2018年11月22日 (木)

補助犬はハイテク補助具に代わるのか(3.将来のこと)

つづいた

「補助犬に対し酷い扱いをするユーザーがいるから、補助犬なんてやめてハイテク補助具にすればいいのでは」、と考える人たちがいます。

酷い扱いをするユーザー対策は各協会も腐心されていることでしょう。
「この人なら大丈夫」とユーザーになってもらったら、酷い扱いをされてしまった。しかし犬を返えしてもらうにはそれなりの手続きが必要で簡単なことではない。

そのような人たちはどれくらいいるのだろうか。

補助犬の稼動頭数はこちらのページに出ていました。この記事を書いている時点で1000~1100の間です。尽力してきた歴史を考えると(私は)「これだけ?」と感じてしまう。

一人(一頭)でも約0.1%。悪質なケースですから、割合としても絶対に見過ごしてはならない数字ではないでしょうか。

補助犬になるまでには多くの人の善意の協力が必要だし、お金もとてもかかります。現場で関わった人、陰ながら支えている人、皆がユーザーも犬も幸せになって欲しいと願っているはずです。しかし酷い扱いをするユーザーがいる。

その対策には協会も力を惜しまないはずですですが、そのようなユーザーが後を断たないのであれば、今まで以上の対策が必要なのかもしれません。

それが、「ハイテク補助具に代えること」になるのは、技術的に「今すぐ」は無理でしょうから、せめて各協会への通報をし易くすることと、そのような場合は迅速に返してもらえるような仕組みにしていただければと願うばかりです。

 


私が「犬とゆく」を始めた理由の一つは、公の場で犬を連れているときにされる対応に驚いたことです。1990年代中頃です。
まずは「その場」のことを考えましたが、そのような対応をする人が犬をはじめ身近な動物に対しどのような感覚を持ち、その感覚からどのように接しているかを想像したとき、「その場」だけでは解決にならないことを理解しました。

犬が好き勝手に排泄をしないようにしつけることも出来れば、気分任せに勝手な行動をすることもない。(初めての場所であっても)その場の状況を理解し、それに応じた振舞いが出来る。
そのようなことを理解してもらうには「言葉」だけでは(足りないどころか)全く意味がないことを実体験として感じました。

実際の行動を見てもらうこと。それも一回だけでなく「いつもこうしていますよ」「これが普通です」「犬はそれを身につけることが出来るんです」「これが犬なんです」と見てもらい続けること。それには連れて歩く人が増えなければなりません。

そんなことを考えていた頃、日常的に犬を連れて歩いている盲導犬ユーザーに関心をもちました。そして盲導犬に関わる人たちの話を聞かせていただきました。お話から想像するご苦労には、ただただ頭が下がるばかり。それでも盲導犬と暮らしを続けるのは、犬と密に暮らすことが素敵だからなんだろう、と犬と暮らす初心者だった私は憧れのようなものを抱いた記憶があります。

 


1990年代の後半、集合住宅でもペット可の物件が増えていきました。その後小型犬ブームがやってきて、ペット産業は一大産業と言われるようになりました。
身近な動物に関わる法律が1999年に大改正があり2000年に施行され、動物愛護に関わる活動も社会に理解されるようになってきました。それらの活動の広まりと共に、社会全体の意識も変わってきていることを感じています。

別の視点から考えると、この10年くらいで、インターネット・インフラの整備やスマホの普及により、写真や動画が撮り易くなり、ネットにアップすれば情報共有し易くなりました。良いことも悪いことも明るみに出やすい時代です。

2000年以降の社会の変化と、近年の携帯端末の高度化やインターネット・インフラの充実を考えれば、今後、補助犬がユーザーから酷い扱いを受けることは減るのではないかと考えています。

それでも(コストの面から考えれば)時代はハイテク補助具に向かう可能性は大きいといわざるを得ないでしょう。

 


補助犬はハイテク補助具に代わるのか。

介護現場のことも考えれば、ハイテク補助具の開発は進むことでしょう。
リアルな人間関係が薄れてゆく時代の流れを考えれば、犬を使うことは難しくなってゆくし、ハイテク(補助具に限らず)器具を使うのが当たり前の世の中になってゆくと考えています。(スマホがこれだけ普及し、ネットビジネスが当たり前になったように。)

それでも補助犬は残してほしいと願っています。
「健常者がペットを飼う意義と同じなのでは?」と指摘されても、その考えは変わりません。
細かいことを言わせていただければ「ペット」ではなく「コンパニオン・アニマル」と言い換えてほしいです。

