2018年8月13日 (月)

手は出さないように(アゲハの幼虫)

これは備忘録。今後も余計なことはしなように、という意味で。

アゲハの幼虫たちのほとんどは、脱皮を繰り返し、姿を消した。どこかで蛹になっているのだろう。

しかし、3匹だけ成長を遅らせどうにか生きているものがいた。それらは種や皮を食べている。
内一匹がベランダにいた。彼が居た鉢は、種が乾燥し、枝も乾燥し始め、何も食べられない状態だった。私が見た限り2日ほど動いたのを見たことがない(場所は少し移動していた)。体が少ししぼんで(張りがなくなって)きているように見えた。これは時間の問題か、とおもった。

ちょうどその頃、他のプランターに葉がつき始めたので、移動してあげることを考えた。
指でつまむと、触角を出し、口から薄いオレンジ色の液体を出した。口から液体を出すのはあまり記憶にないが、水分を出すくらい余裕があるのかとおもっていた。

そして葉が生え始めたプランターに移動。
置いてすぐは少し動いて、歯を食べそうになったが食べない。たぶん休憩時間なんだろうとおもっていた。これは8月9日の午前中だった。

その後、ときどき見ていたが、食べる様子もないし動いていなようだ。身体も皺ががくっきりしてきたし、肌も乾燥してきているかんじだった。
、移動してから二日後、下の写真のようになり、3時間後くらいには落ちていた。

20180811_124303  20180811_124317

身体の真ん中辺りの脚をしっかりと茎につけて、そこから折れるように亡くなっていた。最後の力は「とにかくしがみついていよう」とおもっていたのだろう。身体はしぼんでいた。

私が移動したからこのようになったのだろうか。たぶん、あのままでも同じだったとおもう。
「もしかしたら」という気持ちがぬぐえないので、今後はこのようなことは辞めようと心に誓った。

似たような固体が道路面の株にいるがそのままにしておこう。
以前、道路面辺りにいたが玄関横に移動した個体(前回の書込みで正面写真を撮ったもの)は丸々と太り、「まだ蛹にならないの?」とおもうくらいになったのですが、大雨の直前に姿を消しました。たぶんどこかで蛹になったことでしょう。

20180811_124414ベランダで種と皮だけを食べて、大きくなれずに最終齢を迎え、近場で蛹になった個体はまだ蛹でいる。


とにかく、以降は(余程確実でない限り)幼虫の移動他、手を貸すのはやめるようにしよう。

 

今朝(8月13日)、ベランダに(たぶん)キアゲハがやってきていた。今、卵を産み付けられてしまうと、また食糧問題が発生するので別の場所で卵を産んでほしい。しかし、庭によっては害虫扱いされる。

たぶん、このブログも「害虫育てて何が面白いんだ、いい加減にしろ!」と思いながら読んでいる方もいらっしゃることでしょう。

世の中って、そういうものですよね。

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2018年8月 9日 (木)

「進化」について

前回のブログを書いていて、進化について考えた。

ダーウィン的な進化論は、その環境下で優位な遺伝子をもった個体が突然出てきて、生存競争で残り、そして子孫を残していった結果、と私は理解している。
つまり、ある種の突然変異を起こした(他の個体とは遺伝子が違う)固体が、種としての進化の引き金となる、と理解している。

10年以上キアゲハの幼虫を見ていて思ったことは、遺伝子の変化がなくても、種としての行動に変化が起こることがあるということ(形の変化はないようですが)。

 

幼虫たちが姿を現した当時は、食べ物(イタリアンパセリの葉)にも余裕があった。
余裕がなくなると姿を消してゆくものもいる。成長を遅くするものもいる。
それ以外に、今まで食べなかったものを食べるものが出てきた。

 
一つは、明日葉。
これを食べられるようになる個体の数はとても限られている。ほとんど個体は生まれたときに口にしない限り、まず食べることはないようです。
どちらも「セリ科」ではあるが、イタリアンパセリは「オランダゼリ属」、明日葉は「シシウド属」。見た目からして全く違う。
前回も書きましたが、これを食べても消化しきれていないようで、黄色い液体状の排泄物をを出します。
これらの数は、その時々で多少の幅はあるのですがとても少数であることは変わりない。(明日葉が食べて黒い丸い排泄物が出せるようになるには遺伝子レベルでの変化が必要とおもわれます。)

二つ目は、イタリアンパセリの種を食べる幼虫だった。
まだ実の形になったばかりの緑色の種を食べていた。葉に比べて栄養が多いためか、一気に食べることをしない。彼らに共通なことは、最終齢の手前で色白になる。
このような個体は、葉も食べることが出来るし、次の茎も食べることが出来る。

三つ目は(種のところで書きましたが)茎を食べるようになった個体。
実を食べた後、その付け根まで食べたことが始まりではないかと想像している。平たく言えば、実を食べた勢いあまって食べたのではないかと思っている。
葉だけ食べている個体にとって茎を食べることは咀嚼する力を考えると難しいだろう。

種や茎を食べる個体は葉も食べる。そして争わない。
昔、皆が葉だけ食べていた頃は、近くに他の固体が来ると角を出し、音を出し、威嚇していましたが、最近はそれを見聞きしなくなった。

四つ目は、茎の皮。
これが出来る個体数は少ないのですが、確実に増えているのを感じます。明日葉を食べる個体のより多くなりました。
何故、茎そのものを食べないのか不思議だったのですが、茎の先が枯れてしまうと食べないようです。仕方なく、先端以外の所を齧ったら皮を食べることが出来たのでしょう。
彼らは、葉を見つけることが出来れば、このようなことしません。

 

イタリアンパセリの何処まで食べることが出来るか、ではありますが、食性が変わったように見えてなりません。
葉を食べるだけであれば、それに必要な口の能力があればいいのであり、実や茎を食べるほどの頑丈な口は必要ないとおもいます。

