのかもしれない。

戦後、日本人は肉を多く食べるようになり、生活習慣が変わり、体が大きくなった。これは進化とは呼べないかもしれない。きっと誰も呼ばないだろう。
これに似ているような気がする。

最近のことですが、ラジオを聴いていると「ここまで成功できた理由はどのようなところにありますか?」とアーティストや起業家に問うことがありますが、その答えの中に「常に努力し続け、チャンスを確実に前進につなげる」との内容であることをときどき訊く。
これにも似ていますね。

 

キアゲハの幼虫同士がコミュニケーションをとれるとは思っていませんでしたが、行動を真似ることや団体行動をみると少しはあるのかもしれないとおもうようになってきました。
それであっても、世代を重ねて行動が強化してゆくのが不思議です。何処かに書いておく能力があるとは思えないし、蝶になってから幼虫に教えに来るとも思えない。
世代が進むときに、行動が記憶されてゆくように見えてならなりません。もしかしたら、それにより、身体の形や能力も変わってくるのではないだろうか。例えば、実を食べるのに適した口に変えてゆくとか。
それが進化の一助になることがあるのではないか。もしそうであるなら、その情報の伝達は遺伝子に載せる以外にないだろう。そうであるなら、一種の突然変異と解釈されても良いのではないか。

 

進化に遺伝子レベルで証明できる突然変異が必要なことは理解できますが、それが起こる前に、努力する個体がいること。そして、その努力が世代を超えて伝えられるのではないか。伝える方法はやはり遺伝子なのではないか。

 

昔、うーにーのトレーニングに没頭していたとき、始めの内は、「もし言葉が通じれば、こうしてね、と私が言い、うーにーが理解し、これからはそうするね、と答えてくれれば、済むだけのことなのに」と思ったこともありましたが、そういうことではないと、比較的すぐに感じるようになりました。
犬は「言葉が通じない相手」ではなく、「言葉そのものを持たない相手」であることを感じることが出来た。

もし、うーにーが子供を産んでいたら、生まれながらにして私とのコミュニケーションをとり易い能力を持っていたかもしれない、と思ったりもしますが、私はそれは望まない。それを望むのは擬人化というものだろう。「人は言葉という特殊能力をもち、犬は(他の動物と同じく)その能力を持たない」からこそ、素敵な関係が築けるとおもっている。人と犬との出会いから、それを乗り越えることの素敵さを体験している。

それが出来る関係をソウル・フレンドと呼ぶ人もいるだろう。私もそのように感じることもある。しかし、ある程度の知識(個体選びを含む)と技術でカバーできる部分もあると確信している。

 

いつかまた、犬と暮らせる日が来るだろうか。
我が家の周りに懸命に生きる幼虫たちを見続けながらそんなことを思った。

 

20180809_102848右の写真は、玄関前で皮だけ食べて生きながらえていた個体。8月9日、関東から台風が去った朝に撮影。
ほとんど動かず成長も遅かったのですが、ついに最終齢になることができました。
この写真からも皮を少しずつ食べているだろうことが窺えます。

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2018年8月 7日 (火)

暑すぎる夏のアゲハ(キアゲハ)

2018年の7月8月の暑さは異常だ。うーにーがやってきた1994以来、猛暑と呼ばれる夏が珍しくなくなり、最近では冷夏という言葉は忘れ去られている。

10年以上前から我が家にアゲハ(キアゲハ)の幼虫が来るようになったのですが、ここ3年くらい、その数が激減した。
その理由の一つは、彼らの食べ物であるイタリアンパセリを私が真面目に育てなくなったからだろう。もう一つは、この3年くらいの暑すぎる夏だけではなく、夏前後も暑すぎることが原因だとおもっていた。

我が家の周りには幼虫の生息地が三箇所ある。内一箇所は昨年出来た。それらは普通に考えたら、幼虫が移動できないだろう距離である。

 

7月28日に台風がやってきた。
その前に、生息地の一箇所である雑草地帯を少し綺麗にした。雑草の中にイタリアンパセリがあり、そこに小さな幼虫が数匹いた。
イタリアンパセリは一本だけで、その葉は既に食べつくされていた。彼らの今後は、食料不足で姿を消すか、近くにいっぱいある明日葉を食べるかだろう。しかし、彼らは明日葉を消化しきれず、最終齢の姿になれるものは稀である。

通常、幼虫の糞は黒いころころしたものだが、イタリアンパセリを食べている幼虫が明日葉を食べると、黄色い液体の排泄物を出す。見ていても「食べたくないんだけど」という感じだ。そして姿を消してゆく。