補助犬の価値は、コンパニオン・アニマルであることだと私は考えています。
(そのように考えなかったり、付き合えない人はユーザーにならないでほしいと、関わっている人たち全てが考えていることでしょう。)

現在の技術から考えると、ハイテク器具がコンパニオンと呼べる日も来そうです。その方向に向かえば、ペットもコンパニオン・アニマルも減少してゆくことでしょう。
そのとき、補助犬の姿が消えはじめるのかもしれません。

個人的な心情として、そんな時代が来ても補助犬を残してほしいと願っています。
ユーザーや補助犬に関わる人全てが得られる、お金に換えられないものを今後も受け取れることを願うからです。

 

以上が、今、私が考える「補助犬はハイテク補助具に代わるのか」に対して出せる答えです。

(終わり)

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補助犬はハイテク補助具に代わるのか(2.最近読んだ記事)

つづいた

最近、「命ある存在だからこそ」を感じる紙媒体の記事を読んだので紹介したい。
そのページをスキャンし、ここにアップするのが今時のやり方なのかもしれませんが、私にはそういうことがどうしても出来ません。私のつたない文章と引用でお伝えすることをお許し願います。

少し前のことになりますが、JAFの会報(JAF Mate)10月号に「もっと知ってほしい補助犬の世界」という特集があり、その中に紹介したい記事がありました。

ユーザーの方はこのとき46歳。18年前に事故で胸から下が麻痺したそうです。
リハビリの日々を過ごし、その後の数年も病院の目の前に暮らし、事故から9年くらい経った頃、やっと生活は落ち着いたという。
そして、福祉関係のイベントで介助犬を目にするのですが

(以下、引用)==========
 実は僕、ネコ派で、犬はあんまり得意じゃなかったんです(笑)。車イスの自分に大型犬の世話ができるとも思えず、正直、ほしいと思いませんでした。
(引用ここまで)==========

それでも協会の人に誘われたりして、訓練施設を訪れるようになったそうです。

(以下、引用)==========
実際に介助犬に接してすごさを知り、いろいろな人と話したりするうちに、自分も仲間に入りたいと思うようになったのです。
(引用ここまで)==========

そしてユーザーになります。
介助犬には世話が必要であり、そのことを心配していたのですが、ユーザーになってみると。

(以下、引用)==========
世話に一生懸命になっていると、かえってほかの仕事が効率よくできるようになったり、あれこれ悩んでできずにいたことが、いつの間にか、できていたりするのです。まわりから「表情がやわらかくなった」と言われたり、気を張っていた自分に気づくようになりました。(引用ここまで)==========

この文章につづき

(以下、引用)==========
体が不自由でも普通に接してもらいたいと思いながら、僕自身が無意識のうちに、社会やまわりの人との間にバリア(壁)を作っていたのかもしれません。ティティーがそれをきれいになくしてくれました。
(引用ここまで)==========
          ティティー = 介助犬の名前

この後、少々文章があり、この記事は以下の文章で締めくくられています。

(以下、引用)==========
朝、目が覚めると、下肢が硬直して動きづらいのですが、足元で眠るティティーを見て、「がんばろう」と心の中でつぶやき、よいしょと起き上がります。僕の一日はこうして始まるのです。
(引用ここまで)==========

命あるものだからこそ、世話の時間が必要で忙しくなっているはずなのに「他の仕事が効率的に」なったり「あれこれ悩んでできずにいたことが、いつの間にか、できていたり」するのではないでしょうか。
また、無意識のうちに作っていた壁のようなものもなくしてくれるし、介助犬を見て「がんばろう」とおもうのではないでしょうか。

訓練施設に行くようになったときに、「仲間に入りたい」と思うようになったことからも、多くの素敵な人たちが関わっていることが窺えます。

そして、補助犬にとっても負担だけではないのではないだろうか。このユーザーが、負担があるからこそ受けることが出来る恩恵を、補助犬も得ているのではないのだろうか。

もし補助犬がハイテク補助具に代わったら、(特にユーザーにとっては)全く別のものになると、私は考えています。

つづく

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補助犬はハイテク補助具に代わるのか(1.昔考えたこと)

一ヶ月くらい前にも「補助犬の入店拒否」という補助犬ネタを書きましたが今回も。

この20年くらいでロボットの技術は大きく進みました。そうなると、補助犬ではなくハイテク補助具にすべきではないか、となる。確かにそれも一理あるだろう。

命あるものに人間の障がい者の助けをさせることは負担が大きすぎるのではないか、という疑問は、私もかつて持ったことがあり、多方面の方々の話を聞いて回った。
当時(1995頃)は補助犬法もなく、法で認められた補助犬(補助犬という言葉もなかったとおもいますが)は盲導犬だけだったので、盲導犬ユーザーさんや協会のセミナーや関わっている人からお話を聴かせていただきました。