たぶん、「実を頑張って食べたら、すぐにお腹いっぱいなった」(食事のために使うエネルギーが少なくて済んだ)ことから、この方向に変化していったのだと想像しています。

理由は分かりませんが、一匹だけということはなく、周囲の個体の中から同じことをやる個体が出てきます。実を食べる個体がいると、1~2日経つとその周囲で他の個体が食べ始めることがあります。
犬や猫が他の個体から行動様式を得ることに似ていると思いますが、コミュニケーション能力のツールである、視覚等の能力が違いすぎるので、信じられない気持ちはあります。

補足(前回も書いたことですが)。
イタリアンパセリは実をつける前、花を咲かす頃から葉の形を変える。この葉は、彼らは食べることが出来ない。なので、実のある株に登った幼虫は、実または茎を食べるしかない。
それでも実をつけている株に居続ける個体がいる(色白になる)。

 

環境の変化に合わせられるようになった個体が増え、色々な部分が食べられるようになっただけ。そして、仲良くなって団体行動がとれるようになっただけ、で進化とまではいないのかもしれない。

戦後、日本人は肉を多く食べるようになり、生活習慣が変わり、体が大きくなった。これは進化とは呼べないかもしれない。きっと誰も呼ばないだろう。
これに似ているような気がする。

最近のことですが、ラジオを聴いていると「ここまで成功できた理由はどのようなところにありますか?」とアーティストや起業家に問うことがありますが、その答えの中に「常に努力し続け、チャンスを確実に前進につなげる」との内容であることをときどき訊く。
これにも似ていますね。

 

キアゲハの幼虫同士がコミュニケーションをとれるとは思っていませんでしたが、行動を真似ることや団体行動をみると少しはあるのかもしれないとおもうようになってきました。
それであっても、世代を重ねて行動が強化してゆくのが不思議です。何処かに書いておく能力があるとは思えないし、蝶になってから幼虫に教えに来るとも思えない。
世代が進むときに、行動が記憶されてゆくように見えてならなりません。もしかしたら、それにより、身体の形や能力も変わってくるのではないだろうか。例えば、実を食べるのに適した口に変えてゆくとか。
それが進化の一助になることがあるのではないか。もしそうであるなら、その情報の伝達は遺伝子に載せる以外にないだろう。そうであるなら、一種の突然変異と解釈されても良いのではないか。

 

進化に遺伝子レベルで証明できる突然変異が必要なことは理解できますが、それが起こる前に、努力する個体がいること。そして、その努力が世代を超えて伝えられるのではないか。伝える方法はやはり遺伝子なのではないか。

 

昔、うーにーのトレーニングに没頭していたとき、始めの内は、「もし言葉が通じれば、こうしてね、と私が言い、うーにーが理解し、これからはそうするね、と答えてくれれば、済むだけのことなのに」と思ったこともありましたが、そういうことではないと、比較的すぐに感じるようになりました。
犬は「言葉が通じない相手」ではなく、「言葉そのものを持たない相手」であることを感じることが出来た。

もし、うーにーが子供を産んでいたら、生まれながらにして私とのコミュニケーションをとり易い能力を持っていたかもしれない、と思ったりもしますが、私はそれは望まない。それを望むのは擬人化というものだろう。「人は言葉という特殊能力をもち、犬は(他の動物と同じく)その能力を持たない」からこそ、素敵な関係が築けるとおもっている。人と犬との出会いから、それを乗り越えることの素敵さを体験している。

それが出来る関係をソウル・フレンドと呼ぶ人もいるだろう。私もそのように感じることもある。しかし、ある程度の知識(個体選びを含む)と技術でカバーできる部分もあると確信している。

 

いつかまた、犬と暮らせる日が来るだろうか。
我が家の周りに懸命に生きる幼虫たちを見続けながらそんなことを思った。

 

20180809_102848右の写真は、玄関前で皮だけ食べて生きながらえていた個体。8月9日、関東から台風が去った朝に撮影。
ほとんど動かず成長も遅かったのですが、ついに最終齢になることができました。
この写真からも皮を少しずつ食べているだろうことが窺えます。

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2018年8月 7日 (火)

暑すぎる夏のアゲハ(キアゲハ)

2018年の7月8月の暑さは異常だ。うーにーがやってきた1994以来、猛暑と呼ばれる夏が珍しくなくなり、最近では冷夏という言葉は忘れ去られている。

10年以上前から我が家にアゲハ(キアゲハ)の幼虫が来るようになったのですが、ここ3年くらい、その数が激減した。
その理由の一つは、彼らの食べ物であるイタリアンパセリを私が真面目に育てなくなったからだろう。もう一つは、この3年くらいの暑すぎる夏だけではなく、夏前後も暑すぎることが原因だとおもっていた。

我が家の周りには幼虫の生息地が三箇所ある。内一箇所は昨年出来た。それらは普通に考えたら、幼虫が移動できないだろう距離である。

 

7月28日に台風がやってきた。
その前に、生息地の一箇所である雑草地帯を少し綺麗にした。雑草の中にイタリアンパセリがあり、そこに小さな幼虫が数匹いた。
イタリアンパセリは一本だけで、その葉は既に食べつくされていた。彼らの今後は、食料不足で姿を消すか、近くにいっぱいある明日葉を食べるかだろう。しかし、彼らは明日葉を消化しきれず、最終齢の姿になれるものは稀である。

通常、幼虫の糞は黒いころころしたものだが、イタリアンパセリを食べている幼虫が明日葉を食べると、黄色い液体の排泄物を出す。見ていても「食べたくないんだけど」という感じだ。そして姿を消してゆく。

基本的に、どんなに悲惨な状況になっても手を出さないようにしているのですが、ここのところ幼虫が来てくれていなかったので、このときは手を出してしまった。
台風の前に、雑草地帯から一匹だけベランダのプランターに移動した。

