2019年10月30日 (水)

同行避難(追記)

前回の書込みは、いつものようにほとんど方に読まれていないようです。
同時に、少数ですがしっかり読んでくださり考えようとしている人が必ずいることが確認できたことは嬉しい。

毎度、基本的なことを理解していただきたくて長くなりますが、長いが故に読んでいただけない(悲)。

なので今回は誤解を招くだろうことを覚悟で短く書きます。

■ 前回の要点

平時に、役所に「自分が何処の避難所を利用すべきか」「その避難所でペットの対応がどのようになっているか」確認する。
・同じく平時に、その避難所にペットの対応」を確認する。

 

■ 気づいていただきたいこと

避難所運営は公的サービスではない。(発災初期は時に)地域住民の共助によって行われるもの。
※各自が地域の住民として、避難所運営団体が平時から何をやっているか、自分が手伝えることがないのか、そのような意識を持っていただきたい。
 先の書込みで書きましたが、避難所運営マニュアルの雛型にはペットの受入れが書かれています。しかしそれを実現する準備が進まない。つまり、誰かが協力してその部分を担えば同行避難は現実します

 

■ アメリカのこと

前回の書込みで書いたこと
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日本人は(動物関係は特に)「欧米を手本に」と考えている人が少なからずいるようですが、アメリカのカトリーナ後に整備された法律のことや、その後の避難所のことも調べてみていただきたい。
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(私の書込みとは関係なしに)カトリーナ後に出来た法律について書いているのを読んだ。それは好ましいことだし、そのような情報が広まってほしいとおもうことを先に書いておく。

私が「その後の避難所のことも調べてみていただきたい」と付け加えたのは、法律が出来た(正確には改正された)からと言って、大規模災害が起きたら(手続きなしに)すぐに機能する訳ではないし、法律が機能し始めても、全ての避難所、交通機関が人間の避難と同等に扱ってくれてはいない現実を、自分で調べてみて欲しかったから。

簡単に見つかる記事として、こんなものがある。2017年のバービーの時の記事。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/08/post-8333.php

日本の大規模災害の時のことを思い出してほしい。
避難所に行くことを諦め自宅で静かに避難している人たちがどれだけ多いことか。たぶんアメリカでも同じだと、私は想像している。

アメリカは懐の深い国ではありますが、結果として(歴史的にも)弱者が存在する国でもあり(災害時だけでなく、いつでも)そのような人たちに手を差し伸べてきているので、同行避難についても弱者保護の一つとして、多く人が自然に捉えることが出来たのだとおもいます。
そのアメリカでも上記記事のような現状があります。

他の何処かの良い部分を参考にすることは良いことですが「他の国がOKなんだから大規模災害時は私も助けらえるべきだ!」と要求し続けるだけではなかなか先に進まないのではないでしょうか。

 

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ここから下は長くなりますので、ご興味ある方だけでお読みください。
感情的な情報に流されずに自分が共に暮らす動物を守りたいと考えている人、次の時代について現実として考えたい人だけ読んでいただければ幸いです。
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■■ 考えてほしいのです ■■

アメリカでも法律で同行避難をするように、としています。日本も同行避難しましょうとしています。そのような風潮にもなっています。
法システムの成熟度は明らかに違い、着実な運用という意味では大きく違いますが、法を基にした制度が存在すること世論感情として「ペットも共に避難すべき」となっていることに違いはないとおもいます。
日本の現状から(私が知る限り)足りないことは、避難所運営について平時から皆で考え協力する姿勢だと感じています。
日本でも平時から対策を考え行動している人たちがいます。そこに目を向けてほしいのです。

外を自由に出歩く猫の問題が誰の目にも分かるような効果が継続的に現れるようになってきたのは、理解・協力してくださる方が増えてきたからだと、私はおもっています。
少数の地道にやってきた人たちの行動から継続的な効果が出てきて、それを見た人たちの中から、少しずつ理解・協力してくださる人たちが出てきて、共に働きかけ、地道な作業を続け、明らかな効果があると認められるようになり、その結果さらに協力者が増え、目覚ましい効果をあげています。
猫の活動は法的な裏付けがほとんどない状況で続けていましたので、一般の方が想像も出来ないようなご苦労があったと耳にしています。それでも理解・協力を積み重ねることが出来れば、先に進めるのです。

同行避難の問題も、理解者・協力者が少しずつ増え、やり方を試行錯誤し、効果が得られるような形にもっていかない限り、円滑な同行避難運営は出来ないのではないでしょうか。
現状、発災時に避難所運営を開設し、苦労しながら運営しても「あの対応が不満だ!」「ペットを一緒に入れてくれないなんて!」と言われてしまいます。これでは、より良くする気持ちも、それ以前の続ける気持ちも萎えてしまっても不思議はありません。
まずは「避難所の運営とは」の理解が広がることを心から祈るばかりです。

 

他に可能性としてあるのは「同行避難・同伴避難ビジネス」が注目されることです。
言葉として不適切かもしれませんが、ペット用の備蓄品や避難時も使えるキャリーなどが出てくるとマスコミなどで扱われ、全体として意識があがることは確かです。
現実として、営利が基本となるものほど情報発信力が強く確実に伝わるものです。
「ビジネス」なる言葉がよろしくないかも知れませんが、行政が行うものや非営利も含むと考えてください(こちらは発信力が弱くなるのが常ですが)。

今まで人間用のモノとして、避難所で床上げできる段ボールや、プライベートを確保するための仕切りなどが開発されたことがマスコミで流れたことがありますが、大きなビジネスにはなっていようです。
人間用のモノが先にないとなかなか難しいのが現実ですから、モノを扱うビジネスは難しいかもしれません。

 

となると、システムというか情報の扱い方、分かり易い形として「アプリ」でしょうか。

現状、同行避難・同伴避難の問題で最も必要とされているのは、発災時に「どの避難所がどのように対応しているか」の情報となります。何度も書きましたが、対応は各避難所の避難所運営マニュアルに書かれていて、事前に情報を集めることが出来ます。
なので、何処かの会社がアプリを作り、情報を集め・整理することが出来れば、大きな一歩となるし、ここから派生するビジネスは幾つもありそうです。

今の話は発災時の運営に焦点をあてた話でしたが、平時の試行錯誤の段階でも、基本情報(災害の種類によって、その避難所にどれらくいの人が来るだろうか、避難経路はどうか、備蓄がどれくらいあって補給をどうするなど)の収集や、平時と発災時の連絡の取り方などを、総合的に円滑にできるアプリがあれば、こちらかも(ビジネス含めて)色々なことが生まれてくるとおもいます。

各避難所別にそのようなデータや手法を積み重ねることに留まらず、広域的にデータを蓄積し、より良い方向性を見出すことが出来るのではないかと考えています。この部分でもITは大いに力になってくれることでしょう。

 

既に「長くて読めねぇよ!」言われること必至なのでここまでにしますが、最後に私の願いを一つだけ書いておきます。

役所や避難所に「確認(電話)して」と先の書込みでは書きましたが、本当にしていただきたいことは、

      避難所運営に目を向けて!

