2019年10月 4日 (金)

俺、つしま の台湾バージョン

20191004 女房が「俺、つしま」の台湾バージョンをゲットしてきた。一巻である。

外国語と言っても漢字なのでなんとなく分かる。
二冊並べてみると、日本語と漫画の相性の良さが分かる。それは「漫画との相性の良さ」ではなく「日本人である自分が馴染んできた感覚」なのかもしれない。

 

有名なシーンを挙げてみる。

「やさぐれ会」で「食べ物が出てくるときに手だけでいいのに、なんで人間の本体がなんでついてくるんだろう」と話しているページ(127ページ)。
このページは、上下2コマに分かれていて、今書いた猫たちの会話は下のコマ。上のコマには、お爺ちゃんがそびえ立って「お食べ」と言っている。それに驚くオサムが「フゥー」と言う。

オサムがそびえ立つお爺ちゃんに気付いたときの擬音が大きな字で書かれている。
日本バージョン「ぬん」、
台湾バージョンは「出現」。
(参考 https://twitter.com/tsushimacat/status/943782578288332800

こんな感じのことがあちこちにあり、
中国語は「動詞」で物事を受け止めようとするんだなぁ、擬音はあまり使わないんだな、
と思った。

 

全くない訳ではない、、、、とおもったけど。

家出した「つしま」をお爺ちゃんが探すシーン。
公園で食べているナゲットを「つしま」に手から奪われた女の子が悲鳴をあげる。それを聞きつけたお爺ちゃんが女の子の所に駆け付け、手のにおいを嗅ぐ(110ページ)。

日本バージョンでは「くん くん くん」、
台湾バージョンでは「聞 聞 聞」。
(参考 https://twitter.com/tsushimacat/status/935799272628301824

「聞」は、日本語で「けん」だから台湾だと「けん けん けん」と云うのかとおもったら、
中国語の「聞」は「におい」を意味するらしい!!!

やはり擬音はないのか。
 

擬音はともかく、動詞の表現から、その場の雰囲気を想像することに慣れているのだろう。
そのような人たちにとって、動詞(何をしたか)よりも副詞や形容詞(どうしたか)で説明し、話の流れを作る日本語は難解なのでは?
「なんで動詞を隠すの!」とイライラするのでは。

 

ふと思った。

日本には「動物愛護」という言葉がある。戦後に出来たと何処かに書いてあった気がする。
元になった英語を日本語にすると「動物福祉」や「虐待防止」だけど、日本人の感覚にすんなり受け入れられないだろうから「動物愛護」という言葉を作ったと、何処かに書いたあったような気がする。
そして、1999年の法改正では法律の名前にまで入り、何度か改正がされて、今ではとても立派な法律になった(あまりに立派で読むのに苦労します)。

この動物愛護という言葉は「何をする」よりも「どのようにする」を重んじる日本らしさなのかもしれない。

 

そんなことはさておき、
最近「俺、つしま」が進まないのが残念。

漫画じゃなくても、大きな絵を描いて展覧会とかやってほしい。
自分が大金持ちだったら、是非コレクションしたい。

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2019年8月11日 (日)

ボヘミアン・ラプソディー(2回目)

前回観たことをブログに書いたような気がしたのですが探しても見つからなかった。FaceBookにも。とにかくこの映画を観たのは二回目。

感想は、映画としてよかった。観ていて飽きない、感動する。映像も楽しめる(今回は下高井戸シネマだったので迫力はイマイチでしたが)。
二回目だし、二日前にクイーン・ヒストリー2を観たばかりだったので、一所懸命字幕を追わずに済み余裕をもって楽しめた。

ただし、クイーン・ヒストリー2で本物のフレディーの映像を多々見た後だったので、ライブシーンなどでは(本物フレディーと比べて)迫力に欠けて感じてしまったのは残念。

(当たり前のことだけど)改めて「ボヘミアン・ラプソディー」は作られた映画であり、フレディー・マーキュリーというアーティストというかアートそのものとは別物であり、やはりストーリーのある映画として楽しむものだ。

クイーン・ヒストリー2もボヘミアン・ラプソディーもまた観たい。機会があれば、2がつかなクイーン・ヒストリーも。

(余談)
今読んでいる生命科学の本に「LoveとLikeの違い」の話が出てきて「ほるほど!」とおもった。
映画中、フレディーとハットンが「I like you」と語るのを見て改めて「なるほど!」と。同性愛というものが少し理解できたような気がした。

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2019年8月 9日 (金)

クイーン ヒストリー2

どうにか観ることが出来ました。下高井戸シネマが近くにあってよかった!!

数名の音楽関係者が当時の彼らのことを語る。彼らをよく知っている人もいれば、知っているどころか親しかった人もいる。
原題は「UNDER REVIEW 1980-1991」となっていますが、1995のメイド・イン・ヘブンやミュージカル「I WILL ROCK YOU」、ボーカルを迎えてのその後の活動のことも語られている。

クイーンの歴史を振り返る時、大きな区切りは(フレディーの死を除いて)ライブ・エイドだろう。この映画でもそのように構成されていた。

ライブ・エイドに至るまでの活動で興味深かったのは、イギリスで認められ、世界に認められ、アメリカでも認められるようにもなるが、まず、イギリスとアメリカの文化や感覚の違いが浮き彫りになること。また、世界は広く、南米や南アフリカでの失敗が語られる。