 

■ 7月31日(台風から2日目)

ベランダのプランターには、小さな幼虫の姿が2匹ほど確認していたが育ちが悪かった。一匹くらい増やしても食料不足にはならないだろうと考えていた。

それから台風が来て、数日が経った日の写真

20180731_102152   20180731_102200

ここに写っているプランターが全てではないが、左の写真の4つプランター中に4匹の幼虫が確認できるとおもう。その他、小さな幼虫もいて、このとき、ここに10匹くらいいた。

右の写真の白っぽい幼虫ですが、これは食べ物が少し変わっています。
我が家に通い続けた結果、葉ではなく(乾燥前の)種を食べることを覚えたものがいます。彼らは自分が好きなものばかり食べます。種ばかり食べている個体は、この時期に白っぽくなります。

 

■ 8月1日(前の写真の翌日)

左が、朝8時ごろ、右が、午後3時頃。

20180801_080045 20180801_151342

朝、幼虫が何匹もいる写真の状態でも既に食べられそうなものは無いように見える。よく観察していたら、茎を食べていた。二つの写真を比べると、何本かの茎がとても短くなっているのが分かる。

20180801_151351上の午後三時頃の写真を撮った直後に撮ったのが右の写真。
みんなでほんの少し残る鉢へと移動して行っていた。

台風前に一匹だけ移動したら、台風後、移動先の数がとても増えたように見えた。ある程度育ったものがほとんどだったので、「移動してやったヤツが呼んだのか?」と思った。

何年か前、似たような状態(食べ物が限られた状態で個体数が多かったとき)で、幼虫同士が「カッ、カッ」と音を出して威嚇し合っていたことがあったが、今年はその音を聞かない。みんな仲良くやっていて、まるで群れのようにも見える。

 

彼らの行動は「食べる」と「休む」を繰り返す。
食べているときの運動量は激しい。一心不乱という感じ。そのときに食べるものがないと、やはり一心不乱に探す。とにかく動く、移動する。視力などは良くないようだ。無闇にという感じで動き続けて、それらしものを口にし、食べられるものであれば貪り食うという感じ。

食べ物を探す行動が哀れ見えてしまうので、台風前に一匹だけ移動しましたが、私は基本的にそういうことはしないようにしています。
蝶になることが出来た個体の数が増えても、次の世代が増えることが出来ないからだ。つまり(大袈裟かもしれませんが)自然淘汰の機能を阻害しないように心がけています。

 

■8月3日

三枚とも、朝10時頃の写真。

下の左写真の場所は、1日までメイン会場になっていましたが、皆が引き上げ茎ばかり残ったプランター。
茎を食べることが出来るようになった固体も、茎の先が乾燥していると食べないようです。

最終齢にまでなった個体の数や日にちからして、まだ姿があってもいいように思うのですが、皆、食べ物を求めて旅に出てしまったのか姿がない。よく探してみたら下の右のようにプランターの向こう側で蛹化しようとしていた個体がいました。サイズがちょっと小さいです。最後に食べ物が不足して遠くへ行くエネルギーがなかったのかも。
20180803_094803  20180803_094832


20180803_094949右の写真は、8月1日の小さな鉢から50センチもない場所にある鉢ですが、ここのイタリアンパセリはすでに種の状態になっています。種は既に乾燥し始めていて食べることが出来ないようです。
葉がついているじゃないかと思うのですが、イタリアンパセリは、花が咲く時点で葉の形が変わり、幼虫はこの葉を食べない。食べることが出来ないようだ。
この写真で二匹が確認できますが、食べている姿も食べ物を探す姿も見ませんでした。

 

■8月4日

20180804_102843今まではベランダの話ですが、別の場所として玄関周辺がある。その中でも特異なのが敷地外、道路に面している所。
ここにイタリアンパセリが生えたことにも驚きましたが、そこに幼虫がやって来たのも大したものだと思いました。それだけ食べ物がないのでしょう。

左の写真の通り、既に坊主状態。この写真の向こう側の株に3匹の幼虫が見えます。これらは数日前からここにいるのですが、何を食べているのか分からなかった。
種は食べつくしているし、茎さえも枯れ始めているように見えた。

この写真だけでは、3匹がよく分からないので、もう少し近づいて写真を撮りました。

20180804_102850  20180804_102856

この写真を撮ったときに、茎の皮を食べていることをに気が付いた。茎が白いのは枯れているのではなく、皮を食べられてしまったからだった。
20180804_102908右の写真は皮を食べている時に撮った写真ですが、食べているとは分かり難いですね。でも皮が剥がされていることは分かると思います。

これらの個体は次の日には引っ越していました。引越し先も丸坊主で、皮もあまり食べたくないようで、動いているところをみたことがなく、成長も非常に遅く、最終齢になる前に姿を消しました。

 

■ 8月5日

20180805_174554写真を撮ったのは、夕方の5時45分頃。

蛹化しようと頑張っている個体。昨日(4日)は未だ幼虫の形をしていましたが、めでたく蛹の形になっていました。

3日の三枚目、大きな鉢に移った二匹ですが、一匹は姿がなくなっていました。
もう一匹は同じような場所で動きません。皮を食べているようでもありません。自身が誰かに食べられるのを待っているようにも見えます。

丸坊主になったプランターのイタリアンパセリは再生を始めた。

20180805_174643  20180805_174623

冬が来る前に、もう1回くらい幼虫たちはやってくるだろうか。

 

幼虫がやってくるということは、蝶がやってくることがある。今回は7月中旬くらいに来ていたような記憶がある。
よく、蝶や蛍は死者の魂の化身だと言われることがありますが、何気なく分かるような気がします。ここ3年くらい静かだったのに、今年は来ました。思い当たることがあります。
蝶が来てから幾つか墓参りに行きました。しかし、墓に行っても本人を強く感じることはない。蝶が来た時の方が強く感じる。