ということ。

 

ペットのことは別にしても、大規模災害時に最後の頼みの綱は、避難所が確実に運営されてるか、ですよね?
そこに目を向けませんか?
それだけなんです。

 

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避難所の運営に深く関わっている方が読んだら「それは出来ない」「理想だよ」「絵に描いた餅」と思われることを、わざと書きました。
現状、一般の人には理解され難い苦労が避難所運営にはあります。今まで書いたことを真剣に検証してゆけば、それに気付くとおもいます。
この書込みが、そのような機会になれればと密かに祈っています。

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2019年10月22日 (火)

同行避難とか同伴避難とか

先の台風15号や19号は来る前から大きいと報道もあり、実際大きな被害がありました。亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被害に遭われた方々の生活が、一日も早く以前の生活に戻れることを陰ながら祈っております。

そのような大きな災害が来る度に、ペットを連れて避難したいが受け入れてくれる避難所がない、という話が出てきます。
2011年の東日本大震災の時は、避難所に入れないことが当然のような風潮がありました。しかし国は阪神淡路大震災(1995年)以降、同行避難を示していましたが、世の中はほとんど反応しませんでした。「あんな大きな地震は当分来ない」と多くの人が思っていたからでしょうか。
2004年中越地震の時、孤立した村から犬もヘリコプターで救助されて話題になりました。この時の映像が大きな反響を呼び、その後はペットも一緒に救助することを後押しする声が多くなっていきましたた。(担当者が当時のやり取りについて語っているのをYouTubeで見たことがありますがやはり基本的にNGだったようです。しかし現場の誰もが助けるべきだと考えていたようです。)
そのようなこともあり、中越地震後、市区町村の中には、改めて同行避難の普及をはたらきかけた所も出てきました。
それでも、先に書いたように東日本大震災の時は(特に原発災害による避難命令を受けた地域では)多くの(ほとんどの?)人が家に犬や猫を置いて避難した。そのように指示されたと云う人もいれば、避難所には当然連れていけないと思っていた人がほとんどだったとおもいます。また、同行避難という言葉を知らない人も多かったとおもいます。

東日本大震災後、また改めて同行避難の普及を試みた市区町村も少なからずあったようですが、なかなか各避難所は(人間に対応することを考えるだけで)手いっぱいでペット連れの対応まで手がまわらないのが実情のようでした。

まだ記憶に残っている方も多いであだろう 2016年の熊本地震の時でさえ、ペットと避難所に行くこと(同行避難)がなかなか難しい状況でした(今もですが)。そのような状況の中、龍之介動物病院が同行避難を望む人たちに病院を開放したことが話題になりました。

 

さて「同行避難」とは何だろうか。
現在は「ペットと共に避難する行動を指す」ことになっている。あくまでも「避難する行動」のことである。
以前は少々違った。ここまでしっかりと定義されていなかった。なんとなく「避難所に一緒に行きましょう」的なニュアンスで、それ以上のことを読み取ることは出来なかった。
「同行避難」という言葉は随分と前から役所が出している文章にありました。それに対して「同伴避難」は、同行避難が知られてくるようになり、避難所までは一緒に行くが、避難所で同じ空間で過ごせないことがほとんどであることが知られるようになってから、広まった言葉です。

ちなみに、何故ペットと共に避難することを推奨しているのか、これをご存知ない方は、一度調べてみていただければとおもいます。法律で(直接的な表現ではありませんが)書かれているから、と云うのが分かり易い答えがありますが、法律で書くほど大事な理由は何だろう、と考えていただきたい。これはネットで調べれば見つけることが出来るはずです。
少々意地悪に感じるかもしれませんが、調べてみると色々なことが分かってきて、驚いたり、過去の出来事に胸が痛くなったり、多少は疑問をもったり。人と身近な動物との生活について、より深く・柔軟に考えることが出来るようになりますし、今後、身近な動物との社会問題を考える時に、現実的に考えることが出来るようになります。
日本人は(動物関係は特に)「欧米を手本に」と考えている人が少なからずいるようですが、アメリカのカトリーナ後に整備された法律のことや、その後の避難所のことも調べてみていただきたい。

理由や背景、現実はともかく、国は同行避難をしましょうと言っています。しかし(この2019年の大きな台風の時も)「同行避難とか言っているけど、受入れてくれる避難所ほとんどないじゃん!」の声を幾つもネットで目にしました。

 

やっと本題です。

このようなことにならないように、私は東日本大震災後から同じことを繰り返して書いたり発言してきました。しかしこの2~3年はトーンダウンしました。一つは、防災について語られる機会が減ってきたことがある。もう一つは、私が書いたり発言したことを「やってみた?」と聞くと9割以上の人が「未だ」と答えが返ってきたから(虚しくなって諦めた)。
つまり、私の考えを大きな団体や先生と呼ばれる人たちは、言わなかったのです。
私一人が言っている状況なので、皆さん「意味あるの?」と思ったことなのでしょう。しかし、今回の台風がきたら、やるしかなかったのです。それを平時にやっておきましょう、それだけです。

その話の前に基本的なこと。
各市区町村は予め何処を避難所にするか決めています。多くの場合、学校であることが多いようです。
そこには備蓄品など「物」も準備されていますが、災害発生時に避難所が開設されたときに運営する人たち(団体)が準備されています。もちろんどのように運営するかも話し合うように(国からトップダウンで、直接には市区町村から)指示が出ています。なので各避難所毎に運営マニュアルを作ることになっています。

という言うことは、ペットを受け入れるのであれば、そのマニュアルにそのことが書かれているはずです。
先にも書いたように、運営マニュアルは各避難所毎に作るものであり、内容を役所から押し付けられることはありません。
運営団体の人たちはボランティアです。行政の人たちが運営するのではなく、地域の人たちの善意で運営されるのです。
大規模災害が起こった時、行政の人たちが各避難所に駆け付けることが出来ないであろうことは、阪神淡路大震災や東日本大震災を体験した人ならご理解いただけるとおもいます。現実的に考えて、地域の人がやるしかないのです。
その地域の人たちが「この避難所はこのように運営しましょうね」とマニュアルを作るのです。

とは言っても、ゼロから作るのは大変です。なので国が作った雛形を都道府県がアレンジし、さらに市区町村がアレンジしたものを「これを基本的な形にして作ってみてください」としています。
その中に同行避難(してきた人やペットの受入れ)について書かれています。国が同行避難を推奨していますので「この避難所は受入れません!」とキッパリと決めている所は少ないとおもいます。多くの避難所は「検討中」や「準備中」のようです。
しかし受入れないと決めた避難所はあります。各避難所の事情から仕方なくそのような結論に至ることがあるようです。

ところで、あなたは、ご自分が避難すべき避難所が何処で、その避難所で同行避難がどのように決まっているのか・いないのか、ご存知ですか?