私は子供の頃、日本のテレビで放映されていたモンティー・パイソンが理解できなかった。内容そのものも理解出来かなったのかも知れないが、モンティー・パイソンをよく理解していていると自負している大人たちのコメントが理解できなかった。つまり紳士の国イギリスにおいて、ウィットとかブラックジョークが大人の世界でどのような位置づけなのか、当時の私は理解できなかった(戸惑った)のだろう。

ウィットやブラックジョークが大人の嗜みであるイギリスでは、肌の露出が多い「ボディ・ランゲージ」のPVも、女装で有名な「ブレイク・フリー」のPVも商業的に問題にならなかったが、アメリカでは問題になり受け入れられなかったそうだ。

当時「ブレイクフリー」は、南米では圧政下で苦しんでいた人たちが自由への賛歌としていたらしいのですが、本人たちはそれを知らずにライブに挑んだらしい。この曲を女装で演奏したらステージに色々な物が飛んできて大変なことになったとか。

南アフリカでは政治色が強いイベントに出演してしまい、評判を大きく下げてしまったことも語られていた。

 

その後、ライブエイドがあり復活する。

 

これらのことを観ていておもったことは、彼らは「とにかく音楽!」だったんだろうということ。なので配慮が足りないこともしてしまったのだろう。
コメントの中で(私の記憶なので多少の勘違いはあるとおもいますが)「彼が悪い人間なくてよかった。多くの人の心を掴める人間が、悪いことにその力を使ったら恐ろしいことになる」と語っていたが、その通りだとおもうし、政治的な動きをしたという話は記憶にない。

最後の方でこんな話もあった。
「アメリカでエイズのことがやたらと言われるようになったので、私は彼に忠告した」。それに対してフレディーの答えは「私は会いたい人に会い、したいことをする」というような答えだったそうだ。政治に限らず特定の活動に熱心になってくると、会いたくても会うことが難しくなる人が出てくるものだ。(この話はあくまでエイズの話なのですが私は)彼の偏らない姿勢を感じました。
彼らの曲(歌詞)のほとんどが(マスなことではなく)個人の想いを基礎にしています。個人として個人に対し語り掛ける姿勢が私は好きだ。

 

ビートルズが、今の世界規模のショービズの起点と言っても良いかとおもいますが、ビートルズ自身がそれに疲れてしまったと私は思っています。
レットイットビーが1970年なので、クイーンはほとんど入れ違いということになる。出来たばかりのシステムを使い始めた世代ということになるだろう。

タイトルに「1980-1991」とあるが、日本ではバブルに向かいバブルは弾けてもまだ多少の余韻のあった頃。日本に於いてバブルの前後では大衆の国際化に大きな違いがあったと記憶しています。バブル前は庶民が海外旅行へ行くのは簡単なことではなかった。海外に拠点をおいて活動する人も少なかっただろう。海外の庶民文化・風習・感覚について、知る機会はとても少なかったおもう。

このようなことは、多少のタイムラグはあるものの世界でも似たような流れだったのではないか。日本人から見ると欧と米は一緒だとおもっていましたが、マスメディアで流すコンテンツに対するモラル意識は大きく違っていたらしい。

そのようなことが分かったことも、この映画の収穫の一つでした。

 

ライブ・エイドより後の話は、フレディーの病気のこと、そして死までの期間としてどうしても見えてしまうことなどが語られる。
彼らは実験的というか、それまで自分たちがやってこなかったジャンルの音楽を吸収し表現することもしばしばでしたが、ライブ・エイド後の彼らは少し違ったようです。
メイド・イン・ヘブンが作られるくらい多くの録音をしていたのですから、その中から素晴らしい楽曲がリリースされたことは想像できます。それらの曲についてのコメントが続く、やはり(フレディー生前の)最後のアルバム「イニュエンドウ」から幾つかの曲が挙がった。「ショウ・マスト・ゴー・オン」や(猫のベストで有名な)「輝ける日々(These Are The Days Of Our Lives )」などについて語られる。

そして「メイド・イン・ヘブン」についても。その中で一人だけ「トラック13」を取りあげていた。ボーカルのない曲らしい。私はこの曲を知らなかったので帰宅後YouTube探したらあっけなく見つかった。
聴き始めると「環境音楽?」とおもった。そのような音楽は嫌いではないのですがすぐに飽きてしまうことがほとんど。しかしこの曲はいつまでもなんとなく聴いてしまう。22分もあるので一度中断したのですが、その後続きを聴いてしまった。

長いこの曲を聴き、ふとクィーンというバンドについて、そしてフレディー・マーキュリーというアーティストについておもったこと。
この曲は「メイド・イン・ヘブン」の最後の曲になりますが、私の最も古い彼らの記憶は「ボヘミアン・ラプソディー」を耳にした時の「これがロック?」という疑問。
トラック13はあの時の疑問に似ている。「なんなんだろうこれは?」と思いながらも聴き続けてしまう。しかし、釈然としない疑問ではなく、美しい当然の疑問。見たことがない美しい風景のような不思議な感覚。

「ボヘミアン・ラプソディー」で叩き起こされ、トラック13という子守唄でオヤスミナサイ。

 

時代背景や各国のその時々の情勢なども分かり「そういうことだったのか」と理解が深まったこともこの映画のよさですが、コメントを寄せる人たちの「感じ」も良かった。
ある人は、無邪気さに似た熱のこもった話し方だったし、音楽的にもクールに分析しながらも昔の親友との思い出に少し涙しているような人、距離を保って冷静に話をするけど結局絶賛するしかないのがオチという人たちとか。
話の内容は大人にしようとするのですが「感じ」は子供。恥じらいとか身構えなんて考えない子供。これは素敵な作品が与える重要な影響だと考えています。