基本的に、どんなに悲惨な状況になっても手を出さないようにしているのですが、ここのところ幼虫が来てくれていなかったので、このときは手を出してしまった。
台風の前に、雑草地帯から一匹だけベランダのプランターに移動した。

 

■ 7月31日(台風から2日目)

ベランダのプランターには、小さな幼虫の姿が2匹ほど確認していたが育ちが悪かった。一匹くらい増やしても食料不足にはならないだろうと考えていた。

それから台風が来て、数日が経った日の写真

20180731_102152   20180731_102200

ここに写っているプランターが全てではないが、左の写真の4つプランター中に4匹の幼虫が確認できるとおもう。その他、小さな幼虫もいて、このとき、ここに10匹くらいいた。

右の写真の白っぽい幼虫ですが、これは食べ物が少し変わっています。
我が家に通い続けた結果、葉ではなく(乾燥前の)種を食べることを覚えたものがいます。彼らは自分が好きなものばかり食べます。種ばかり食べている個体は、この時期に白っぽくなります。

 

■ 8月1日(前の写真の翌日)

左が、朝8時ごろ、右が、午後3時頃。

20180801_080045 20180801_151342

朝、幼虫が何匹もいる写真の状態でも既に食べられそうなものは無いように見える。よく観察していたら、茎を食べていた。二つの写真を比べると、何本かの茎がとても短くなっているのが分かる。

20180801_151351上の午後三時頃の写真を撮った直後に撮ったのが右の写真。
みんなでほんの少し残る鉢へと移動して行っていた。

台風前に一匹だけ移動したら、台風後、移動先の数がとても増えたように見えた。ある程度育ったものがほとんどだったので、「移動してやったヤツが呼んだのか?」と思った。

何年か前、似たような状態(食べ物が限られた状態で個体数が多かったとき)で、幼虫同士が「カッ、カッ」と音を出して威嚇し合っていたことがあったが、今年はその音を聞かない。みんな仲良くやっていて、まるで群れのようにも見える。

 

彼らの行動は「食べる」と「休む」を繰り返す。
食べているときの運動量は激しい。一心不乱という感じ。そのときに食べるものがないと、やはり一心不乱に探す。とにかく動く、移動する。視力などは良くないようだ。無闇にという感じで動き続けて、それらしものを口にし、食べられるものであれば貪り食うという感じ。

食べ物を探す行動が哀れ見えてしまうので、台風前に一匹だけ移動しましたが、私は基本的にそういうことはしないようにしています。
蝶になることが出来た個体の数が増えても、次の世代が増えることが出来ないからだ。つまり(大袈裟かもしれませんが)自然淘汰の機能を阻害しないように心がけています。

 

■8月3日

三枚とも、朝10時頃の写真。

下の左写真の場所は、1日までメイン会場になっていましたが、皆が引き上げ茎ばかり残ったプランター。
茎を食べることが出来るようになった固体も、茎の先が乾燥していると食べないようです。

最終齢にまでなった個体の数や日にちからして、まだ姿があってもいいように思うのですが、皆、食べ物を求めて旅に出てしまったのか姿がない。よく探してみたら下の右のようにプランターの向こう側で蛹化しようとしていた個体がいました。サイズがちょっと小さいです。最後に食べ物が不足して遠くへ行くエネルギーがなかったのかも。
20180803_094803  20180803_094832


20180803_094949右の写真は、8月1日の小さな鉢から50センチもない場所にある鉢ですが、ここのイタリアンパセリはすでに種の状態になっています。種は既に乾燥し始めていて食べることが出来ないようです。
葉がついているじゃないかと思うのですが、イタリアンパセリは、花が咲く時点で葉の形が変わり、幼虫はこの葉を食べない。食べることが出来ないようだ。
この写真で二匹が確認できますが、食べている姿も食べ物を探す姿も見ませんでした。

 

■8月4日

20180804_102843今まではベランダの話ですが、別の場所として玄関周辺がある。その中でも特異なのが敷地外、道路に面している所。
ここにイタリアンパセリが生えたことにも驚きましたが、そこに幼虫がやって来たのも大したものだと思いました。それだけ食べ物がないのでしょう。

左の写真の通り、既に坊主状態。この写真の向こう側の株に3匹の幼虫が見えます。これらは数日前からここにいるのですが、何を食べているのか分からなかった。
種は食べつくしているし、茎さえも枯れ始めているように見えた。