 

やっと、私がやってほしいこと(だけど、ほとんど方がやってくださらなかったこと)。

まずお住いの(市区町村の)役所に電話を架けて「私は〇〇町の〇丁目に住んでいますが、災害時に利用すべき避難所は何処になりますか?」と確認し、避難所を教えていただいたら、「その避難所ではペットの扱いはどうなっていますか?」と訊いてください。訊くことに意味があります。答えが分かっていたとしても訊いてください。多くの人が問い合わせたことは役所内で検討事項になるからです。
答えはだいたいこんな感じです。「ペットの扱いは各避難所で決めることなので避難所にお問い合わせください」。
その答えをいただいたら「連絡先を教えてください」とお願いします。または「避難所の連絡先は(区市町村の)HPに出ていますか?」と訊いてください。
そして、避難所に連絡し「ペットの受入れはどのように決まっているでしょうか」と尋ねてみてください。こちらでも多くの人から問い合わせがあれば、積極的に検討してくれることになるとおもいます。

 

避難を余儀なくされたとき、役所や避難所に確認のために連絡した人も少なからずいらっしゃったとおもいます。
それを平時にやっておきましょう、とそれだけです。

長々と書きましたが、たったそれだけのことが言いたかっただけでした🐶🐱

 

(余計なこと)
「避難所はボランティアでやってくれているのか。何もしない自分が同行避難をお願いするのも気が引けるな」と感じることもあるでしょう。たしかに現状、やる人・やらない人、が分かれてしまう運営方法になっています。
今の世の中、物だけではなくシステム(ルール)も新しいやり方が考えられる時代です。皆さんが声をあげ「出来ることがあれば協力するよ」と一言いえば、避難所運営のルールも今までは考えられなかったような方法が出て来るかもしれません。
素晴らしいアプリが出来て、皆で少しずつ協力し合って避難所が運営出来るようになるかもしれません。
そうなるように、もう一歩前に前進出来たらと何年も前から願っています。

こんなに長い長い文章を読んでくださり、ありがとうございます。
あなたは、より良いペットと暮らす社会を心から願っている方だとおもいます。
であるなら、もう少しお付き合いください。

日本にはまだまだ、犬や猫、その他の動物を粗末に扱うことは許されることとおもっている人がいるようです。
また、不特定多数の人が集まる場所に、犬や猫などを連れてゆくことをタブー視しているこ社会であることも感じます。それを考えれば、同行避難が広まらないことも仕方ない、となってしまいます。

避難所には、アレルギーの人もいるでしょう、本人も理由など分からず「とにかく犬や猫は嫌い」という人もいます。そのような人たちへの配慮は必要です。
ここまで考えると、面倒になってきますね。それらの問題をクリアするのは無理そうだから、やはり無理か、諦めたくなります。だからタイトルを「余計なこと」としました。

でも、私たちは進まなければなりません。このままではいつまでも同じです。そして発災時に不安になります。

前に進むために、どんな形であれ、避難所で受けれていただけるようにする。そして訓練を重ねる、経験を積む。問題点を洗い出す。
実際の災害時は特に、予想と実際は違うものです。 訓練もやってみたら「こんなはずではなかった」となることもありあす。特に動物関係は。(実際の災害は来ないで欲しいので来ないこと祈り)訓練でも数多く経験することで、先に進めるようになります。自信が付いてきます。

 

そのような状況を作るために、先に進むために、一人でも多くの方に「自分が避難する避難所が何処か」「その避難所ではペットの扱いがどのように決まっているのか・いないのか」を確認していただくことを心から祈っています。

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2019年10月 3日 (木)

とても驚いたこと(後書きブログ)

何度も書き直してぐちゃぐちゃになってきたのでもうアップちしゃいます(苦)
「長くて読み難いものなんてアップするな!」と言われてしまいそうですが、この書込みは万人向けではありません。身近な動物たちとの環境を総合的に把握できる若い人が出てくることを祈ってアップしておきます。

 

ゴールデン・ウィーク辺りに色々とあり、その頃のことを後書きブログとして幾つか書いた。
今回の内容はその時のものではない。今年のことでもなければ昨年でもない。一昨年かもしれないし、もっと前かもしれない。
そんな昔のことを今更なぜ書くのか?、私にとって、それはあまりにショッキングな内容だったから。これから書くことを理解できる人は、誰が何を言ったか気になって仕方がなくなるとおもいますが、それが誰なのか特定しないで欲しいから。したところで大勢は変わりませんし、良い方向に向かうことはありませんから。

読んで(「なんとなく」でいいので)分かってほしいのは、動物愛護とか動物福祉と呼ばれる範囲は幅も広く、各分野の奥行きも深いということ。
それと繁殖業つまり繁殖のプロとはどのような仕事で、素人繁殖とは何が違うべきなのかを、各自「考えて」ほしい。これは「分かって」ほしいではありません。何故なら、繁殖するにあたり、何を考慮したらどれくらい違いが現れるのかを、ここで細かく書いても理解されないから。書いたくらいで理解されるのであれば、誰かが書いて(日本に限らない)繁殖業への誤解はなくなっているはずだから。
(本当の意味での)ブリーダーと呼ばれている人たちが、繁殖に、そして生まれ来た犬たちにどれだけ心血注いでいるかは、そのような人と付き合わなければ分からないとおもうから。

これから書くことで「繁殖」を行う際に、どれくらいの範囲のことをどれくらいの注意と責任をもつべきなのか(答えが出なくても)「考えて(想像して)」ほしいのです。
考えていただける人が増えれば、安易に純血種を求める人は減るだろうし、経験・実績豊富なレスキュー団体(里親探し団体)から犬や猫を譲り受けることがどれだけ価値があるかも理解していただけるだろうから。

  