 


私なりの当時(1995頃)の結論。

当時の技術では盲導犬に代わるものを作るだけのハイテク技術はなかった。(機械ではなく)介助者が常に付いていることは現実的な議論ではないし。

盲導犬を利用すれば白杖よりも効率的に動けるということも分かった。
しかし、利用するだけでなく世話もしなくてはならない。世話という負担をしてまでも利用するだけの価値があることも、なんとなく分かった。

しかし大型犬であることはネガティブな面もありました。
現在のように犬や猫を飼っている人が多い時代ではありませんでした。更に「大型犬といえば外で番犬」と認識している人も多かったので、近寄られることを好まない人も少なからずいました。
盲導犬を公の場に連れて歩くことは当時も権利として守られていましたが、現実の街中では入店拒否や乗車拒否されることが当たり前の時代でした。

世話もしなければならない。白杖であれば利用できる施設・サービスが利用できない現実。
それでも盲導犬を伴侶として暮らす価値があるのだと教えていただきました。

どれだけ話を聞かせていただいても、視覚障がい者の日常のご苦労や健常者の社会の中で暮らすことがどれだけ大変であるを的確に理解できた自信はもてませんでしたが、とても大変なのだろうと、漠然と想像することはできました。そのような大変な暮らしの中、世話をすることがどのようなことなのか、理解しきることは出来ませんでした。

大変な暮らしを過ごしているからこそ、(生きている)犬との(世話を含む)生活や(公の場に出て他者と関わる)行動が彼らにとってプラスになるようであることは、ある程度理解できました。

色々な話を聴き、自分なりに考えてゆけはゆくほど、犬が持つ特殊な存在感を感じたものでした。出来なかったことが出来るだけでない、プラスアルファがあることを感じました。

そのようなことを考えるとき、あの当時知った「コンパニオン・アニマル(伴侶動物)」という言葉が何度も頭に浮かんだものでした。

つづく

本文とはあまり関係ありませんが、子供向けの「盲導犬の歴史

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2018年11月 2日 (金)

ばまちゃんの謎

「おばま」という名前は我が家がつけたのではない。三春シェルターで「オバマ」と名付けられていた。シェルターの人に名前の由来を何度尋ねても教えてもらえることはなかった。
彼は環境省の一斉捕獲と呼ばれる活動のときに夜の森駅前で捕らえられた。国の活動で当時のアメリカ大統領の名付けられたのですから、とても重要な意味があるに違いない。

なので本当の名前の由来を知ることは諦めた。我が家なりに後付けで考えるとことにした。

まず、カタカナから平仮名に変えた。そして「お」は丁寧の「お」として「ばま」とした。我が家の犬猫は漢字でも表記することにしているので「破魔」とした。しかし、「だから何?、なんで?」状態だった。

 


10月の下旬、私は栃木駅からのびる昭和初期をおもわせる商店街を歩いていた。ふと人形店に入る。珍しいお雛様が展示されているとか。

お雛様を三月に飾り、冬が来る前に一度虫干しをする風習があったらしい。重陽の節句のときに行った「後の雛」という風習とのことなのですが、昔の絵を見ると、そこには大人の女性の姿しかなく、そして酒が描かれていた。
何やら字も書かれている私には読めず。その文書を現代文に説明したものが書かれていた。その一部を抜粋すると、「さあ、菊の酒盛りをして、遊びましょう」。今でいうところの女子会らしい。

そのお店は、創業嘉永元年の三桝屋本店という。訪れたときは、羽子板と破魔弓が並べられていて、どれも高価。私にはよく分からない世界だった。

「破魔弓」というものに興味をもった。今まで見たことがないこともありますが、「おばま」は「御破魔」で「ばまちゃん」は「破魔ちゃん」だからだ。

お雛様のことも丁寧に教えてくださったお店の方が破魔弓についても色々と教えてくださり、さらに説明が書かれた一枚の紙もくださった。A4の紙裏表にびっしり書かれている。

それによると一般的には、羽子板・破魔弓は12月・1月(年末年始)に飾られ、その月は丑寅であり、丑寅の方角と云えば鬼門なので、鬼門除けの飾り物とされている。
しかし、こちらのご主人の考えはもっと掘り下げています。(羽子板については省略しますが)破魔弓は武士階級が興った平安時代末期頃から、一族の跡取りとして認めた者に(年末に御歳暮として)贈られたそうです。