作品を提示し、その作品を語る人たちが、大人の会話だけしか出来ないのであれば、それはアートではないと私はおもっています。

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2019年7月 7日 (日)

山路徹さんのトークショー(HGA48イベント)@春花祭

うわ~、、後書きブログの中で大事なものをアップし忘れていました。
ゴールデンウィークのことです。
===============

毎年ちょこっとお手伝いさせていただいている春花祭。
今年は用事が重なった上にメインで使っているパソコンが予兆もなく起動不能になってしまい、ほんのちょっとのお手伝いだけとなりました。

今年は山路徹さんのトークショーがありました。席数が限られているので予約が必要でしたが、準備の段階から情報を得ていたので早めの予約が出来、聴くことができました。(大した手伝いもしていないので申し訳ないなと思いながら聴かせていただきました。しかも一番前の席!)

山路さんが犬や猫などの活動を本格的にするようになったのは東日本大震災以後だそうです。まず震災直後に福島の原発近くに駆け付けたとか。
お話の中で「自分は戦場カメラマンでもあった。戦場で起こったことを誰かが伝えなければ、世の中ではないと同じになってしまう」というようなことを仰っていました。
犬猫関係にはそのようなことが多々あります。大きな力の上手い操作で「そんなことはある訳はない」と多くの人が認識されていることがあります。福島のことは特にそうなんだとおもいます。
彼は「動物が好き!」という気持ちだけではなく、記者として社会に貢献できることがあると感じて、この活動をしているようです。

山路さんのお話は「どうしたらいいんだろう」と模索している感じを受けました。何人かの人に登壇していただき話を伺い、もっと幅広い人たちが活動したり、身近な動物たちに関心を寄せてほしいと願っているようでした。

最後に、ちよだニャンとなる会の香取さんが登場しました。
今書いているトークショーのことは、山路徹さんや「ちよだニャンとなる会」の情報を検索すればでてくるとおもいます。

香取さんという方は、なんでもズバズバ言うような話し方をする人だし、長年活動を続けていらっしゃる方なので、動物愛護活動をしている人の中では有名です。
この日の話の中では「これがいいとおもってやってみたけどダメだった」というお話を幾つかされていた。このような活動についての話を聴くとき、失敗談をしない人が多いです。したとしても「何故ダメだったのか」「代わりにどうすればいいのか」まで話がなく、やっていることを「とにかくやっています」的に聞こえてしまうことが多い。しかし香取さんの話の中には(時間が限られていたので簡単でしたが) 活動に対する分析や評価があった。時間が限られていましたが色々な話が盛り込まれていました。

しかし結論は分かりやすいものでした。それは私が昔から言っていることと同じことでした。

行政(お役所)の人に苦情を言ったりお願いしても全体として変わることはない。行政の現場の人は決められたことをするしかない。それ以外のことは「してはいけない」。やるべきことの中に、住民からの苦情やお願いを「受け付ける」ことがある。受け付けるまで。

ではどうすれば変わるのか。
香取さんも私が説明するときと同じ言葉を使っていました。「三権分立、司法・行政・立法」。
行政(お役所の住民の相手をしてくれる人)は決められたことを仕事とする。決めるのは立法府。地方では議会や首長。そのよう人たちに働きかけて議会で決めていただく。決まったことを行政にしていただく。

身近な動物の問題、特に猫の問題は、地域の環境問題であり、これは行政が対処すべき環境問題であるのだから行政が責任をもって解決してゆくべき問題です。(先に「決めていただく」と書きましたが「すべき仕事としっかりと確認していただく」と書いた方が分かりやすいかも。)それを議員さんや区市町村長さんに理解(確認?)していただき、議会で決めて、区市町村として(ボランティアではなく行政職員が主体となって)責任をもって解決に挑む。

現在、千代田区では行政の人がボランティアの人にお願いして動いてもらう形になっているとか。
ある意味当然だと私はおもっています。行政職員はお給料をもらって仕事をしています。(行政の方たちから認められているような) ボランティアの方々は(給料や手当をもらうどころか)多くの自己負担で活動しています。行政側からお願いされるのが真っ当な関係だとおもいます。

但し書き的に千代田区は特殊な事情もある、と仰っていました。
住民の数が少ないので一票の重みが他の市区町村よりも重い。議員さんなどに働きかけることに慣れている人も多い。その他、幾つかありました。
確かに、約90万人の住民が暮らしている世田谷区では、同じようなことをして議会で決めてもらうのはなかなか難しいかもしれません。
また「小さな行政」「民間でできることは民間で」などの言葉が定着し、行政(お役所)が行うべきことではないのか?、とおもうようなことをボランティアがやっていることは、幾つかの分野でもあるようです。
しかし最近は、議会で犬や猫関係ことが発言されることもありますので、千代田区ほどの効果は望めないかもしれませんが、やり方によっては何かしらの効果があるかもとおもいました。

他にも色々ありましたが、長くなるのでこの辺りで終わりにします。
ネット上で、山路さん関係、ちよだニャンとなる会関係のことを検索すると、レポートを書いている人がいるのではないかと思いますので、興味がある方は探してみてください。

 