■ まず、私が遭遇した吃驚したこと。

とある人たちが「ホビーブリーダー」という言葉について論じていました。何をもってそう呼ぶのかという話もあった。話の流れから、私が抱いていたその言葉のイメージと同じだろうなとおもった。
私は「個人というか家庭でオスとメスを持ってきて繁殖しているような人たちのことだよね。日本のチャンピオンだったりするけどれど、それだけでいい犬が生まれてると思っていたら恐ろしい。でも、いっぱいいるよな。つまり、飼っている環境は良い様に見えるけど、犬の健康をよく考えるという意味での環境は備えていない人たち。備えていないというか、広い意味での健康を理解していない人たち。私はあまりお付き合いしたくない人たちだな」とおもった。不思議なことですが、世の中には、このような繁殖者を「素晴らしいブリーダー」と呼ぶ人たちがいることも事実なのですが、人前で議論していた人たちの中にも「何か誤解しているんじゃない?」と思う人もいて「テーマとして扱うと分かっているのであれば調べてきた?」と思ったのですが、たぶん調べても分からなかったのだと思います。つまりその人の周囲の人には、そのような知識がある人がいなかったのではないか、ということに驚いたのです。

人前で議論をするような人に中には「犬の繁殖の現場について、こんなにも知らない人がいるのか。この人がこの程度のことしか話が出来ないということは、この人の周辺の人も同程度の知識しかないのか。そのような現状で人前で論じるのか?」と吃驚でもあり、悲しくもなりました。
 

■シリアスホビーブリーダー
言葉遊びは嫌いですが、繁殖者のタイプには幾つかタイプがあるということを知ってほしいので、書かせていただきます。

ホビーブリーダーに似た言葉で、シリアスホビーブリーダーという言葉がある。
私はこちらの人たちとは積極的に付き合いたい。しかし世の中には「ショーとかやっている人たちでしょ?」と一瞥する人さえいる。その通り、世界基準で犬の健康を見極める場に出ている人たち。

「ショーってインチキいっぱいなんでしょ?」という人がいます。「そうですけど」と私は笑顔で答える。「そんなインチキくらいすぐに見破ることが出来なくて、犬の健康が分かるんですか?」と続ける場合もありますが、相手によっては口には出さないこともあります。

 

この文章を書いていて具体的なことを書いては消した。(とても残念ことですが)書いたところでほとんどの人には理解されないだろうから。
消し過ぎて意味が通じないかもしれない。それでも書くのは、広い意味での「犬の健康」への理解が広まれば「犬や猫を気軽に迎える人は減るだろう」から。そして「気軽に捨てる人はいなくなるだろう」から。

 

プロの繁殖家がどれだけのことを考え実行しているかを知れば、また、ほとんど何も考えず(衛生環境くらいはよくしておいて)繁殖することの恐ろしさを知れば、それがショップであろうとブリーダーと呼ばれる人であろうと、どんなところからでも仔犬を入手することには慎重になるはずです。
そして(先にも書きました)歴史と経験のあるレスキュー団体(里親探し団体)が如何に価値があるか、気づくことになるでしょう。

では、どんな理解が進めばいいのか書こうとおもいます。
 

それを書く前に、驚いただけで知らないことを非難・批判するつもりはないことを書いておきます。
繁殖することを批判する人たちは、悲惨な問題の直近の解決に尽力してくださっている人たちなので、「とにかくもう繁殖しないで!」という気持ちになることは理解できます。とにかく凄い犬猫余り状態なのです。なのでそのような人たちが理解する暇もないということは理解しています。

そのような人たちが(時間的に難しいとおもいますが)理解してくだされば、全体的な話の進み方もよくなるだろうという気もちもありますが、何より私が理解してほしいと願う人たちは、一般の飼い主さんたち。犬や猫を飼っている多くの人たち。これから迎えようとする人たち。今でなくても、いつか迎える人たちです。

 

やっと本題。

■プロの繁殖者ってどんな人?

繁殖者のプロに求められるものって、なんだろう。いや、もう一歩手前から考えてみましょう。
「その仕事で「プロ」と呼ばれる人たちって、どんな人?」と問いを変えてみます。

素人でも知っているコトは当然知っていて、更に知識があり、技術的に普通の人が出来ないことを確実に行う人。
料理人は料理のレシピを知っている。普通の人が知らない知識や普通の人が出来ない技術もある。普通の人が作る段取りとは違う場合もある。
それは、お客さんがやってきて、数分の内にある程度のレベルのものを確実に出さなければならないから。
お店で「いつも通りに作れなかった」とか「失敗して作り直し」は論外ですですよね(年に1~2回ならいいかな)。
それともう一つ。接客といかお客様対応。お客様に商品を理解してもらうこと。
「ラーメン」だけの看板を出していて、激辛ラーメンしかないお店だったら、お客さんの中にはメニューを見て店を出る人もいますよね。
自分が何を提供するかを出来るだけ伝える、そして心地よく利用していただく。このようなこともプロの仕事に含まれると、私は考えています。

では、繁殖者に求められるものってなんだろう。
健康な雌雄を持ってきて子供を産ませること?

これ、誰でもできますよね。プロと呼べるでしょうか?
プロ用の道具を揃えて、仕込みの仕方を教えてもらって、それで飲食店が開業できるでしょうか?、ファストフードのように、誰でも間違いないような仕込みがしてあり、マニュアル通りに作る技術があれば、どうにかなるでしょう。
それを個人のお店がやって、続くと思いますか。まず初期コストが膨大になり、回収までに時間がかかり、個人経営では続けるのは難しいとおもいます。
そのようなお店が出来たとしても、たぶんチェーン店に行った方が、無難に美味しいものが出てくるし、お店もゆったりしているでしょう。お客側の「そのお店に行くメリット」は何でしょうか。出てくるものが同じなら、店内の環境が良かったり駐車場があるお店に行ってしまいます。

「そのお店にしかない雰囲気やサービス」がなければ、たぶんお店として続かないはずです。そしてもし続くことが出来たら、つまり「行く価値のあるお店」と多くの人に認められたなら、それはプロと呼んでもいいとおもいます。
でも(お客側の勝手な高望みですが)「材料に拘って、全体的にも作り立てで、店内も気持ちよく、給仕・接客も心地よい」を私は望みます。
全てに(拘るというか)細心の注意と向上心をもって仕事に向き合ってほしいとおもいます。それは誰もが出来ることではなく、心からその仕事が好きだから苦労も厭わず続けることが出来、その積み重ねで、経験も知識も豊富になり、それが料理に現れるのだと思っています。

私は以上のように考えます。ではもう一度。
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では、繁殖者に求められるものってなんだろう。
健康な雌雄を持ってきて子供を産ませること?
--------------