まだ行っていない墓参りが幾つかあります。仕事や雑務も一段落ついてきたし、幼虫たちのことも落ち着いてきたので、ぼちぼち片付けて行こうとおもう。
(私が勝手に感じているだけです)アピールすると言うことは、まだこちらに魂が残っているのかな。もしそうなのであれば複雑な気持ちです。守護霊になって守ってくれているなら嬉しいけど。

少子化の時代。来世を得るのも大変なのかも。

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2018年8月 2日 (木)

夜廻り猫 第四巻

20180802Twitter でも読んでいる「夜廻り猫」の第四巻をここ1週間くらい読んでいる。既に読んでいるものがほとんどなので、何気なく眺めるように読んでいる。ふと目次を見ると、タイトルを見ただけでも内容が浮かんでくるようになるくらい読んでしまっている。

ふと「なんでこんなに読んでしまうんだろう」と考えてみた。

個人としての頑張り人の話が幾つも載っている。自己嫌悪に陥りながらも改善できそうにない人の話しもある。ほとんどの回が解決できる訳でもなく、視点を替えて気持ちを切り替えるくらいで終わる。
頑張りが間違っているのか。考え方が間違っているのか。たぶん、そうではない。
登場人物一人一人は魅力的だが、ストーリーは必ずしも万々歳な結末ではない。

たぶん、ストーリーが魅力的だから読むのではなく、「なんでこんな世の中なんだろう」、「どうしたら良いのだろう」と考えながら読み返しているのかもしれない。 
「身近に似たような人がいるし、自分に似ているところがある登場自分物もいる。残念な部分も似ている。こんなこと誰にも言えないし、言っても仕方がない。でも言いたい。世の中、なんかおかしいんじゃないの?」と。
 

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それにしても絵が上手い。
伝えようとしていることをしっかり描いている。伝わってくる。
左ページに8コマ漫画、右ページに一枚の絵。右ページの絵を見たときに、えっ?、とおもうことがある。私の思い出を知っているのか、とおもってしまうこともある。 

Twitter で日常的にあげている(ざらついた紙に筆で描いている)一枚の絵は芸術的にも感じる。

これだけの絵が描けるのは続けてきたからだろう。その「すごさ」を感じる。
絵だけでなく、ストーリーを考えるのも容易ではないとおもいます。

 

これからも、日常的にネット上で、ときどきまとめてコミックで、楽しみにしています。

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2018年7月16日 (月)

ちょっとした勉強会

今回も備忘録的なブログ。
分かる人にしか分からない内容だし。

 

とある週末、お泊りでフードをメインとするペットビジネスの勉強会に参加してきました。生体は全く扱わない世界ではありますが、フードが関わりますので生体(一般飼い犬・飼い猫、保護されている犬や猫)への配慮・援助ということも含まれる。

私的なものであったので、具体的なケースで話が進み、その内容はここには書けません。
ここに書けることは、私が「やっぱり、そうなんだ。今の飼い主さんは、ある意味大変だな」と感じたことを書いておく。

 

うーにーが我が家にやってきたのは、1994年。高温の夏が当たり前になり始めた頃で、エアコンの室外機が高温で止まってしまい、一人暮らしの高齢者が亡くなったことが問題になった年でした。
次の年には、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件。1994年に埼玉愛犬家連続殺人事件。この頃、大阪の自称訓練士が殺人事件もありました。
今ととなっては「とっても昔」の話で、2000年の動愛法改正以降に、ペットについて興味を持った人たちの中には知らない・感覚的に理解出来ない人たちも少なくないだろう時代です。

ちなみに、ドッグ・カフェという言葉はありませんでした。ドッグ・ランは「欧米にはそんなものがある」程度で、東京都や23の各区が管理している公園にそのようなものが設置されることは「有り得ない」とおもうような時代でもあり、夜な夜なノーリード集会が隠れて(?)行われ、「前回の咬傷事故がいつで、どんな人が関わっていた」等が公然の噂でした。

当時のドライフードといえば、日本に昔からある加工食品メーカーが直接か、その関連会社が作っていたり、輸入代理店になっていたり。また、獣医さんが療法食として扱っているメーカーのもの、ショーをやっている人たちが使っていたもの、などが輸入されていました。
私の記憶では「プレミアム・フード」という言葉はなかったと思います。一般飼い主が入手し易かった「良い」と言われるフードは「ショードッグ用のフード」などと呼ばれるようなことが多かったと思います。

(一般の人が気軽に手に入れることが出来る)ショードッグ用のものも数が非常に限られていて、中には「私は絶対に使いたくない」とおもうようなものも「良いフード」をされていました。しかし、そのフードはある程度の数の人に支持されて有名になっていたことも事実です。つまり、イメージ戦略、ブランド戦略が成功していたのです。

その後、植物性のものをメインにしたものや「ここまで考えているのか!」とおもったり、「アメリカにはペット・フードの法律があり、守らないと大騒ぎになるのか」と関心したりしたものでした。

そして「手作り」や「生食」の情報も広がってきました。
その頃の日本は、Windows3.1 から Windows95 への移行時で、インターネットインフラが整いつつある時代でしたが、まだまだ一般的ではありませんでした。ADSLのサービス開始は1999年と言われていますが、普及が始まり「ブロードバンド元年」と言われているのは、2001年です(Windows Me)。

それ以前のことですから、マスコミ媒体としては数少ない雑誌、それ以外は口コミが情報入手の主な手段だったと記憶しています。なので、ブランド戦略はし易かったとおもいます。
当時も「みんな、もう少し考えてみようよ」と感じることがしばしばありました。

 