このようなお話を聴くことが出来たのは、山路さんのトークショーがあったから。山路さんが幅広い人に関心を持ってもらってもらいたいと活動を続けてくださっているから。
このトークショーが実現できたのは、地道な活度を続けている方たちがいることと、こちらのステージを管轄していたパルシステムさんがペットのことに力を入れてくださっていること、そして何よりも代官山春花祭を運営してくださる方たちのお気持ち・ご理解だとおもいます。

昨年は龍之介先生のステージで、災害時のお話でした。一般の飼い主さんにも関係することです。
今年の内容は、愛護活動に関することで一般の飼い主さん全て向けではありません。
動物愛護の人たちだけが集まる場所で、このような場が設定されることは珍しくありませんが、地域のお祭りでこのようなことが行われるのはとても珍しいとおもいます。

ついでに書いておくと、テレビを全く観ない私でも知っているような有名なタレントさんが一人でこちらのトークショーを聴きに来ていました。その後も福島関係のイベントなども見ていたそうです。

 

福島関係のことは、年々落ち着いてきているような(熱が冷めてきているような?)感じを受けることがあります。原発災害のことはまだまだ考えなければならないことがあると思うのですが、世の中全般の現実としてそのように感じます。
それは残念なことですが、福島のことに対応を続けている人たちの活動から、犬や猫に携わる人たちの活動そのものやそれを見る人たちの目が良い方向に進んでいると感じています。

 
動愛法の改正も決まりました。
令和が素敵な時代になりますように。

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2019年6月21日 (金)

(通称)井の頭動物園

今日、吉祥寺方面に用事が出来たので、ついでに(通称)井の頭動物園へ寄ってきた。正式名称は「東京都井の頭自然文化園」。

2019062101

この園は「動物園(本園)」と「水生物園(分園)」二つに分かれている。こじんまりとした園ですが 400円は安い!
気になったこと、面白いと思ったことなど書き留めておきます。

現在使われているポスターは、ツシマヤマネコのものだった。やはり流行っているのだろう。
展示されているのかなと思ったら、大きなパネルと動画による説明はありましたが、個体は別室にいて天井からのライブ映像が流れていました。見ていると時々寝返るように動いていました。大切にされているようです。
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ツシマヤマネコに付いてパネルの説明では「脚は短くて太い」「尾は太くて長い」とある。我が家にもいそうな猫だ。
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■ まず 動物園(本園) にて

はな子さんは天寿を全うしたと言っていいのかもしれない。もしかしたら天寿以上だったのかも。人間にケアされ続けて日本一の長寿となりました。
2019062105彼女が暮らしたあの建物は展示施設になっていた。複雑な気持ちになった。色々な立場から考えれば動物園の必要性は理解できる。その必要性のために尽力してくださっている人たちがいることも知っている。それは理解している。
一方、私は「動物園で見るだけの人」だ。その立場だけから「今の時代には、もうこのような施設は、そんなに多く必要とされないのではないか」と感じた。
私が子供の頃「象を見たい!、ライオンが見たい!」と思った。その後、パンダやコアラに行列が出来るようになった。
しかし今はどうだろう。それらの動物をよく見たいとおもったら、ネットで動画を探した方がいいのではないか。実物ではないが、ただ「見たい!」とおもう一般市民はそれで充分ではないだろうか。

ネズミの展示がある資料館。そこに仮想の園長室だったか、そのような展示があった。珍しい動物の絵や専門書などが並んでいた。
私が若い頃(インターネット・インフラが普及していない頃)までは、動物のことを調べようとおもったら、図書館に行っても欲しい情報は得られませんでした(それは今でも似たようなものかも)。所狭しと並べられた専門書を見て、そんなことをふと思った。
今はインターネットで多くの情報を集めることが瞬時と言ってもいいような時間で出来る。
動物の学問が一気に進んだのはDNA解析だけでなく(他の学問も同じだろうけど)インターネットの普及が大きいのだろうなと、これまた複雑な気持ちになりました。
情報が集め易いということは、実際に動物を見たり触ったり(触らずとも生息する地域に行ったり)せずとも研究が出来ることが多くなったのだろう。それについての良い部分も多々あるとおもいますが、大丈夫なのだろうか、とおもうことも確かです。

ネズミと言えば、リスの小径(リス舎)には、ネズミも走り回っていた。
そんなことはどうでもいいのですが、この中にいるリスの表示が「ニホンリス」と書かれていた。私はホンドリスの方が身近。何故かと言えば、妙高高原に何度も行ったから。ホンドリスという名前の飲食店があるのです。現在は「ニホンリス」の方が一般的みたいですね。
2019062106 2019062107    

キツネのちょっといじけたような目はばまちゃんのようだった。
タヌキの黒っぽくて丸っこい背中はばまちゃんのようだった。
2019062108 2019062109
2019062110 アナグマの妙な姿勢はばまちゃんのようだった。
アライグマもちょっとばまちゃんに似ていた(後ろ足の接地面は全然違いますね)。

ペンギンが水の中で気持ち良さそうでした。
ヤマアラシやマーラ、フェネックなども気持ち良さそうにウトウト。
カピバラはちょっと迷惑そうな顔をしていた。

2019062111 行った日が20日で、17日と18日にヤクシカの赤ちゃんが生まれたとの情報を得ていた。一日違いで明らかに大きさが違う(写真では分かりにくいですが奥の子の方が明らかに小さく見えました。)。一日も早く走り回れるようにならないとならないからね。

 

おっと、軽く書いておこうとおもったら、長くなってきたので、動物園(本園)に付いてはここで終わりにします。

 