これだけでプロと呼ぶのはおかしいのでは?、と私は思います。
飲食業で例えるなら、それなり道具を揃えているだけではないでしょうか。

「いや飼育環境が問題なんだ!、ハード面ではなく、ソフト面だよ」と言い出す人がいるかもしれません。
それは、繁殖者だけに言うべきことなのでしょうか。繁殖ではなく飼育する人、全てに求めるべきものであり、繁殖を語る以前の問題なのではと、私は考えています。

(余談になりますが、、、あくまで余談です)
現在、そのようなことを第一種動物取扱業者(大まかに説明すると、第一種は商売で動物を扱っている人たち、第二種はボランティア団体など)に酷い飼育環境にしないでもらうことを強く求める動きがありますが、なんで第一種(商売の人たち)だけなんだろう?、と私は不思議でなりません。
第二種(ボランティアなど)だって、一般飼い主にだって求めるべきなのでは?、とおもっています。
平成30年度の東京都の審議会で私の考えと同様の意見が出てくれたのは、とれも嬉しかったです。近い将来、法律かその手前の文書にこれらが記載されることを祈るばかりです。
(余談ここまで)

 

では、プロの繁殖者に求めるものは何か?
まず「健康である子を産ませる」こと。
たぶん「はぁ?」とおもう人も多いとおもう。しかし「健康」には色々な意味が含まれています。

「犬や猫って、みんな健康に産まれてくるんでしょ?」と思う人も多いとおもいます。
犬や猫のお産の手助けをしてきた人たちから話を聞くと、呼吸が停止して生まれてきたり、犬種によっては難産が当たり前のこともある。
こういうこともよく分からず、何気なく繁殖を続けてる人もいると聞きます(これはすぐに気づくとおもいますが)。

人間を含め動物にも植物にも遺伝というものがあります。
この20数年で遺伝性疾患という言葉を知る人も増えました。それらの中で幾つかは(遺伝子検査の技術の発展で)検査もし易くなったこともあり、情報が広まりました。しかしそれは遺伝の中のごく一部の話です。
難産かどうかも遺伝が関わっていることがあります。難産と肥満が関係することもありますが、肥満も遺伝が関わることもあります。命ある者の行動の全てに、遺伝が関わっている可能性があると言っても過言ではありません。
とにかく遺伝というものがあり、膨大な情報が受け継がれる。そこのことを何気なく知っている方は多いとおもいます。

 

■犬を選ぶ

犬は長い歴史の中で、人間により選択繁殖されてきました。人間に都合の良い遺伝子を持った犬を積極的に繁殖してきました。その結果「犬を選ぶ」ということが出来るようになっています。

現在、日本では「犬種が決まれば、あとは縁」とか「犬種なんて何でもいいし、雑種でもいい、出会いだ!」などの話は珍しくありません。犬を選らぶことが悪いことのように言う人すらいます。犬余り、猫余りの、今の日本ではそのように感じても不思議はありません。

私は経験上「犬との幸せな時間を求めるのであれば、犬を選ぶべき」と考えています(「不幸な犬や猫を救うこと」が目的であればその必要はないかもしれませんが)。
人間が何を求めるかが決まっていれば、犬種を絞ることができます。犬種の中でもタイプがあります。そのタイプの中でも血統で、より自分の好みの犬を探すことができます。それは、犬との幸せな時間のためです。犬にとっても幸せな時間になってもらうためです。不幸な犬を生まない意味でも理解していただきたいと祈っています。

人間は犬に特徴付けをしてきました。それは遺伝子を偏らせたと言ってもいいとおもいます。その副作用(?)として遺伝性疾患などが現れることもあります。

遺伝により気を付ける(繁殖の長い歴史の中で分かっている)項目数は、繁殖の現場をご存知ない方には驚かれるくらいの数があります。
とても分かり易い(見えて判断し易い)話をすれば「容姿」。容姿を語るには、その基本的な体型が分かっている必要があります。それと比べないと話が噛み合いません。

容姿だけではありません。分かり易く言えば「体」だけではなく「心(脳みそ?、性格?)」についても。
スタンダードという言葉を聞いたことがある人もいるとおもいます。ドッグ・ショーなどでは、そのスタンダードを基準して審査をします。そのスタンダードの中に「習性や性格」などの規定もあります。
しかしそれら(体や心の基準)はとても大まか。ちゃんとその動物に向き合っている繁殖者の話を聞けば、大まかでなければやっていられない現実は分かってきます。書いても理解されないとおもいますが、厳密することによる弊害もある。またチェックポイントは無数と云ってもいいくらいあり、それらは関連していることもあり、厳密にしてしまうと矛盾が出てくることもあります。
されに言えば、健康という意味では、それほど重要ではない事柄で「好み」として幅をもっていい事柄もある。

それらの事柄の「優先順位」も「好み」の問題になる。
とっても大雑把で乱暴な話として「体(形)」と「心(性格)」のどちらを優先するか。(実際問題、これらはある程度関連があることが分かっていますので、話として適当ではありませんが)「あなたは、どちらを優先しますか?」と問われたら、なんと答えますか?

 

「見た目なんていいんだよ。特別性格がいいとかも望まないけど」と考える人も少なくないとおもいます。私も昔はそう思っていました。
しかしまともな繁殖者(私がブリーダーと呼ぶ人たち)と話を重ねる毎に、考えが変わりました。

繁殖のプロと呼んでいい人たちが常に考えていることは、自分が繁殖した子たちが一生幸せに過ごすことです。なので、直接飼い主に譲ることを基本とします。そして譲るときに「どうしても手放すときは連絡して」といいます。引き取る覚悟があるのです。
彼らは繁殖した動物たちが幸せかどうか気になって仕方がありません。なので、飼い主たちと付き合い続けます。現実は、全ての飼い主さんがそれに応えてくれません。いつの間にかお付き合いがなくなる人も出てきます。なので尚更出来るだけ付き合おうとします。

その結果、自分が繁殖した動物の一生がどうだったのか、を知ることになります。同業者同士、そのような話の情報交換をすることもあります。結果として膨大なデータ・ベースのようなものになります。
そのようなことから分かっている分かり易い例として、高齢になったときにどのような病気が出易いか。
獣医療が発達した現在「原因は分からないけど死んじゃった。それなりの歳だったので寿命だよ」の時代ではありません。何かしらの病気で亡くなるか、病気といえなくても「腎臓が弱わっちゃってね」などある程度のことが分かるものです。そのようなことの傾向も分かってきます。
自分が繁殖した動物が、どのような最期を迎えるかを知り、次に繋げるのです。
最期なんて縁起でもない話をしましたが、分かり易い事柄だと考え例に出しました。

最も気になることは「その家庭に喜んで受け入れられるか」「馴染むことが出来るか」だとおもいます。それが出来れば、最期も穏やかに迎えることができるでしょう。思い出の中でも、幸せに暮らすことが出来るでしょう。