現在、2018年。様々な情報が手にはいります。「あのペットフードは本当にいいの?」と思えば、色々な情報がインターネットを経由して入手できます。もちろん発信する側にもなり得ます。
そのような時代なので、イメージ戦略、ブランド戦略は難しいだろうとおもっていました。

今回の勉強会は、ちょっとした衝撃でした。戦略を仕掛ける側の手法も高度になっていました。また力の入れ方も昔とは違うと感じました。

現在、プレミアム・フードと呼ばれるものは多種多様あります。となると、どれか一つのフードに目をつけ、「これ、うちの子に良いかな?」とネットで調べた結果、著しくネガティブな情報がなければ「とりあえず使ってみよう」となります。しかし、身体はそれぞれ違うので、同じフードを食べても同じような変化が期待できるとは限りません。そうなったときは次を探せばいいのです。

以上は「買う側」の話ですが、次は「売る側」の話。

前の方で書きましたが、1990年代中盤くらいまでのペットフード業界は規模も限られていました。また(ペット関連に限らず)広告戦略も今とは違って紙媒体がメインでした(ペット関係は電波媒体はほとんど使っていなかったとおもいます)。戦略といっても分かり易かった時代です。

ちなみに、消費者金融会社のCMにチワワが採用されて、小型犬ブームに拍車がかかるきっかけとなったのは、2002年です。ちょうど、ブロードバンドの普及が顕著になった頃になります。そしてよく「ペット産業は、既に一兆円産業になった」などと言われてことも記憶しています。

それから15年以上経った現在の販売戦略は(ペットフードに限らず)、とても多種多様な媒体、高度な手法、戦略が行われるようになりました。ペット・フードに関しては、昔は(産業として)力を入れて広告を打つほどの部類には入らなかったのですが、現在のように多くのフードが販売されて、多くの人がペットと暮らす世の中となっている現在、売る側も苦労が絶えないだろうことは容易に想像できます。

そんな現在の販売事情はどうなのか?
まず、他の主な産業と同じビジネス形態がとられてことに驚きました。フードメーカーや海外フードの輸入販売権が投資の対象にもなるようです。販売戦略は、やはりまずイメージ・ブランドの確立、販売網の整備と、日本における主な産業と全く同じ手法が取られているようです。

具体的な話を聞いていると、耳を疑い、目は白黒してしまいました。それくらい 1990年代との違いを感じました。

 

そこで感じたことは(ペットフードに限りませんが)それら情報を安易に信じ、それが(自分が得られる)最高のものだと思い込んでしまうことに危険はないのだろうか、と疑問をもってしまいます。
送られてくる情報が力強いものであれば(しかも多方面から同様の情報が入れば)そのように思い込んでしまうことは、当然のことだとおもいます。

このような情報に惑わされたとしても、フードを購入する側が危険な立場にさらされることは、ほとんどないでしょう。(現在、日本にもペット(犬猫に限りますが)フードに関するがありますので。)あるとしたら、「実は割高なフードだった(自分がおもっていたほどの効果が得られなかった)」「ちょっと体調が悪くなったような気がする」くらいで、ペットに著しい健康被害が出るようなことは、ほとんどないのではとおもっています。なので、「人間の食べ物も疑問をもつこといっぱいあるくらいだから、この程度ならいいんじゃない?」とおもってしまいます。

しかし、壁ではなく卵の立場を伝えてゆきたい人間としては、「ペットのためによりよいフードや日用品を」と(ビジネス目線ではなく)飼い主目線で、情報を提供してくれる人たちの声がもっと届いてもいいのではないか、とおもうことが多々ありました。
それくらい資本を注ぎ込んだ情報が出回っていることを感じています。

 

食べ物のこと、日常使うもののこと。それらのことを考える時間を、もっともってもいいのではないかと、いつも思ってところに行き着いてしまった。

皆さんには、こんなことを考えてほしい。

「カロリー」や「糖分」「脂肪分」などを気にされる方は少なくないとおもう(自分、家族、ペットに限らず)。
その理由は、肥満であったり血管内にへばりついてしまうものだったり、色々あるとおもいます。
ほとんどの理論展開は、これらの入口と結果です。「表示されているカロリーがこの数字だから肥満になってしまう」など。

同じものを同じ量食べたら、同じだけカロリーが摂取され吸収されるのだろうか。つまり個人差、個体差の問題です。
そもそも食品に表示されているカロリーの計り方は、摂取を前提として計られるものなのか調べてほしい。お時間ある方は、他の数値についても調べていただけたらとおもう。

更にお時間のある方は、「栄養素」や「治療薬の基本成分」についても同様の視点で調べてほしい。簡単に言えば、サプリメントの効果は人によって違うし、薬の効果もそうだし、副作用も。
食品について、そのような視点でみることに、皆さんがもう少し力を入れてもいいのではないかと常々感じている。

つまり、入口と結果だけでなく、真ん中の「摂取」にも注目し理解し考慮してほしいのです。これは、個人差、個体差があるので広告に載せるのが困難な情報です。インターネットで他の人が書いていることが、自分には、自分が共に暮らすペットには、当てはまらないだろうとこでもあります。

医療行為についても同様のことが言えます。同じ検査結果でも症状が違ったり、同じ治療でも効果が違ったり。この部分を担当するのが、医師や獣医師の「診たて」になるとおもいますが、多種多様な検査が可能になった現在は、その能力をしっかりともっている先生が少なくなってきていると感じます。
そのことについても、皆さんがもう少し力を入れてもいいのではないかとおもうことあります。

 

ペットの日常を考えてあげるとき、自分自身の日常を考えるとき、身近な人のことを考えてあげるとき、そのようなことを考えてあげる時間をとってほしいと、心から願ってやみません。

10個一パックの卵も、よく見れば一つ一つ違う形をしています。人間を含めた生き物は、規格化できないものだと、私は信じ続けていたいのです。

 