■ 水生物園(分園)

まず室内展示(水生物館)。
本園の動物の中にも幾つかいましたが、人間が行くと寄ってくるものがいます。寄って来なくても、楽しそうに動き回ったり。午後2時くらいだったとおもうので、ご飯の時間でもないとおもいますが。見ていて飽きさせないようにしてくれていました(動物たちが)。2019062112動かなくても記憶に残ったのはサンショウウオ。見事に岩と一体になっていて、見つけたときはちょっとした感動。

外に出ると鳥の展示。
鳥たちの中にも寄ってくるものがいました。
この白鳥は手を伸ばせば触れる所まできていました。

 

動物園に着いたのは金曜日の午後1時過ぎ。団体さんの姿もなく、各動物共に苦労せずに見ることができました。ゆっくりは見ている時間はなかったのですが一通り見て1時間半ちょっと。もうちょっとゆっくりしっかり見たら2時間くらいになりそうでした。

 

動物園~水生園、と見てから吉祥寺駅に向かう。
公園から階段を登る。右側に「金の猿」、登りきると左側に「いせや」。そして少し歩いて左側を見上げるとSYUNA&BANI。ペット関連のお店も飲食店も一箇所で長続きしないのが当たり前になってきたこの時代に、すごいことだなとおもいました。

ちなみに、井の頭自然文化園の開園は、1942年。戦時中でした。
はな子さんは、1947年生まれ、1949年日本に来た。この時、インディラという象も同時期に来ました。二頭とも上野動物園の象となり、まずは日本各地(はな子さんは東京近郊辺りまでだったらしいです)を励ましてまわり、その後、1954年、はな子さんは井の頭自然文化園の象となったそうです。

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2019年6月 8日 (土)

ねことじいちゃん(映画)

近所の映画館に来たので観に行った。

始まってすぐ「たま、たまや、、」と呼ぶシーン。
それを見ておもった。

 たま と ばま  似ている

似ているとおもったのは名前ですが、それ以外にも背中の柄(?)の感じや脚の一部に縞があるところ、脚や尻尾やしっかりしているところなども。
ものおじしない性格は全く似ていない。

 

この映画、ネット上で感想文をあまり見ないので、その意味でも興味があった。
監督の岩合さんも主演の志の輔さんも、その分野でのプロではないらしい。本人たちが手を挙げての参加ではないと何かで読んだ。そんなところも興味があった。

また「猫は室内飼いしまよう!」という今の風潮からすれば、とんでもない映画だ。これを見て「よかった」と言いにくい人も多いだろう(先日の「俺、つしま!」も同様に)。

岩合さんの写真は、お父様の時から好きでした。単純に動物を見るという意味ではお父(徳光)様、写真としては光昭さんと私の中の好みははっきり分かれていた。
私にとって綺麗な映像を提供してくれる光昭さんの映画としての期待はあった。私はテレビは全くみないので、岩合さんのやっている猫の番組は知らないですが、評判が良いので猫の撮り方にも期待して行った。

 

まず、今まで書いたことについて。

猫を撮るのは上手かった。正確に書けば「風景の中の猫を撮るのが上手かった」です。猫たちも演技上手であることも前評判として聞いていたが「すごいな~」と感心しました(猫同士がくっ付いているシーンで、遠い昔、TVだか映画だかで接着剤貼り付けたとか縫い付けただか、そんなことを思い出したりしました)。
太陽をバックに猫が飛ぶシーンなどはカメラマンだな、とおもいました。
あのシーンは演技してもらったかもしれませんが、幾つかのシーンを見ながら「人間の撮影の時間よりも、ず~っとつきまとうようにして猫を撮っていた時間の方が長いのでは?」とおもったりました。

監督は(人間に対しても)演技の指導するものかとおもいますが、その意味では問題なかったとおもいます。
志の輔さんについては(私は漫画(原作)を読んでいませんが)漫画のイメージなんだろうな、とおもいました。
https://www.youtube.com/watch?v=QhZRRsKyBxc
正直なところ、周りを俳優さんたちに比べれば(彼の演技は)物足りなさを感じましたが(これまた正直なところ)この映画の要素の中で(私にとっては彼の演技は)大きな部分を占めていなかったので全くOKでした。

映画を作るには、脚本~撮影~編集、という大きな流れがあるとおもいますが、岩合さんがどれだけ関わったか分かりませんが、猫が嫌いでない人は、それなりの満足度はあるとおもいます。
ただ、全体の流れとして、あれこれと詰めすぎているような感じはありました。でも、初めての監督作品、しかも充分な準備をしてからの監督ではないとおもいますので、仕方ないかなとおもいました。

ただし「絶対室内飼い!」とお考えの方には、とんでもない映画なので絶対に観ないでほしいです。「仕方ない」では済まされない人も多いとおもいます。
私は、うーにーのお陰で方々旅行に行き、犬や猫と暮らしている人達と話をする機会を得ました。そんな私からすると「場所によっては、外に出してもいいんじゃない?、その地域の人がそうおもっているんなら。よそ者がとやかく言う問題ではないんじゃないの?」とおもいます。
ちなみに、この映画には自動車は全く出てこなかったとおもいます。各猫に飼い主がいるようだったし。
とにかくフィクションですから。フィクションとして見れない人は「手術してないよね、みんな」とか思うのかも。猫の後ろ姿を見ながら「手術しているな、そりゃ猫俳優たちだから当然か」とおもいました(笑)