 


さて、我が家の破魔ちゃん。

我が家の鬼門除けはゆるゆるです。風水などに詳しい人がみたら「これ、絶対ダメ」という感じ。そして、そこにある部屋こそが、破魔様が鎮座する部屋なのです。破魔様はほとんど動きません。昼間はカマクラから部屋を睥睨し、魔除けとして働いているようです。
311で随分と傷んだ我が家ですが、破魔様がいらしてからは少し安定しているような気がします。

私は破魔様が、雲丹様と売僧様の跡を継ぐものなのではないかとおもうことがあります。女房にべったりでどっしり構えているところ、そして脚が短く太い、さらにアンダーコートが豊富なところは雲丹様に似ている。背中側の毛色や視力に問題がありそうなところ、脚が短く、尾が長いところは売僧様に似ている。

つまり、我が家の鬼門を守るためにやってきた雲丹売僧の跡を継ぐものとして来るべく者として来たのだと確信しました。

我が家にやってきて四年以上でやっと謎が解けました(後付けできました・笑)。

 

※後日訂正あり
オマケ

20181101aそのお店で売っていたもの。
夜廻り猫の「ワカル」ちゃんに似ていたので即購入。590円。眼鏡を入れるのにちょうどいい大きさなのですが、完全なソフトケースなので、眼鏡ケースにするのにはちょっと不安。数個くらい並んでいましたが、全て顔の表情が違っていました。
羽子板職人の人が遊びで作ったのではないかとおもっています。首の辺りに小さな鈴が着いているのですがこれは可愛い音で鳴ります。

(加筆)
使おうとしてファスナーを開けようとしたら、タグが付いていました(ケースの内側に入っていたので気が付きませんでした)。そこには大阪の会社のものでブランドは「招喜屋」と書かれていました。
羽子板職人さんが作ったものだとしたら、もっとしっかりしたものにならないかな(綿を入れて膨らませるとか)程度のことはおもっていましたが、全くの勘違いでした。ゴメンナサイ。

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2018年9月15日 (土)

新江ノ島水族館(その4)

その3から)

なかなか書きにくいテーマだなと、書くのに手間取っていたら、こんなニュースが流れてきた。

https://www3.nhk.or.jp/news/easy/k10011624491000/k10011624491000.html
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180911-00000070-asahi-spo

こういう大会のセレモニーのイベントとして承認もなく行うことは、非常識だと私も感じます。現在、万人が楽しめるものではなく、一部の人には著しく不快に感じるのですから。
今は慎重にショーも続ける必要があり、議論も必要な時期だとおもいます。

その議論の中で、色々な立場の人の考えを並べて聞いてみたいです。
特に、日々イルカたちの相手をしている人たちの考えや感じていること、何を理想と考えているのかなどを聴いてみたい。

 

自分がある動物に対して湧いてくる感情が、他人も同様な感情が湧くとは限らず、逆の感情をもつ人もいることを認識しなければならない時代になりました。

各地域に昔からある文化・習慣等からの動物の扱いも見直さなければなりません。
グローバリズムなる言葉が知られるようになって久しくなりました。さらに、インターネットが世界的に普及し、文字だけでなく静止画・動画も個人レベルで共有されています。
たぶん一生行くこともないだろう土地で起こっていることの情報が動画で見る事ができ、複数の人からの情報を得ることが出来る(意見も聴くことが出来る)時代です。

「日本古来の文化だから鯨を食べてきた。だからこれからも食べる」は、通用しない時代です。「世界全体で考えよう、情報共有、感情共有しよう!」という時代になってきました。

 

イルカのショーも同様の問題なのでしょう。

イルカのショーが世界的に問題視されていることは、ネットのニュースなどでも伝わってきていました。イルカを(人間の)治療などに参加させることについても、今までは配慮が不充分であったという認識が一般的になりつつあるらしいことも資料を読んだことがあります。しかし、私には高度で理解しきれませんでした。

前の方(その2)で「日常のご飯をあげるときに、じゃれあうようにトレーニングすることはそんなにいけないことなのだろうか」と書きました。
私がトレーニングを体験した相手は、馬と犬。その経験から言わせていただければ、食べ物をあげるとき(イルカからすればもらうとき)が、トレーニングの切欠になっても大きな問題はないような気がします。
しかし馬と犬は、人との関係において特殊であるといわれているので(動物のカテゴリーとして)野生動物とされるイルカにあてはめるのは間違えなのだろう。
つまり、私のような感覚で今までは水族館などのイルカショーが行われてきたが、それが間違えだ、と考えられるようになってきた様です。
(野生動物をペットにしようと考えてはいけないのも、同様の考え方だとおもいます。)