100年後くらいには人間も遺伝子操作されて規格化されるかもしれませんが、そのとき、私は生きていないことが、私にとっての救いです。
その世界は、人間が人間により管理される(現在でいうところの)家畜であるか、AIにより管理される家畜ということになるような気がし、その世界を見たくないのです。

自分は世界に一人の自分であり、共に暮らす人間の家族もペットも世界に一つの存在だとして暮らすことが、幸せな日常の基礎だとおもいます。

 

そんなことを再確認した勉強会でした。

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2018年7月14日 (土)

ラブ ゼネレーション(読書感想文) その3

前回からの続きですが、今回は、書籍とはほとんど関係ないこと。

マスコミとは、マス・コミュニケーションの略であるから、「大衆とのコミュニケーション」だと思うのですが、「大衆への情報伝達」の方がしっくりくるだろう。
昔であれば、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などを使って不特定多数の人に同時に情報を伝達することであり、その情報を元に人々はコミュニケーションをとっていた。

インターネットが日常に根付いた現在、マスコミの伝達手段の一つにインターネットが入ることは確かではあるが、「不特定多数の人に対して同時に」ではないようなものが増えてきた。
また、受け手であった個人が、不特定多数の人に情報を発信できる世の中になってきた。

そのように、情報が交錯、氾濫している現在、情報がビジネスになるのは当然のことで、多くの人が求める情報には価値が生まれる。どのような情報を世の中の人が求めるかといえば、「明るい」、「前向きな」情報だろう。または、「押しが強かったり」、「過激な」、「刺激的な」情報も人は得ようとする。

情報だけではなくエンターテイメントもそうだ。音楽、テレビドラマや舞台、デザインなどもその傾向がある。

 

そのようなものは面白いかもしれない。刺激的なものを観ればワクワクするかもしれない。しかしそれが現実的なものではないとおもったとき、私は落胆する。ほとんどの人が現実的だと信じることが出来たとしても、私自身はそう感じることが出来ないとき残念な気持ちになる。

現実の個人個人は、そんなに強くないし格好よくない。私はそうおもってしまう。とても弱くどこか不恰好な部分を持っている人がほとんどだとおもう。
そんなことを伝え続けてきた早川さんが、皆の前で歌わなくなってしまったことが残念でならない。

 

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このブログを書く直前に、二冊のラブゼネレーションを図書館に返しに行った。そのとき、何気なく図書館内をうろうろしていたら、村上春樹の「雑文章」をいう本を手に取り、目次の「壁と卵」という文字が気になり読んでみた。
エルサレム賞という社会的・政治的に微妙な地域の賞を受賞したときのスピーチ。その中で村上さんがコアにしたのは、次のような一文でした。

=============
「高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ」
=============

上記の文章は、こちらのページからコピーさせていただきました。なので書籍とは表現が違うかもしれませんが、私の記憶の限りでは同じだっとおもいます。

 

早川さんは「高くて硬い壁」どころか、自分が暮らしている町の誰か個人にさえ劣等感を抱いてしまうような感じではありますが、「壁にぶつかって割れてしまう卵」が如きであると認めていることは確かだろう。

再び、上記リンクを張ったページからのコピーですが、こんな文章もあります。

=============
皆、薄くてもろい殻に覆われた、たった一つのかけがえのない魂(たましい)である、と。
=============

 

さて、本題です。

私は、犬や猫など身近な動物との幸せな暮らしを送るためには何が必要だろうか。今の世の中に何が足りなのだろか、と考えることがあります。
そもそも、各個人の「身近な動物との幸せな暮らし」とはどのようなものなのか。インターネットが普及し、個人が不特定多数に情報を提供できるようになった現在、それはある程度のモデルが存在するようにおもえる。犬であればこんな感じ、猫であれなこんな感じ、と。

しかし、よくよく話を聞いてみると「こんな感じ」には、だいぶ幅がある。実際の行動だけでなく、根本的な考えにも随分と幅がある。「子供の頃からこのように(犬や猫と)接してきた」その接し方が現在では犯罪になることもありますが、法律のことを知らずに昔ながらの接し方をしている人もいる。法律のことは知らなくても、「世の中が変わってきて、自分の感覚(接し方)が非難されることがある」と感じ始めている人もいる。
(犬や猫に)色々なことをしてあげたいとおもっていても、時間的な制約などでそれをしてあげられないので理想的な関係が築けず、ジレンマを感じている人もいる。

情報が氾濫していると言われているこの現代に、このような人たちが多々存在する。30年前に比べれば、とても高度な情報が簡単に手に入る現在でも。
どれほど高度な情報であっても、個人が積み上げた知識・経験から得た各自の感覚と、現在の社会が「正解」としたスタイルとの溝を埋めることは容易ではない。人によっては「不可能」と言ってもいいだろう。

こんなことを日頃感じている私は、村上春樹の「皆、薄くてもろい殻に覆われた、たった一つのかけがえのない魂(たましい)である」に共感を覚えた。

またこのスピーチの中には、以下のような内容もあった。これも上記のリンク先からコピペさせていただきました。

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何が正しくて何が間違っているか、何かがそれを決めなければならないとしても、それはおそらく時間とか歴史とかいった類のものです。
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長年、犬や猫との暮らしについて調べたり考えたりしていると、このようなことを実感します。20年前、30年前、50年前の日本のことを思い浮かべてほしい。さらに、その日本の中の色々な地域のことを思い浮かべてほしい。
犬や猫との付き合い方は、とても変わってきています。しかし、誰が何をもって「これが正しい付き合い方」と断言できるのでしょうか。法律で色々定めて方向性を示していますが、違和感・反感を抱いている人もいる。

何が正しいかと決めるのは、「時間とか歴史とかいった類のもの」であると、私もおもいます。今は正にその判断を待っている最中なのだと。

 