このようなことをことを語るときに「見た目」が如何に意味あることか、私は知ることになりました。
「見た目がそんなに重要なのか。そんなヤツに犬や猫を飼う資格ない」と言いたくなる人もいると思いますが、見た目(仕草などを含む)が気に入るか否かで、その犬や猫の幸せが変わることを、多くの話を聞き実感しました。また、私が犬と暮らした時間の中で、それを強く感じたことは何度もありました。

簡単な例でいれば「しつけ」です。人間と上手くコミュニケーションが取れるようになれば表情が変わります。人間から見て穏やかにに感じ、共に過ごす時間に安らぎを覚えたり、共に感情を共有しあえたりしてきます。
「しつけ」し易さ(人間とのコミュニケーションの取り易さ)も遺伝に依るところが大きいです。

 

■作り話

ここまで「プロの繁殖はとは?」と「遺伝」がテーマになっているので、少々長い「作り話」を書きます。

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ある人が純血種の犬を迎えようと考えました。ある程度勉強はしました。どんな犬種かくらいは分かっていました(本人として周囲の人に比べればとても勉強して、その犬種のことを熟知していると思っているレベル。本やインターネットで一所懸命調べたレベル)。なのである程度のブリーダーと呼ばれる人たちの所をまわりました。犬を迎えるにあたって出せる経費は、全部で(ショー通いやブリーダー巡りの交通費なども含めて)100万円くらいと決めていました。もちろん、仔犬のための食器やサークル、その他犬具、車に乗せるためにも揃えるものがあるのに気が付きます。家の中にも造作が必要だなと思ったりします。すると、犬そのものの対価としては30万円くらいしか使えなくなってしまいました。
自分が欲しいレベルの犬を手に入れられる金額ではありません。ショー会場やブリーダーさんのことろで多くの犬に接し(「接する」ことが大事です。何故なら日々接することになるからです。)「自分と相性がよければ、見た目は二の次でいいな」とおもうようになりました。

この人の犬探しが熱心なことは、その犬種関係の人たちの中でちょっとした話題になりました。

(話の続きの前に、余談)
犬に「接する」ことが大事ですが、できれば何度か同じ犬に接してほしい。それは子犬よりも、繁殖に使われる雄犬・雌犬たちにです。
今まで書いてきたように「体(見た目)」も「心(性格)」も遺伝します。また、繁殖に使う犬(繁殖に使うといことは、素敵な犬たちであり、素敵な状態であると繁殖者がおもっているだろう犬)の飼い主である繁殖者にその犬たちの世話の仕方、付き合い方を学ぶ上ことで「この子は、こうだから、こう接している」ということを教わることが出来るのです。これは実際に接しみないと分からないことです。
そこから、各犬の違いが分かるようになってゆきます。違いが分かることで「健康」に敏感になってゆきます。比べることが出来るようになるからです。
その「違い」が分かるためにも、ショー会場などでも多くの犬を見て、接してほしいのです。その経験を通して、多くの犬好きと知り合い、話を聞いてほしいものです。
(余談終わり)

 

話の続き。

その人が通っているブリーダーさんのところで、ショーでいうところのスタンダードから少々外れた犬が産まれたとします。普通の人がちょっと見ただけでは分からないようなことです。しかしその犬種に詳しい人なら「まぁ、ときどき出るよね、こういう犬、ショーには出せないね」という感じのことです。

「見た目」の中の「健康」には何ら問題はありません。「見た目」の「外見」だけの話です。
例えば毛の色の出方です。遺伝性疾患と関連することもありますが、今回の「例え話」では関連しないことが歴史的に分かっていることだと思ってください(余談で説明します)。

(余談)
「見た目」と「健康」について。
犬が健康かどうか、何で判断しましょうか。血液検査や尿検査、レントゲン、DNA検査?、最終判断ならする人もいるかもしれませんが、ショーを見に行ったり、ブリーダーさん巡りをしている段階では、見せていただく犬の、そのような情報まで求めなられないですよね。
ドッグショーに通うことで、血統書を調べることや、犬の(動いていないとき、動いているときの)「見た目」から犬の健康をある程度想像できるようになってゆきます。検査をする訳にはいかないし、犬のことに詳しくなれば(遺伝性疾患などのこも知るようになれば)世間で知られている範囲の検査くらいでは不充分だと気が付きます。
骨格に関わる遺伝性疾患の(現在ある)検査に検査に全てパスしたとしても、歩様に「なんか違う」と感じることのある犬はいます。そのような項目がいっぱいあるのです。
結局(現実として)「見た目」で「どうみても健康に見える」を最低条件にすることになります。その目を養うにはやはり、同じ犬種が並ぶショーに行き、同じ犬種と付き合い続けているブリーダーのところに通い、同じ犬種の犬たちと接し続けることが大事なのです。
最終的に「よし、この犬とこの犬の仔犬を譲ってもらうことにしよう!」と思った時に、「この犬たちの仔犬を欲しいのですが、この犬たちはどれくらい遺伝性疾患について考慮されていますか」と聞き、検査の結果などについて教えていただくのがいいと思いますが、ブリーダー通いして話を聞いていれば、既にそのような話が出ているとおもいます。
(余談ここまで)

(余談、もう一つ)
「外見」だけの問題として(先にも書きましたが)分かり易い例は「毛色」の出方です。「模様」と言えばいいでしょうか。犬種紹介ページに載っているような色の出方の犬もいれば、そうでない犬もいます。
ダルメシアンの斑点やビーグルの色の出方などが身近ではないかとおもいますが、毛色の問題は奥が深く単純ではありません。
DNA解析技術が進んだ現在ですが、そのような技術のない時代から「この毛色の子は、こんな疾患をもっている(今後出る)可能性がある」と経験上分かっていました。目や耳の疾患と関わりがあることをご存知の方もいらっしゃるとおもいます。
今回の例え話では、このような歴史的な経験上、この毛色はスタンダードから外れるが、健康には関係「なと」分かっている「外見」だけの問題だとします。
(やっと余談終わり)
 

ブリーダーさんたちは、健康に問題ないけど見た目に問題ありの犬の飼い主探しに苦労します(理由は後述)。勿論自分の手元に置くという選択肢もあります。

勉強をしっかりしたために、お金を使ってしまい、更に必要なものを揃えるためのことを考えているから、犬そのものに支払うお金が限られてしまっている人に、その犬を託してみようかと考えました。代金はもちろん激安です。
その話を本人としました。本人も犬種という言葉を理解していたので、それが軽いことではないことを理解していました。軽くない話を自分にしてくれたことを嬉しくもおもいました。それなりの覚悟が必要なことも理解していました。