 

日本でもイルカのショーの中止を求める意見がネットで見かけるようになりました。ただし、そこに書かれている根拠を私は理解できません。大きな愛護団体や何処かの論文などに書いてあるとかいうものがほとんどで詳しくは書かれていません。
治療などに参加させることの是非についての意見も、(少しだけ読んだだけですが)「全体のこととしていいのかな?、事例が少ないのでは?」と疑問をもつような私には、こちらの論文等も「そんなに酷いのかなぁ」と感じてしまいました。

 

このような問題に関わる文書を読んでいると、こんなことが頭に浮かぶ。

日々、イルカの世話をしたり、ショーで一緒に歌ったり踊ったりしている人たちはどう思っているのだろう。
そのような仕事に就くのだから、イルカのことが大好きなのだろう。好きなことを仕事にすると葛藤があると言われますが、動物の仕事はそれが大きいことも予想できるだろうし、予想できなくても仕事に就けば分かることだ。
日々、イルカと一緒にいる人たちが、海獣の(ショーを含めた)今の飼育について、どのようにおもっているか・感じているのかを知りたい。現在議論されている内容について、勉強されている人もいるだろう。そのような海獣について知識・経験が豊富な人に話を聴きたい。

もし法律などで規制されるようになり、今とは違う感覚で飼育することになったとしたら、その飼育を行うも彼らだろう。そんな彼らがどのように感じているか是非話を聴きたいし、聴くべきなのではないだろうか。

 

その動物に近い人、現場の人、そのような人たちの話を聴きたい。

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新江ノ島水族館(その3)

その2より)

「カワウソを飼いたい!」と口にしていた女の子たちが、本気で云っていたのかは定かではありませんが、ニュースで「カワウソが人気で密輸までされている」と伝わってきている。

売れるものは売る。合法であるものは当然だし、人によっては違法であっても売買する。違法に入手した店舗から一般の人が(どのように仕入れたかを知らずに)その動物を購入することもあるだろう。

このようなことは昔からのこと。このようなことがなくなるには、「動物を飼うのは簡単ではない。忙しい現代人は特に。そして、珍しい動物は健康を保つのが大変。その動物を診ることができる獣医師を探すのも大変である」ということが一般常識にならなければ、この状況は変わらないとおもう。
また、幾つかの法律もあり「飼ったらその動物の健康管理をしっかり行うのは当然。面倒だから捨てることは出来ない。健康に飼い続けなければならない」時代である。

最近は情報が氾濫し、AだからBだ!的な解り易い情報が好まれている。そのような形式であるなら、「野生動物は一般人が飼うものではない」と広まってほしい。その理由は上記のこもともありますが他にも理由は多々あります。その理由をしっかり勉強してくれる人はほとんどいないのではないかと思うくらいに。何故なら動物は多種多様であり個体差もあるからだ。
なので単純に、「野生動物は一般人が飼うものではない」と広ってくれればいい。

広める方法の一つは教育だろう。そしてもう一つは法律で罰することだろう。つまり「やってはいけないことなんだよ」と見せしめる。
逮捕されれば、テレビなどでは実名報道がされなくてもネットで知れてしまうのが今の世の中。懲役刑になれば、さらに多くのものを失うだろう。
その過程を目にする人が増えれば、「あんなことをしてはいけないのね」と分かってもらえることでしょう。

法律で罰するようにするには問題があります。
今まで特にお咎めがなかったことを、あるとき急に咎められるようになるのであれば、今までやっていた商売できなくなる人も出てきます。その対応も含めて考えねばなりません。
この20年間は特に、動物を飼育することに対する法律の動きが活発です。法律を作ることはとても大変な作業です。それを国民に理解してもらうことも。そして、実効性のあるものにすることも。

20年あれば、子供も大人になります。教育の方でも力をいれていただければと願うばかりです。

とにかく、簡単に解決できる問題ではありません。可愛いカワウソを見ながら、可愛い若い女性の声を聞き、そんなことを考えてしまいました。

 

水族館を出たのはもう14時も近かった。駅に向かう途中、しらす丼の看板を出しているお店で遅い昼食を食べた。店内で聞こえる話声から、他のお客さんは、私たちと同じように水族館に来た人か、海水浴客のようだった。