この写真だけでは、3匹がよく分からないので、もう少し近づいて写真を撮りました。

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この写真を撮ったときに、茎の皮を食べていることをに気が付いた。茎が白いのは枯れているのではなく、皮を食べられてしまったからだった。
20180804_102908右の写真は皮を食べている時に撮った写真ですが、食べているとは分かり難いですね。でも皮が剥がされていることは分かると思います。

これらの個体は次の日には引っ越していました。引越し先も丸坊主で、皮もあまり食べたくないようで、動いているところをみたことがなく、成長も非常に遅く、最終齢になる前に姿を消しました。

 

■ 8月5日

20180805_174554写真を撮ったのは、夕方の5時45分頃。

蛹化しようと頑張っている個体。昨日(4日)は未だ幼虫の形をしていましたが、めでたく蛹の形になっていました。

3日の三枚目、大きな鉢に移った二匹ですが、一匹は姿がなくなっていました。
もう一匹は同じような場所で動きません。皮を食べているようでもありません。自身が誰かに食べられるのを待っているようにも見えます。

丸坊主になったプランターのイタリアンパセリは再生を始めた。

20180805_174643  20180805_174623

冬が来る前に、もう1回くらい幼虫たちはやってくるだろうか。

 

幼虫がやってくるということは、蝶がやってくることがある。今回は7月中旬くらいに来ていたような記憶がある。
よく、蝶や蛍は死者の魂の化身だと言われることがありますが、何気なく分かるような気がします。ここ3年くらい静かだったのに、今年は来ました。思い当たることがあります。
蝶が来てから幾つか墓参りに行きました。しかし、墓に行っても本人を強く感じることはない。蝶が来た時の方が強く感じる。

まだ行っていない墓参りが幾つかあります。仕事や雑務も一段落ついてきたし、幼虫たちのことも落ち着いてきたので、ぼちぼち片付けて行こうとおもう。
(私が勝手に感じているだけです)アピールすると言うことは、まだこちらに魂が残っているのかな。もしそうなのであれば複雑な気持ちです。守護霊になって守ってくれているなら嬉しいけど。

少子化の時代。来世を得るのも大変なのかも。

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2018年8月 2日 (木)

夜廻り猫 第四巻

20180802Twitter でも読んでいる「夜廻り猫」の第四巻をここ1週間くらい読んでいる。既に読んでいるものがほとんどなので、何気なく眺めるように読んでいる。ふと目次を見ると、タイトルを見ただけでも内容が浮かんでくるようになるくらい読んでしまっている。

ふと「なんでこんなに読んでしまうんだろう」と考えてみた。

個人としての頑張り人の話が幾つも載っている。自己嫌悪に陥りながらも改善できそうにない人の話しもある。ほとんどの回が解決できる訳でもなく、視点を替えて気持ちを切り替えるくらいで終わる。
頑張りが間違っているのか。考え方が間違っているのか。たぶん、そうではない。
登場人物一人一人は魅力的だが、ストーリーは必ずしも万々歳な結末ではない。

たぶん、ストーリーが魅力的だから読むのではなく、「なんでこんな世の中なんだろう」、「どうしたら良いのだろう」と考えながら読み返しているのかもしれない。 
「身近に似たような人がいるし、自分に似ているところがある登場自分物もいる。残念な部分も似ている。こんなこと誰にも言えないし、言っても仕方がない。でも言いたい。世の中、なんかおかしいんじゃないの?」と。
 

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それにしても絵が上手い。
伝えようとしていることをしっかり描いている。伝わってくる。
左ページに8コマ漫画、右ページに一枚の絵。右ページの絵を見たときに、えっ?、とおもうことがある。私の思い出を知っているのか、とおもってしまうこともある。 

Twitter で日常的にあげている(ざらついた紙に筆で描いている)一枚の絵は芸術的にも感じる。

これだけの絵が描けるのは続けてきたからだろう。その「すごさ」を感じる。
絵だけでなく、ストーリーを考えるのも容易ではないとおもいます。

 

これからも、日常的にネット上で、ときどきまとめてコミックで、楽しみにしています。

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2018年7月16日 (月)

ちょっとした勉強会

今回も備忘録的なブログ。
分かる人にしか分からない内容だし。

 

とある週末、お泊りでフードをメインとするペットビジネスの勉強会に参加してきました。生体は全く扱わない世界ではありますが、フードが関わりますので生体(一般飼い犬・飼い猫、保護されている犬や猫)への配慮・援助ということも含まれる。

私的なものであったので、具体的なケースで話が進み、その内容はここには書けません。
ここに書けることは、私が「やっぱり、そうなんだ。今の飼い主さんは、ある意味大変だな」と感じたことを書いておく。