多少の毛色の違いですから、その人が夢見てきた「その犬種とのその犬種らしい暮らし」は実現できるはずです。
(出来れば)犬種図鑑に載っているような犬との時間を過ごしたい気持ちもあるし、この犬を迎えれば多少の中傷を受けることも予想出来ました。
しかし、経済的に限られているという現実と、毛色以外は素晴らしい犬であることを理解できていたので、この話を受けることにしました。

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犬が幼いときは日々大忙しです。そしてやっとやってきたその犬種との時間に幸せを実感していました。

性格がいいことも分かっていたし、自分との相性がいいことも分かっていましたので、しつけも順調に進み、誰からみても「いい子」になりました。
そして、色々な所へ出かけるようになりました。
子犬と呼ばれるような時期は、それだけで皆が可愛がってくれました。2歳から4歳くらいはまでは元気な盛りで、一緒に遊ぶのに精いっぱい。それは幸せな時間でした。

6歳を迎え、落ち着き始めた頃、違和感というか罪悪感のようなものを感じるようになりました。

共に過ごした時間の中で問題の「見た目」を指摘されたことはほとんどありませんでしたが、全くなかった訳ではありません。ブリーダーさんのご苦労も理解しているので、ブリーダーさんの名前を明かすこともしませんでした。
自分が何らかの当事者になると、同じような問題に目を向ける結果になることが多々あります。インターネットの(自分とは関係ない)書込みにも犬種という言葉に対する誤解を感じるようになります。
自分は勉強し納得して、この子を迎えました。何度か「見た目」ことを指摘されたことはありますが、きちんとお話しし納得していただけたとおもいますし、自分とこの犬の生活が幸せであることは、その方にも伝わっていたとおもいます。しかし「自分の人生」という限られた時間の中で「無理をしてでも理想を追い求めるべきだったのでは」と思うようになりました。
この子との時間は幸せに満ちていますが、もしより理想を求めていたら、もっと幸せになれたのではないか。私たちだけではなく周囲をももっともっと幸せに出来たのではないか。自分はそのために時間もお金をかけてきたのではないか。
そんな漠然とした違和感というか罪悪感を覚えるようになりました。

それは、この子に対してではありません。自分の生き方についてです。

自分が置かれた立場に落ち着くことが出来ず、一度諦めた夢を追ってみたいとおもうようになりました。
今なら体力もあるし、経済的にも(あの時に比べてれば)余裕があり、どうにかお金の工面もつくかもしれません。
「見た目」に問題ありの犬を連れて、またブリーダー巡りをしてみようかと、おもうようになりました。

そして、はじめに起こした行動は、今の子のブリーダーに相談することでした。

(終わり、、、にします)

 

■何が言いたいの?

さて、私は何が言いたいのでしょうか?
プロは、お客さんの気持ちに応えるのが仕事だと私はおもっています。今まで書いてきたのは「お客さんの気持ち」の一例です。
このようなことに応えるのがプロの繁殖者だと私はおもっています。

犬を迎えることを考えている人(お客さん候補)が訪ねた時に、そこが不潔だったら。犬のための衛生環境だけでなく、お客さんの気持ちにも応えていないことになります。もし犬に対して酷い扱いをしていたら。これもお客さんの気分を害しますよね。
それらを繕っていたとします。しかし犬と接すれば分かります。犬の汚れや人間との接し方などから分かります。
お客さんは「こんな人から犬をもらいたくない」と思うことでしょう。

現在の犬や猫の(ペットショップを通した)販売システムでは、このようなことはありません。繁殖者と飼い主が接することは、まずありません。

何故そうなのか。そうなったのか。それを考えていただきたいです。可能であれば「調べて」ほしいです。もし本当に調べることが出来れば、大きな戸惑いを覚える結果になるでしょう。
マスコミなどでは「悪い業者がいなくなればいい」と主張しているように見えます。そこだけで解決出来るのか?

私は違うとおもいます。
求める人がいる限り、違法行為になっても繁殖し販売する人はいるだろうし、その業界(?)は存在し続けるとおもいます。
現在、他の売買が法律で禁止されているものが違法に販売されているように。

「求める人がいる」限りこの問題はなくならないとおもいます。勿論「求める人」をゼロにすることは無理です。出来るだけ減らすこと、減らし続けることになるはずです。
その活動が始まれば、それは殺処分をゼロにしようと尽力している活動に似ているかもしれません。手を緩めれば元に戻りそうな問題という意味で。

 

■蛇足
既に結論めいたことを書いてしまいましたが、各飼い主さんの意識の移り変わりについて。

(最近ではありませんが)実際聞いた話として(ほとんど人と同じようにほとんど勉強せずに)純血種を気軽に迎え、その後、見た目のことを指摘されてから少し経ったら、その犬の姿が見えなくなった、という話を幾つか聞きました。

(これも最近の話ではなく、昔の話になりますが)ある繁殖者が以下のような話をしてくれました。
昔はね(昔の昔なので凄い昔のことです)、色の出方が悪かったり、その犬種らしくなかったら捻ってたんだよ。そのような犬は手元に置きたいけど、それをネタに「レベルの低い繁殖屋」って裏で中傷されちゃうし、自分はそんなことしないけどペットショップに売ったとして、ペットショップで売れ残ったらどうなるか知っているだろ?、あんなことさせたくない。売れたとしても、捨てられることがあるんだよ。安く売られるから「また買えばいい」って思うのかな。その犬種らしくない点を誰かに言われてイヤになるのかな。とにかく犬は居なくなって、何処にいったか話してくれない。返してくれればいいんだけど、何故かそれはしないんだよね、そういう人は。ショップじゃ返しても受け付けないだろうけど。だから、とってもしたくないけど捻っていたよ。そういう時代だったんだよ。

この「昔の昔なので凄い昔」は、純血種の犬や猫をペットにするのは珍しい時代で、飼われている多くの犬や猫は雑種で、犬は外飼い、猫は家の中と外を自由に行き来するのが当たり前の時代です。今話題の殺処分数は、今の10倍以上。インターネットも普及していないどころか「インターネット」という言葉をしらない人がほとんどの時代。遺伝子に関する学問も未熟で実用的ではないレベルの時代でした。

長くなったついでに書いておきます。
インターネットという言葉を、コンピューターの仕事をしていない人でも、知っている人が出てきたような時代のことです。
当時の日本では以下のように言われることもありました。
「犬は人につく。大人になって落ち着いた後に飼い主が変わることは、犬にとって大きなストレスでとてもかわいそうなこと。なので、そのような年齢になって、その一家が手放さなければならないことになったら、安楽死も選択肢に考えないとね。」