妙に気になったシーンが一つ(たぶん気にするのは私くらい)。
ほとんど最後の辺り。巌さんがサチさんの家の前で猫とのシーン。建物の角が濡れているように見える。あれは何だったんだろう。とても気になった。

 

映画館に行くとき、初めて今回の猫電車に乗りました。
ちょっと写真を撮ったので近日中にブログを書きたいとおもいます。

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2019年4月29日 (月)

如何なものか ?! / 鈴木直樹 立川寸志

またまた後書きブログです。公開は、6月7日になってしまいました。
前回書いた鈴木さんのCDと一緒にチラシが入っていた。
Facebookに載っていたものなので誰でも見ることができるか不安ですが、こちらのページだと字が小さくて読めないので。

チラシを手に取り読んだとき「???」とおもいました。
以下に、上記ページやチラシに書かれている紹介文をコピペします。
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高度経済成長期の日本を盛り上げ、今なお愛される
昭和の名曲。その背景にはマンボやサンバ、シャンソンに
ジャズなど、海外からのサウンドと流行が密接に関係。
元編集者の落語家と超絶技巧のジャズメンが、独自の
切り口で昭和歌謡からスイングジャズまで、お喋りや
立体落語などあの手この手を使って、無国籍の贅沢な
音楽ショーに仕立てます。
ジャズライブとも落語会とも違うエンターテインメント・ステージ、
どうぞご賞味あれ!
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全4回あり、内容は以下のようになっている(これも上記ページのコピペ)
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■第一回 6/13(木)
銀幕スターと名曲 / 「石原裕次郎」の時代
■第二回 9/12(木)
歌姫と世界中の曲 / 「美空ひばり」の時代
■第三回 12/12(木)
昭和33年の爆発力 / 「林家三平」の時代
■第四回 3/12(木)2020年
流行歌の誕生まで / 昭和歌謡のウラ側
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場所は杉並公会堂。開演は14時から。
平日の昼間。

落語家の語りとジャズの演奏でどんなステージになるのか、全く想像つきませんが、流行歌、歌謡曲が好きな私はとても興味あり。行ってみようかとおもっています。

 

後書きブログだから出来ること。
6月1日、世田谷文学館の石ノ森章太郎展に行った。最寄り駅は芦花公園駅。駅に杉並公会堂のチラシが置いてあった。
このステージのことが載っているかな、と手に取ると、共催事業とのことでデカデカと載っていた。

是非、行きたい!!

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2019年4月28日 (日)

Corridor / Naoki Suzuki and his friends

またまた後書きブログです。
4月の末のことなので、一ヶ月以上前のことです(失礼)
忙しかったりトラブルがあったりしたときに、書き残したいことが起こることが多いということが、よく分かりました(笑)
 

タイトルは、大好きなジャズクラリネット奏者、鈴木直樹さんと彼のバンドのアルバム。
音楽を幅広く聴く人、何気なく聞くBGMも大人テイストのものを探している人、クラリネットやサックスの演奏を趣味としている人、などに、この先を読んでほしい。

ちなみに私は、ジャズ全般を聴く人間ではない。音楽もそれほど詳しくない。音楽とは関係ないところで鈴木直樹さんと知り合い、彼が関わる音楽を聴くようになった。
彼のことをご存知ない方のために簡単に説明しておく。実は私も鈴木さんと出会うまで、これから書くことのほとんどを知らなかった。

■ 鈴木直樹さん

第二次世界大戦中の流行歌「鈴懸の径」を彼の伯父様である鈴木章治さんがジャズアレンジしたものが戦後、日本のみならず欧米でも「プラタナス・ロード:Platanus Road」として有名になった。章治さんの弟である正男さんもジャズプレーヤーでした。正男さんの息子が直樹さん。
そのような環境であれば音楽家になるものとして育ててもらえると外野はおもうものですが、ある程度までは、ほぼ独学だったと聞いています。
「クラリネットはとても響く楽器ですが、何処で練習していたんですか?」と尋ねたら「スタジオなんて借りられないから公園で」と。公園でひたすら練習していたそうです。
そんな若かりし日を経て、今では日本のジャズ界になくてはならない存在になっているようです。

彼の演奏についてはとにかく聴いてほしい。
小さな音でボソボソ・ヘロヘロな演奏もしっかりこなすし、どわ~~と迫力ある場面もごまかさない。全てのシーンで安心して聴くことが出来ます。
安心して聴いて、つい聴き流してしまう。その後、よくよく聴いてみると「すごいな~」とおもうことが多いです。
プロなんだから当然でしょ?、と思われるかもしれませんが、スタジオアルバムだけでなくライブに行ってみると、その表現力に圧倒されます。

 

■ いつの間にかアルバムが発売されていた
FaceBook を見ていたら、鈴木さんがターキッシュ・クラリネットを入手するためにドイツまで行っていることが書かれていた。
この1~2年、大きなイベントや誰でも知っているようなミュージシャンとの共演など伝え聞くことが多々あったので、鈴木さんの活動は耳に入ってくるだろうとおもっていた。ドイツ行きの記事を読んで、「そういえば、何年もアルバムが出ていないな」と思って、事務所のHPを見てみたら、昨年(2018年)6月に発売されていた。
http://www.swingace.com/naoki/discography/index.htm

早速、入手してみた。
一般的な流通にのっていないので、購入は事務所から。私も上記ページから問い合わせて入手しました。

 