 

うーにーが我が家にやってきたのは、1994年。高温の夏が当たり前になり始めた頃で、エアコンの室外機が高温で止まってしまい、一人暮らしの高齢者が亡くなったことが問題になった年でした。
次の年には、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件。1994年に埼玉愛犬家連続殺人事件。この頃、大阪の自称訓練士が殺人事件もありました。
今ととなっては「とっても昔」の話で、2000年の動愛法改正以降に、ペットについて興味を持った人たちの中には知らない・感覚的に理解出来ない人たちも少なくないだろう時代です。

ちなみに、ドッグ・カフェという言葉はありませんでした。ドッグ・ランは「欧米にはそんなものがある」程度で、東京都や23の各区が管理している公園にそのようなものが設置されることは「有り得ない」とおもうような時代でもあり、夜な夜なノーリード集会が隠れて(?)行われ、「前回の咬傷事故がいつで、どんな人が関わっていた」等が公然の噂でした。

当時のドライフードといえば、日本に昔からある加工食品メーカーが直接か、その関連会社が作っていたり、輸入代理店になっていたり。また、獣医さんが療法食として扱っているメーカーのもの、ショーをやっている人たちが使っていたもの、などが輸入されていました。
私の記憶では「プレミアム・フード」という言葉はなかったと思います。一般飼い主が入手し易かった「良い」と言われるフードは「ショードッグ用のフード」などと呼ばれるようなことが多かったと思います。

(一般の人が気軽に手に入れることが出来る)ショードッグ用のものも数が非常に限られていて、中には「私は絶対に使いたくない」とおもうようなものも「良いフード」をされていました。しかし、そのフードはある程度の数の人に支持されて有名になっていたことも事実です。つまり、イメージ戦略、ブランド戦略が成功していたのです。

その後、植物性のものをメインにしたものや「ここまで考えているのか!」とおもったり、「アメリカにはペット・フードの法律があり、守らないと大騒ぎになるのか」と関心したりしたものでした。

そして「手作り」や「生食」の情報も広がってきました。
その頃の日本は、Windows3.1 から Windows95 への移行時で、インターネットインフラが整いつつある時代でしたが、まだまだ一般的ではありませんでした。ADSLのサービス開始は1999年と言われていますが、普及が始まり「ブロードバンド元年」と言われているのは、2001年です(Windows Me)。

それ以前のことですから、マスコミ媒体としては数少ない雑誌、それ以外は口コミが情報入手の主な手段だったと記憶しています。なので、ブランド戦略はし易かったとおもいます。
当時も「みんな、もう少し考えてみようよ」と感じることがしばしばありました。

 

現在、2018年。様々な情報が手にはいります。「あのペットフードは本当にいいの?」と思えば、色々な情報がインターネットを経由して入手できます。もちろん発信する側にもなり得ます。
そのような時代なので、イメージ戦略、ブランド戦略は難しいだろうとおもっていました。

今回の勉強会は、ちょっとした衝撃でした。戦略を仕掛ける側の手法も高度になっていました。また力の入れ方も昔とは違うと感じました。

現在、プレミアム・フードと呼ばれるものは多種多様あります。となると、どれか一つのフードに目をつけ、「これ、うちの子に良いかな?」とネットで調べた結果、著しくネガティブな情報がなければ「とりあえず使ってみよう」となります。しかし、身体はそれぞれ違うので、同じフードを食べても同じような変化が期待できるとは限りません。そうなったときは次を探せばいいのです。

以上は「買う側」の話ですが、次は「売る側」の話。

前の方で書きましたが、1990年代中盤くらいまでのペットフード業界は規模も限られていました。また(ペット関連に限らず)広告戦略も今とは違って紙媒体がメインでした(ペット関係は電波媒体はほとんど使っていなかったとおもいます)。戦略といっても分かり易かった時代です。

ちなみに、消費者金融会社のCMにチワワが採用されて、小型犬ブームに拍車がかかるきっかけとなったのは、2002年です。ちょうど、ブロードバンドの普及が顕著になった頃になります。そしてよく「ペット産業は、既に一兆円産業になった」などと言われてことも記憶しています。

それから15年以上経った現在の販売戦略は(ペットフードに限らず)、とても多種多様な媒体、高度な手法、戦略が行われるようになりました。ペット・フードに関しては、昔は(産業として)力を入れて広告を打つほどの部類には入らなかったのですが、現在のように多くのフードが販売されて、多くの人がペットと暮らす世の中となっている現在、売る側も苦労が絶えないだろうことは容易に想像できます。