そして電車に乗って我が家に向かう。電車のお客さんの多くは、やはり水族館か海に来た人たちだろう。夏の暑い日だったので、疲れが顔に表れている人が多い。

私はイルカショーのこと、動物園や水族館のこと、鯨を食べることなどが頭に浮かんでしまう。周りからは疲れた顔に見えたことだろう。

 

20180824_2女房は水族館で、おばまにお土産を買った。ガチャガチャで出てくるかぶりものである。どんなものがあるのが写真があった。ゴマちゃんやウーパールーパーなど可愛いものがあった。唯一あまり可愛くないし、デザインも単純で「これだけは出てほしくない」と思ったのがシャチ。
お金を入れて、ぐるっと回して出てきたものは、シャチ。

ばまちゃん、ごめんね。でも、それなりに似合っているかも。
鋭い眼差し(?)で猫パンチの瞬間まで撮らせてくれました。

つづく

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新江ノ島水族館(その2)

その1より)

新江ノ島水族館に行き、あちこち観ていた。
イルカのショーが始まる時間になったので会場へ向かった。着くと既に説明が始まっていた。

遅れて着いたので、ある程度楽しめる(見る事ができる)場所を探さねばならない。場所探しをしながら、説明に耳を傾ける。
「前の方の人は水が飛び散るから気をつけて」、とかそんなことだろうと思ったのですが、どうも説明が長い。「食べ物が、、」どうとか言っている。そのとき更に思い出した。

日本の水族館におけるイルカの入手方法が問題になり始めたのは何年くらい前だろうか。更に、イルカを飼育することを問題視している人たちもいます。ショーやそのためのトレーニング方法についても問題視している人たちもいるらしい。
そのようなことが関係していると思われましたが、場所探しに一所懸命になり詳しくは聴いていなかった。

 

そしてショーが始まる。ビックリした。「なんなんだこれは?」と思った。
イルカのショーと云えば、直立不動に近い姿勢の飼育員さん(服装も、如何にも飼育員さん)が腕をさっと上げてホイッスルをピッと吹くものかとおもっていた。全く違う。
妖精のような衣装とカラフルな網のようなスカートなのか道具なのか分からないものを身に付けている。そのような姿をした4人が出てきました。彼女たちは歌って踊る(口パクではない)。彼女たちのショーに、イルカやその他小型の鯨が一緒に参加するという形式になっている。

確かに食べ物を与えることもなく、イルカ達が一緒に参加している。慣れの問題だとおもいますが、不自然さを感じるし、力強さを感じない。自然の動きなので、そう感じるのだろう。この違和感は「イルカのショーとはこういうもの」という固定概念からくるものだろう。

地味な作業服やウェットスーツなどではない、カラフルな衣装できちんと歌って踊って(水の中ではシンクロナイズド・スイミングのように踊っていました)イルカとショーをやるのは、とても大変なことだとおもう。
パフォーマンスとしては評価すべき点は多々ありましたが、私個人としては「ここまで、こここに力を入れる必要あるの?」と感じてしまった。

日常のご飯をあげるときに、じゃれあうようにトレーニングすることはそんなにいけないことなのだろうか。「うわ~い、ご飯だ!、楽しい時間だ!」とはしゃいではいけないのだろうか。
野生のイルカの日常には、そんな時間はないのだろうか。

 

こちらに来る一週間くらい前に、女房がこんなことを言った。

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今日、スーパーに行って(ばまちゃん用の)刺身を探していたら、とっても赤黒くてちょっと違う感じのものがあったと思ったら鯨だった。
===============

このショーにはイルカ以外に小型の鯨(ハナゴンドウらしい)も出ていた。イルカよりも体が大きく、丸みを帯びた額が可愛い。
ショーを見ていたら、ふと女房の言葉が頭に浮かんだ。今、一般的に販売されているのは小型の鯨がほとんどだろうということも頭に浮かんで、「やはりもう鯨を食べるのはやめよう」とおもった。
それは、身近な動物(犬や猫など)を食べようとは思わない感覚に似ている。
実際に目の前にショーを行っている鯨を見たからこその感情だろう。

 

その後、カワウソの餌あげの時間だというので行ってみた。
ガラスの向こうにカワウソはいる。三方向がガラスになっており、餌あげがよく見える正面は人がいっぱいでもう観ることが出来なかったので、横や裏に行ってみていた。その辺りだとアナウンスがよく聞こえないので、何を説明していたのか分からない。