■ 聴いてみました
曲目やメンバーは上記のページにあるので、見てみてほしい。
決して大所帯ではありませんし、ピアノと二人だけの曲もありますが、人数の少なさを全く感じさせない表現力があります。見事にまとまっています。
曲は、ビッグ・バンドでよくやる曲やピアノの曲、ミュージカルの曲、鈴木さんの定番、東京音頭など、ほとんどの人が何処かで一度は聴いたことある曲を冷静ではあるけれど感情豊かに、しかし押し付けがましくなく表現しています。

オリジナル曲が二曲。

A Sudden Breeze
全くのジャズとも違う、もちろんロックでもない。そうだ、フュージョンというジャンルがあった。ドライブ中に流すと気持ち良さそうな曲です。
ドラムもピアノもしっかり打っている感じがあるにも関わらず上品に聞こえてくる。青木さんのバンジョーのリズムがとてもマッチしているのも興味深い。

Corridor 回廊
クラリネットとピアノのみの曲。映画の中で流れてきそうな曲。何処かで聞いたような曲。
誰かが物悲しく何かに憑りつかれたようにしっかりと踊り続けているようなイメージが浮かびました。
何気なく聴いていると曲の世界の中でふわふわしてしまうのですが、よく聴いてみると、鈴木さんのクラリネットと阿部さんのピアノに魅了されている自分に気が付きます。

全体的にす~っと聞ける感じなのですが、よくよく聴くと細かいところで「スゴイ!」感じることが多々あります。

 
音楽のことはよく分からないド素人な私の直感的な感想として、以下の点で「いつも耳に入ってくる音とは違うな」と(違和感とまではいきませんが)感じたこと二点を書いておきます。

一つ目は音
ラジオや街中で流れる曲を聞くことが多い私からすると、とても綺麗にまとまり過ぎているように聴えました。
全体的に綺麗で、全ての楽器の音がしっかり聞こえます。気持ちよく聞こえます。ごっちゃになっていません。でも一体感・統一感があります。
ざらつきがほとんどありません。低音も綺麗に聞こえてきます。高音がもっと聴こえてもいいのではと思うのですが、私の耳には聞こえず、いつも聴いている音との違いを感じました。もしかしたら、私が加齢のために高音が聞こえなくなっただけかも。
ちなみに我が家には高級オーディオはありません。パソコンや持ち運んで聴くようなラジカセなどで聴いています。

二つ目はグルーヴ
ジャズは聴き込んでいないのでよく分かりませんが、当然のことながらロックとは違うし、今までの鈴木さんのアルバムとも違うような気がします。
今までのアルバムは、ゲストと二人でのものだったので相手の方に合わせていたのかも。今回のアルバムがバンドマスターとしての鈴木さんらしさなのかも。

 

幅広い人につまみ聴きでいいので聴いてほしいとおもうので、どこかで試聴できるといいのですが。
または、CMや映画で使われて皆さんの耳に届くと素敵だとおもいます。映像との相性はとても良いとおもいます。私は、そのような音楽が大好きです。

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2019年4月 7日 (日)

プロマイド

20190407 後書きブログです。アップしたのは5月の下旬。
この写真が残っていたので書きたくて。

今の子供たちはプロマイドを知っているだろうか。紙の写真自体珍しくなった今、それを所有する気持ちを理解するのは難しいかもしれない。
彼女や家族の写真をお財布に入れたりする感覚も理解されないだろう。

見ての通り、ドン・キホーテで10円でした。
閉店時の投げ売り。

どんなものでもデジタルのデータにしてしまえばいい時代。
プロマイドだけではなく、風景さえ。
もしかしたら、人間の存在さえそうなのかも。それらしい画像データと文章データがあれば、その人が存在することになるのだろう。デジタル・アイドルとかいう存在も認められているらしい。
パソコンやスマホは会話をしてくれるらしい。
(好きな言葉ではないが)「ペット」はどうなんだろう。
さすがに「コンパニオンアニマル」となると、デジタル世界の存在だけでは成立しない気がする。

昔はアイドルの(受け答えしてくれない)写真を持っているだけでウキウキしている人もいた。
今はアイドルの動画データだろうか。それがスマホに入っていたらウキウキするのだろうか。一つくらいでは、そんな気持ちにならないのではないだろうか。

量や質の問題はさておき、それが動いてくれてもくれなくても、喋ってくれてもくれなくても、二次元でありデータである。
リアルな(触って体温を感じられる)ものではない。

私は、そのようなものとのやり取りはコミュニケーションの内に入らないとおもっていた。しかし最近は違うようだ。

 

この時代の移り変わりを理解できないと、人間同士、人間と身近な動物の関係について考える上で、時代遅れな感覚になってしまうのかもしれない。

ところで、この三人、誰だか分かるかな?