「犬とゆく」や「人のため、犬のため」がやるべきことの一つに、そんな混沌とした時代でも、より多くの人が幸せが実感できる、犬や猫との暮らしを目指すための情報を提供してゆくことなんだろう。

ときどき、「あなたははっきりと答えを書かない!」とお叱りモードで助言を頂戴することがありますが、私は「何が正しいか」を書きたくありません。「今はこうですよ、こんな人もいますが、全く逆の人もいます。この日本の中で、各自その人の人生の中で自然に身についた感覚は違うのです。そんな色々な人がいるのが今の日本です」と伝えるのが、私の役目だとおもっています。

壁は誰でも見えますから伝える必要もないでしょう。日々消費されてゆく数多くの卵の中から、私が出会った卵のことを、これからも伝えてゆきたいとおもいます。

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コピペさせていただいたページは以下。
(ブログ名)青山の昼と千駄木の夜 ~Indiana(インディアナ)暮らし編
(ページ名)『【全文版】卵と壁 ~村上春樹氏 エルサレム賞受賞式典スピーチ』
(URL) https://ameblo.jp/fwic7889/entry-10210795708.html

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2018年6月 5日 (火)

Dr. Jeff に質問したかったこと

私は現在、シェルターに関わる活動も里親探しに関わる活動もしてないので、ジェフ先生の講演会を聴く価値がある人間なのか疑問におもっていた。聴いても実感が湧かないのではとおもっていた。

しかし聴いていて、「自分がおもっていることと同じだ。でも、日本でそんなこと言うと白い目で見られるんだよな~」と思い、同時に「でも、聴きに来ている人の多くは、ジェフ先生と同様の考え・感じ方なんだろうな。だから来ているんだろうな」と想像して聴いていた。
しかし前の書き込みで書いたように、必ずしもそうではない人がかなりの数いらしたようでした。

だからこそ質問したいことがあったのですが(質問時間は結構ありましたが)先生の考えを受け入れがたいと、私には聞こえる質問が相次ぎ、時間切れになってしまったことが残念でした。

 

改めて論点を書いておきます。

6月2日の話は私には以下のように聞こえました。
ノーキルを目指してしまうと、安楽死の必要があると多くの人言う状態の犬や猫を抱え込むことになり、活動が効率的に行えなくなることがある。その結果、シェルター内が不適切な状態になったり、運営姿勢に問題が出てきたりする。なので、総合的にみて安楽死を選択肢の一つに入れるべきである。選択するかどうかは、団体の状況により判断は変わってくるだろうとのことです。
また獣医師である彼は、個々の動物としっかりと向き合う(一頭一頭をしっかりケアする)ことが基本であり、重要であるとも語っていました。著しい苦痛を抱え回復の可能性もほぼない場合は安楽死を検討すべきだ、とのことです。

そのような姿勢で運営されているシェルターは、活動が安定して長続きし、シェルター内の環境も良いケースが多い。
この考えは、長年、世界中のシェルターを見てまわったり、運営に関わってきた結果。より多くの動物たちを救うには、このような考えを持つことが大切。

だいたいこんなことが主旨だったとおもいます。

それに対して、何人かの方が自分の体験談をしっかりと説明し、そして次のような質問をしていました。
どんなに(経済的、時間的など総合的に)コストがかかっても、目の前の命を救うことに常に前向きになるべきではないのか。

 

(私がしたかった質問)

動物愛護の歴史を振り返ると、まず「目の前の動物に対する気持ち」から始まり、しかしそのような活動は社会全体には受け入れられず、経済的な価値をはじめ社会全体の利益に繋がる、つまり社会貢献でもある活動だと明示することで、幅広い理解、そして支援を得られるようになったきたことをご存知の方も多いとおもいます。

今回の講演会、そしてジャパン・ツアー全体は、そのことの再確認と、気持ちから社会貢献への変革を起こす手法の具体的な提案だと、聴いていておもいました。

 

質問したいことは2つ。

1つめ。気持ちで続けている活動について。
そのような活動は、社会貢献としての活動へと必ずシフトするのが「理想」なのでしょうか。それとも、気持ちの活動と社会貢献の活動、両方が常に存在する社会も、先生のお考えの中では、一つの理想なのでしょうか。

2つめは、具体的は手法についてです。
先生の活動は、身近な動物をレスキューすることは、社会貢献になる活動であることを幅広い人たちに理解していただく必要があることを広め、その実践を手助けすることだと、お話を聞き理解しましたが、気持ちだけの活動ではなく社会貢献活動であると、考えを改めていただかなくてはなりませんが、その具体的な手法について教えてください。

今日のお話の中で一般的には「一つは教育。そして助成金など行政からの補助やアピール。もう一つは寄付などによる活動を通しての啓発」と理解しましたが、日本にいらして山崎さんとお話を重ねているとおもいますので、この日本に有効的だと思われる手法を教えてください。

 

こんなことを聞きたかったです。
私は、身近な動物との共生を願っている人間ですが、動物たちと関わりのない人・興味のない人たちからは、「それは個人的な趣味の話ですよね?」と言われてしまうことがあります。その人には全く関係のないことですから、社会全体としてのテーマにはなり得ないと考えています。そのような人は少なからずいます。
しかし、少子高齢化、地域社会の衰退が進む日本においては、ペット、コンパニオン・アニマルは地域社会の一員にもなり得るし、心から家族と感じている人たちが増えています。今、「私には関係ない」と言い切った人が年を重ねたとき、身近な動物を心の支えるすることもあります。そのような人に会ったこともあります。
このように感じ、経験している人間として、身近な動物たちが粗末に扱われない社会へと進むヒントになると考え、是非お聞きしたかったです。

最後に山崎さんがお話された「日本にもジェフ先生のプロジェクトとしてのシェルター、病院」が出来ることで(その実際を目の当たりにすることで)、考えを変える人が広がってゆくのかな、とも思いました。