そんな現在の販売事情はどうなのか?
まず、他の主な産業と同じビジネス形態がとられてことに驚きました。フードメーカーや海外フードの輸入販売権が投資の対象にもなるようです。販売戦略は、やはりまずイメージ・ブランドの確立、販売網の整備と、日本における主な産業と全く同じ手法が取られているようです。

具体的な話を聞いていると、耳を疑い、目は白黒してしまいました。それくらい 1990年代との違いを感じました。

 

そこで感じたことは(ペットフードに限りませんが)それら情報を安易に信じ、それが(自分が得られる)最高のものだと思い込んでしまうことに危険はないのだろうか、と疑問をもってしまいます。
送られてくる情報が力強いものであれば(しかも多方面から同様の情報が入れば)そのように思い込んでしまうことは、当然のことだとおもいます。

このような情報に惑わされたとしても、フードを購入する側が危険な立場にさらされることは、ほとんどないでしょう。(現在、日本にもペット(犬猫に限りますが)フードに関するがありますので。)あるとしたら、「実は割高なフードだった(自分がおもっていたほどの効果が得られなかった)」「ちょっと体調が悪くなったような気がする」くらいで、ペットに著しい健康被害が出るようなことは、ほとんどないのではとおもっています。なので、「人間の食べ物も疑問をもつこといっぱいあるくらいだから、この程度ならいいんじゃない?」とおもってしまいます。

しかし、壁ではなく卵の立場を伝えてゆきたい人間としては、「ペットのためによりよいフードや日用品を」と(ビジネス目線ではなく)飼い主目線で、情報を提供してくれる人たちの声がもっと届いてもいいのではないか、とおもうことが多々ありました。
それくらい資本を注ぎ込んだ情報が出回っていることを感じています。

 

食べ物のこと、日常使うもののこと。それらのことを考える時間を、もっともってもいいのではないかと、いつも思ってところに行き着いてしまった。

皆さんには、こんなことを考えてほしい。

「カロリー」や「糖分」「脂肪分」などを気にされる方は少なくないとおもう(自分、家族、ペットに限らず)。
その理由は、肥満であったり血管内にへばりついてしまうものだったり、色々あるとおもいます。
ほとんどの理論展開は、これらの入口と結果です。「表示されているカロリーがこの数字だから肥満になってしまう」など。

同じものを同じ量食べたら、同じだけカロリーが摂取され吸収されるのだろうか。つまり個人差、個体差の問題です。
そもそも食品に表示されているカロリーの計り方は、摂取を前提として計られるものなのか調べてほしい。お時間ある方は、他の数値についても調べていただけたらとおもう。

更にお時間のある方は、「栄養素」や「治療薬の基本成分」についても同様の視点で調べてほしい。簡単に言えば、サプリメントの効果は人によって違うし、薬の効果もそうだし、副作用も。
食品について、そのような視点でみることに、皆さんがもう少し力を入れてもいいのではないかと常々感じている。

つまり、入口と結果だけでなく、真ん中の「摂取」にも注目し理解し考慮してほしいのです。これは、個人差、個体差があるので広告に載せるのが困難な情報です。インターネットで他の人が書いていることが、自分には、自分が共に暮らすペットには、当てはまらないだろうとこでもあります。

医療行為についても同様のことが言えます。同じ検査結果でも症状が違ったり、同じ治療でも効果が違ったり。この部分を担当するのが、医師や獣医師の「診たて」になるとおもいますが、多種多様な検査が可能になった現在は、その能力をしっかりともっている先生が少なくなってきていると感じます。
そのことについても、皆さんがもう少し力を入れてもいいのではないかとおもうことあります。

 

ペットの日常を考えてあげるとき、自分自身の日常を考えるとき、身近な人のことを考えてあげるとき、そのようなことを考えてあげる時間をとってほしいと、心から願ってやみません。

10個一パックの卵も、よく見れば一つ一つ違う形をしています。人間を含めた生き物は、規格化できないものだと、私は信じ続けていたいのです。

 

100年後くらいには人間も遺伝子操作されて規格化されるかもしれませんが、そのとき、私は生きていないことが、私にとっての救いです。
その世界は、人間が人間により管理される(現在でいうところの)家畜であるか、AIにより管理される家畜ということになるような気がし、その世界を見たくないのです。

自分は世界に一人の自分であり、共に暮らす人間の家族もペットも世界に一つの存在だとして暮らすことが、幸せな日常の基礎だとおもいます。

 

そんなことを再確認した勉強会でした。

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