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2019年2月21日 (木)

猫が幸せならばそれでいい 猫好き獣医さんが猫目線で考えた「愛猫バイブル」

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書籍の紹介です。
動物行動学を専門とする獣医師「入交眞巳」先生の著書です。本のタイトルは、このブログのタイトルの通り。長い。

入交先生のお話は何度か拝聴させていただいたことがありますが、私にはレベルが高い感じ。
猫や犬の行動を学問的にどのように理解すれば、生活に活かせるか、問題解決できるか、生活の質を改善できるか、などの話でした。
テーマも、結論である「こうするのがいいですよ」も、難しいことはないし説明も分かり易いのですが、その間にある理論が私には「レベルが高い」と感じてしまいました。

20190221aさて本題。こちらの書籍の話。

冒頭の章、「猫は夜行性」は勘違い、で以下の文があります。
=====
ノクターナル(夜行性)かダイアーナル(昼行性)かといえば、猫はこのどちらでもありません。猫は、クリパスキュラー(薄明薄暮性)、つまり早朝や夕暮れの薄暗い時間帯に最も活発に動く動物です。
=====

これを読んだ時に「こんな横文字言葉は知らなくていいよ」と感じ、「やはり小難しい理論の羅列や横文字がいっぱいなのかな」とおもったのですが、その先はこのようなことはほとんどなく、多くの部分は、ご自分が共に暮らしてきた猫とのことを例にしたり、身近なものを感じました。

20190221b読んでみて、皆さんにお勧めしたいとおもったので、ここに書いているのですが、冒頭に書いたように、この書籍を手にするまでは、あまり期待をしていませんでした。

しかし、日本人のある程度の数の人が、猫や犬に対して古い固定観念をもっていて、その中には間違えや今の世の中では理解されないことが多々あることを、私は危惧しているので、それを改めていただくには、入交先生のような方に活躍していただきたいと、陰ながら願っています。それで読んでみたのです。

実はそれもあるのですが、本音を書いてしまうと、(本書では「漫画」となっていますが)挿絵に惹かれて買いました。
描いているのは、「俺、つしま」で有名な、おぷうのきょうだい先生です。

「俺、つしま」は、Twitter で始まりました。はじめの頃は、気ままに書いている感じのもので、形式も決まっていませんでした。今もそんな感じです。
この漫画は、「つしま」と呼ばれるようになった猫を中心に起こったことを模写している漫画なので、伝えるために最適な形式をとっているようです。形式にとらわれず、最適な「絵で伝える」方法が私には気持ちよく入ってきます。

つまり散文なのです。内容も。
Twitter で読んでいると、「唐突に何これ?」と思う作品が載ったことがありました。それらの幾つかが繋がるだろうことは読み続けていると分かったのですが、一つの物語としてまとめることはありませんでした。しかしそれが随分と後になって、ビックコミックBUROS.NETに物語として載りました。

「俺、つしま」の書籍は既に第一巻は発売されています。それには散文のまま(途切れ途切れの話のまま)幾つかが載っています。
ビックコミックBUROS.NETにアップされたものは、ある程度の期間が過ぎると消えてしまいます。現在その物語全体を読むには過去のTwitterから探し出すしかありません。

 

何故、入交先生の書籍の紹介で、こんなことを書くかというと、この本の175ページ全体に、一人の男性高齢者と一匹の猫の絵がありますが、この男性が前述の物語に登場するのです。

ぱっと見ると「なんで猫の本に、男性高齢者を大きく、猫を小さく描いた絵に一ページ使っちゃうの?」とおもう人もいることでしょう。
この絵を見ていると、猫と男性の存在感の大きさが同じように感じてきます。猫も高齢であり、この二人には特別な繋がりがあるようにも見えてきます。

前述の物語にはタイトルらしきものとして「onece upon a time in somewhere(いつか 知らないところで)」と表示されていましたが、私は「さんぶんこ」物語と呼んでいます。それが今年五月に発売される第二巻に載るのか、それが気になって仕方がありません。

その「さんぶんこ」物語に出てくる魚屋さんが、175ページの男性にとても似ているのです。
店の魚を泥棒猫して追われたりもするのですが、ヤマ場の一つである夜明け前に、主人公のつしまがTNRのトラップにかかった「テルオ」のために闘う決意をしたときにも、彼の頭の中に出てきたりもします。

もし、この「onece upon a time in somewhere(「さんぶんこ」物語)」が映画化されたら絶対に観に行きます。しかし、映画化は出来ないでしょう。
猫の自然な動きや逆に擬人化された動きを実写で撮ることはできないだろうし、アニメ化したら、この作者の画の魅力を半減してしまうだろうから。
ストーリーを思い出すと涙が込み上げてきますが、それはあの絵があるからです。擬人化しても猫であると見えるところに凄みさえ感じる画力です。

 
そんな猫を猫らしく描く漫画家を選んだ入交先生なので買いました。読んでみて、「うんうん、この選択はとっても正しい」と再確認。猫の生活を説明する挿絵にはベストチョイスだとおもいます。やはり入交先生は凄い先生だ!

本書の中の絵は、猫の習性を説明する補足として使われていることがほとんどですが、何ページか魚屋さん似の高齢者が描かれたページのようにイメージを伝えるページがあります。
猫が擬人化され、鮨屋のウィンドウをながめていたり、他の人(猫)が使用中の個室(トイレ)のドアを開けてしまい驚いたり、母親(猫)連にれられて町中を歩いていたり、みんなで読書していたり、服を着てお洒落をしていたり。
魚屋さん似の男性が描かれているページは、認知症について語られている章であり、絵が人間の高齢者と猫の高齢者であることから使われたのだとおもいます。

 
挿絵の素晴らしさもありますが、猫について現在分かっていることを科学の裏付けをもって説明してくれている本書は、現在(いま)猫を飼っている人なら一読しておいた方がいいとおもいます。
猫のことに限らず、「過去の常識が現在(いま)の非常識」であることもあります。共に暮らしている猫を、そしてご自分を守るためにもお薦めの一冊です。

猫が幸せならばそれでいい: 猫好き獣医さんが猫目線で考えた「愛猫バイブル」

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