耳に入ってくるのは、あちこちの女の子の「カワウソ可愛いぃ~、飼いた~い」という言葉。

現在、カワウソの密輸が問題になっている。動物の飼育を仕事にしていたことがある人間としては、「水のある環境(すいすい泳げるくらいの大きさ)を提供するだけで大変だろうな。食べ物はペレットみたいのもあるだろうけど、やはり新鮮なものをあげないと病気になるだろう。あと日光浴もさせないと。紫外線当てとけばどうにかなるということじゃないだろう。相当なお金持ちでないとまともに飼うことは出来ないだろうな」と思ってしまう。

簡単に飼いたいと思うのは、「餌をあげていればお互い幸せ」とおもってしまうからだろう。
人間も身体を動かすトレーニングを日常的にやっている人がいるくらい、身体を動かすことは健康に必要なこと。(人間も)食べ物についても色々と語られている。身体といっても体だけではなく心も。飼育環境により心の状態が悪くなれば病気にもなるし、人間との関係も悪くなる。

たまに、しかもガラスの向こうやテレビなどの画面の向こうでしか見ない人には直感できないことなのだろう。

 

カピバラの展示もあった。
展示されている場所(放飼場)に不自然さを感じてしまいました。この水族館に必要なのか。最近の動物園や水族館にはいるのが当たり前の存在なのかも。

その横にはウミガメの展示場所。複数種類がよく見えるように展示されていて嬉しい反面、小笠原でウミガメを間近で見たり、沖縄の離島で話を聞いたりした人間としては、これも不自然に感じました。でも、また海で会いたい思いました。

生のウミガメを間近でみれて良かった、とおもった。忘れていた何かを思い出させてくれたと感謝した。

矛盾に満ちて我が侭です。

 

動物を展示することはどうしても不自然になってしまうことは仕方ないことですが、レテビやDVDなどで見るのとは違うものを感じます。
画面の向こうに映る小型の鯨を見ても「食べるのをやめよう」と思ったことは一度もありません。ウミガメの映像を見て、また南の海に行きたいと思ったことはありません。その違いは説明できませんが確かに違います。

そんなこともありますので、私は最小限動物園や水族館を存続してほしいと考えています。

 

そのためには客観的に理解できる議論がされることを望みます。
つづいて、そんなことを書いてみたいとおもいます。

つづく

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新江ノ島水族館(その1)

8月23日(木)、新江ノ島水族館に女房と行ってきました。
http://www.enosui.com/

特に何が見たいということもなく、なんとなく行くことに。

風はありましたが晴れて暑い日でした。いつもは車で動く我が家ですが、この日は電車で行くことに。
小田急線で藤沢までは快速急行が行ってくれるので速いです。最後の藤沢・片瀬江ノ島間が乗り換えもしなければならず、少々面倒でした。

駅から少し歩きます。その間、海水浴客とおもわれる人たちの姿がありました。そして水族館が近くなると、砂浜に並ぶ「海の家」も見え、「そういえば湘南の海って海水浴に来たことないかも」とおもったり。

まだ女房と結婚したかしないかくらいの頃(まだ江ノ島水族館だった頃)マンボウを見に来たことを記憶しています。あの当時とは海沿いの道からして雰囲気が全く違う。

 

今年の三月に行ったサンシャイン水族館と展示の考え方が似ている。その生き物の生態を紹介することを基本としている。その上で、お客さんが見易いよう工夫をしている。

マンボウはもういない。
大きな水槽には、大小色々な種類の魚などがいっぱいで、スタッフのお姉さんが水槽の中に入り、魚の説明をするショーをやっていた。女房曰く、「魚の方が危険じゃない。ばまちゃんよりも、、」とため息をつきながら呟く。
深海の生き物については、生体以外のものを含めて展示に力をいれているのを感じた。深海生物が好きな私たちは興味深く見ましたが、やはり生体が見たかったなと思うこともありました。
ここはクラゲの展示が有名らしい。幾つもの水槽あり展示方法も色々。
20180823_1水族館なので、魚を個別に展示している水槽もあった。
フウセンウオの赤ちゃんは見ていて飽きない。家に飾っておきたい気持ちにもなりますが、これは赤ちゃんで成魚になったら姿は違うだろうし、生き物ですからその気持ちにはブレーキを。だからといって写真を飾ってもつまらない。

 