そんなこを含めて、是非お聴きしたかったです。

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2018年4月 6日 (金)

(映画の感想文)僕のワンダフル・ライフ

映画と言ってもレンタルDVD。公式サイトはこちら

公式サイトに流れる予告でも分かるように、何度も生まれ変わった末に忘れられない飼い主に会いにゆく。そんな感じのストーリー。

アメリカの映画。舞台もアメリカ。
虐待や安楽死に対する考え、警察犬の在り方など、日本との違いが分かる。人と犬との関係も。日本はまだまだ「人と犬と違う」との感覚が強いと個人的に感じている。

また、日本人の多くの人の無意識の中には、哀れみや慈悲・施してあげる対象として犬を見ているのではと思うことがある。
欧米では、対等にみようとするし、そのような存在であることを(日本よりも多くの人が)否定しない。

私は「飼う」という言葉が好きになれない。
今の作家の何人かが、「昔、野良犬に食べ物をあげて名前をつけたら、飼っていることになった」と書いているが、飼うということは「食べ物を司る」つまり、与えてあげる、施す、という感覚なんだろうと理解している。こちらからは与えるだけ。犬からはそれ以上のものなんて絶対に得られるはずがない、と(感覚的に)感じているのだろうな、と。
結果として、犬から贈られるものを受け取ることを拒否することになる。なので得られない。そして、「なんでこの犬は言うことを聞かないんだろう」と言う。「言うことを聞かないはあなたでしょ?」、と私は心の中で呟く。

何か特定の対象を見て心がときめくか否か。それは知識とか訓練の問題ではなく、感覚の違い。犬をどのような存在とおもうか・感じるか、もそれと同じなのだとおもいます。

なので、飼う、すなわち餌をあげるのが飼い主で、それが犬との関係の基本であり、ほとんど、と思っている人を否定しないし、考えを改めてほしいともおもわない。

私が言えることは、そのような人が犬と暮らすことは、時間的・経済的・精神的なコストがかかり、得られるものは非常に(非情に?)限られている。つまり、犬を迎えるメリットはほとんどない。それでも犬を迎えますか?、と言うことは出来るだろう。

 

話が逸れましたが、この映画を見ていて、ミスター・チルドレンの「花の匂い」という歌を思い出した。歌詞はこちら。ライブバージョンですが一曲聴けるのがこちら

きっとまた会いに来てくれる

そう想うことができる、望むことができる自分は、ある意味、幸せ者だとおもいます。

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2017年8月26日 (土)

飼い主って色々(突然頭に浮かんだ)

7月上旬から、縦になるのが良いのか横になるのが良いのか、悩ましい生活を送っています。

そんな日々を送り始めた頃だったと思う。以前、時計が落ちた話を書きましたが、今度は、うーにーの写真が落ちた。
高い位置に、うーにーとまいすの写真が飾られ、その間におばまの写真が飾ってある。その中でうーにーのものだけ落ちた。

午前中の早い時間だった。私は横になっていた。ガタン!と大きな音がした。部屋を見渡したが、何が起こったのが分からなかった。落ちたのがうーにーの写真だと分かるまで少し時間があった。

落ちたうーにーの写真を見つけて、何故か「猫の飼い主よりも、犬の飼い主の方が獣医学的なことに詳しい人、多いよな」と頭に浮かんだ。何故、そんなことが頭に浮かんだのか分からない。犬の飼い主だって疎い人はいる。何故そんなことが頭に浮かんだのか、自分でも不思議だった。

その理由について考えてみた。
猫は痛みに強いというか、あまり表に出さない。犬も痛みに強いが多少は表情に出る。なので病院に行くことが(猫に比べれば)多くなり、知識もついてゆくのかな、と思ったりした。

さらに考えてみれば、人と犬、人と猫、との関わりはやはり違うんだろうなということ。そんなことを考えたりした。

20170826

今日は、ばまちゃんの血液検査に行ってきた。糖尿病の経過観察。
肝機能の数値が少し悪かったのと、血小板が少し低かった。血小板は誤差の範囲を言えるくらいだったのですが、備考欄に肝機能の影響が考えられることが書かれていたので、先生に「何故、血小板と肝機能が関係するのですか?」と聞き、説明していただく。ばまちゃんには関係なさそうだ。
病院にある機械では、猫の血小板が少なめにでることがあり、その理由につても説明していただいた。

こういうことの積み重ねなのでしょうね。10年20年で差が出てくる。
それは何でも同じだとおもいます。

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2017年7月 5日 (水)

壁掛け時計落下事件(その2)

ちょうど一ヶ月前、こんなことがあった。
7月5日の夕方、16:40頃、今度は作業部屋の壁掛け時計が落ちた。地震はなかったようだ。

ここのところ暑い日が続いているので、100均で買った粘着式の金具が弱って落ちたのだろう。でも、落ちるのであれば暑さが激しい正午頃でもいいような気がする。そして、私がいない時に落ちてもいいような気がする。

約一ヶ月半前の、同じ水曜日のこの時間、私は友達の病室にいた。私と話をしている最中に、「薬、飲むの忘れた」と痛みどめを飲み、うつらうつらしはじめたので、話を切り上げはじめた頃だった。

その三日後の朝、予定外の急逝となってしまった。

 

言いたいことは分かっている。

時間を大切にしろ

そう言いたいのだろう。

 

皆よりも短い持ち時間の中で、皆のために頑張った。
楽しませてもらった。勉強させてもらった。仕事をもらったことも何度か。

いいヤツだった。
そういう人間は早死にしてしまうのだ、と改めておもった。

 

今度の土曜日が四十九日。

また楽しませてもらうだけになるかも。

逝ってしまった人間に言うのは不謹慎かもしれなが、言いたい言葉は「ありがとう」。

照れて視線を逸らす素振りが目に浮かぶ。

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