入口でいただいたプログラムには、イベント開始の時間が書いてある。そろそろイルカのショーが始まるとのことで、会場に向かう。

途中、砂浜が見える通路があった。黄色い旗が強風に晒されていた。風が強く白波が立っていた。お盆も過ぎていたからだろうか、風のせいだろうか、海水浴客の姿はあまり見えない。強い日差し、強風にはためく黄色の旗、濁って白波が立つ海、その手前には綺麗な海の家が並ぶ。その風景がどこか寂しく感じた。

通路の先にイルカのショーの会場はあった。そのとき何気なく思い出した。
ここのイルカの飼育について一部の人たちが問題視していることを。
会場に着くと、既に説明が始まっていた。

つづく

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2018年8月22日 (水)

アゲハ再び(たぶん)

20180822_172704もう「アゲハ」というカテゴリーを作った方が良さそうな、このブログ。

アゲハの幼虫に食い尽くされたイタリアン・パセリも葉が出始めてきた。幼虫たちは蛹になるために姿を消し、イタリアン・パセリは鬼のいぬ間の復活に励んでいる。

「このまま茂ってくれれば幼虫がいっぱいきても大丈夫かも。あと2週間くらいかな」とおもいながら、葉をよく見てみたら、写真の通り。たぶん、キアゲハの卵です。

全て違うプランターの葉です。見つけられないものもあるはずなので、また食料危機になりそうです。

20180822_172803  20180822_172837

こことは別の明日葉が茂った場所では、30匹くらいの小さな幼虫がいました。
彼らは明日葉を消化しきれずに黄色い液状の排泄物をするので小さくてもすぐに見つかります。明日葉は(今のところ)大量にありますが、この数ではこちらでも食料危機になることでしょう。

こんなことをやっているのを、近所で一生懸命ガーデニングやっている人が知ったら腹立たしくおもうかもcoldsweats01

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2018年8月13日 (月)

手は出さないように(アゲハの幼虫)

これは備忘録。今後も余計なことはしなように、という意味で。

アゲハの幼虫たちのほとんどは、脱皮を繰り返し、姿を消した。どこかで蛹になっているのだろう。

しかし、3匹だけ成長を遅らせどうにか生きているものがいた。それらは種や皮を食べている。
内一匹がベランダにいた。彼が居た鉢は、種が乾燥し、枝も乾燥し始め、何も食べられない状態だった。私が見た限り2日ほど動いたのを見たことがない(場所は少し移動していた)。体が少ししぼんで(張りがなくなって)きているように見えた。これは時間の問題か、とおもった。

ちょうどその頃、他のプランターに葉がつき始めたので、移動してあげることを考えた。
指でつまむと、触角を出し、口から薄いオレンジ色の液体を出した。口から液体を出すのはあまり記憶にないが、水分を出すくらい余裕があるのかとおもっていた。

そして葉が生え始めたプランターに移動。
置いてすぐは少し動いて、歯を食べそうになったが食べない。たぶん休憩時間なんだろうとおもっていた。これは8月9日の午前中だった。

その後、ときどき見ていたが、食べる様子もないし動いていなようだ。身体も皺ががくっきりしてきたし、肌も乾燥してきているかんじだった。
、移動してから二日後、下の写真のようになり、3時間後くらいには落ちていた。

20180811_124303  20180811_124317

身体の真ん中辺りの脚をしっかりと茎につけて、そこから折れるように亡くなっていた。最後の力は「とにかくしがみついていよう」とおもっていたのだろう。身体はしぼんでいた。

私が移動したからこのようになったのだろうか。たぶん、あのままでも同じだったとおもう。
「もしかしたら」という気持ちがぬぐえないので、今後はこのようなことは辞めようと心に誓った。

似たような固体が道路面の株にいるがそのままにしておこう。
以前、道路面辺りにいたが玄関横に移動した個体(前回の書込みで正面写真を撮ったもの)は丸々と太り、「まだ蛹にならないの?」とおもうくらいになったのですが、大雨の直前に姿を消しました。たぶんどこかで蛹になったことでしょう。

20180811_124414ベランダで種と皮だけを食べて、大きくなれずに最終齢を迎え、近場で蛹になった個体はまだ蛹でいる。


とにかく、以降は(余程確実でない限り)幼虫の移動他、手を貸すのはやめるようにしよう。

 

今朝(8月13日)、ベランダに(たぶん)キアゲハがやってきていた。今、卵を産み付けられてしまうと、また食糧問題が発生するので別の場所で卵を産んでほしい。しかし、庭によっては害虫扱いされる。

たぶん、このブログも「害虫育てて何が面白いんだ、いい加減にしろ!」と思いながら読んでいる方もいらっしゃることでしょう。

世の中って、そういうものですよね。

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