この30年、犬との暮らしに関する情報は膨大になり、感覚・考え方・常識は大きく変わりました。法律の変わりようは、ただただ驚くばかりです。

そのような中、繁殖した動物の幸せを祈り、時間と財産をつぎ込んでいる人たちが昔からいるを知ってほしいです。
彼らが繁殖者として培ってきた知識と経験から、純血種の犬が、どれだけ素晴らしく、どれだけリスクを持っているか、学んでほしいものです。それを知れば「それを知らないが故の不幸な結果」がどれだけ多いか気が付くはずです。

一般の飼い主が、その犬種のメリット、デメリット、特徴(良い可能性も悪い可能性も)くらいを調べて、更に血統(メリット、デメリットの出易さ)くらい考えるくらいになってほしい。
猫のことは詳しくありませんが、やはり遺伝性疾患が問題になっている猫種があるそうです。もう20年以上言われていても、そのことをちょっと猫のことに詳しい人に云っても「なんかそんなこと言っている人たちいるね。でも現在いっぱい飼われているし、普通に売られているから問題ないんでしょ?」と言われることあります。

 

■今の世の中、今までの世の中、これからの世の中

飼い主を失ったり、酷い環境で日々過ごしているペットの問題は、個別に迅速に解決しなければならないのが今の日本です。なので、作り話で書いたような理想を追い求めることは不謹慎と言われてしまうかもしれません。
私は、ある程度の理想を求める人たちが現れ、その人たちの姿を見ることで、幅広い人の意識が変わってくるのだと信じています。うーにーを迎える準備の期間からの25年間でそれを強く感じます。

罰則の強化は必要です。それに尽力されている方たちがいらっしゃり、法律が改正されてきています。
それに対し、日常の犬や猫との暮らしについてより良くしてゆく情報は、ビジネスベースに乗ればしっかりと伝わってきますが、遺伝性疾患などビジネスにはネガティブなことは、あまり伝わりません。
(鬱陶しく、理解されないと思いますが書いておきます。)遺伝性疾患が悪いとはおもっていません。それは完全にゼロには出来ないものですから。常になくす方向への努力が必要です。しかし理解が広がらず「遺伝性疾患があるからダメな犬」と言われることがあります。
その他のことでも、標準に合わないと「ダメ」の烙印を押されることがあります。生き物なのですから千差万別。人間の場合「障碍も個性」と言われる時代になりましたが、犬や猫も、そのような受け止め方が広まることを願っています。

それには、遺伝性疾患や人間との暮らしに不向きな部分を出さないことを心掛けている繁殖者たちが居ることを知るべきです。それが当たり前になるべきです。
深く考えず、調べず、雄と雌を持ってきて繁殖するようなことが当たり前の現在では、遺伝性疾患を発症してしまった犬の繁殖者は非難されて然るべきかもしれません。考慮せずにそうなってしまった犬が、たぶん99%以上でしょうから。

このようなことが分かってくれば、多くの人が、仔犬から迎えるリスク、(純血種でなくても遺伝性疾患やたぶん遺伝が原因だろう問題行動はありますが)純血種であれば尚更リスクがあることを知り、そのような子たちも含めて、幅広い犬たちの世話をし、その後のケアをしてきた、歴史と経験、知識のあるレスキュー(助けて里親探を探す)団体の価値(「偉大さ」と言ってもいいとおもいます)が分かるはずです。

まず識者と呼ばれるよな人たちが、プロの繁殖者が何に気を付け、どれだけのことをしているのかを知り、それを幅広い人たちに知らせることを心から願っています。
その結果、レスキュー団体から犬を引き取ることが、今以上に加速すると信じているからです。

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2019年8月31日 (土)

亡骸をどうするか(個人的な考え)

ブログなんて個人的な考えの塊であることは分かり切ったことがですが、たぶん「それって一般常識から離れ過ぎ」と思われる方も、少なからずいらっしゃるとおもいますので「個人的な考え」と前置きしておきます。

 

先日、こんなFacebookの記事を読んだ。
なるほど、こうやれば効率がいいというか、迷惑もかけないし、しっかり自然に帰るんだろうな、と納得した。
記事を書いている方とは知り合いではなく、どのような方なのか存じ上げません。偶然、この記事を読みました。

まず思ったことは「これを風葬呼ぶの?」ということ。
日本の幾つかの島での葬儀の方法を聞いている私としては違和感をもった。

Wikipediaで風葬を調べる。Wikipediaに書いてあるのは人間の場合ですが「風にさらし」とあるので、やはりちょっと違うような。でも、そんなことはどうでもいい。
沖縄のことも書いてある。私が沖縄に居た時に聞いた話とは違う部分があるが、そうしないとならない理由も分からないでもないので気にしない。

 

子供の頃、「墓」は自分に関係のない迷惑なものくらいに感じていた。父に連れられて行く墓参りにいい思い出がない。
成人して「そのうち自分も墓に入るのだろな」とおもったら、なんだか嫌になってきた。

若い時に、幾つかの土地で仕事をしながら滞在したことがあった。一ヶ月の場所もあれば半年以上の場所もあった。
島へ行き、ある程度島の人と仲良くなると、死体をどうするかという話になった。今、考え直してみると、私が滞在した時期がちょうどお先祖様が帰って来ると言われる時期であったからだとおもう。

Wikipediaの風葬を読むと、日本に於いて火葬をしなかったのは、少なくとも50年以上前のように読めた。私がお世話になった小さな島には火葬場はなかった。大きな島の病院で亡くなれば火葬となるが、私が居た島では高齢者でも島に残る人もいた。
そこで昔(50年とかではなくてもう少し最近)はどうしたかという話を聞いた。風葬の所もあった。風葬であっても墓が存在する。しかし自然に帰る部分も多い。

「墓」が好きになれない私は、風葬に魅力を感じた。

 

(ここで余談)
10年くらい前だろうか。
家の前のアスファルトの道にメジロが死んでいた。このままでは車に轢かれてしまう。以前、スズメが轢かれてペシャンコになった姿はなんとも哀れだった。
なので、我が家の庭とも呼べない建物と塀の間の場所に運び、地面を少し綺麗にならして横たえてあげた。
この場所は、アナグマの記事中にあるような微生物も多々いる場所で、菌類やミミズ、ナメクジ、ダンゴムシ、蟻、蜘蛛、ヤスデ、その他多様な生き物が生息している。ナメクジが増えた後にコウガイヒルが居ついていたこともある。
初夏の晴れた日だったと思う。メジロを横たえた後、どうしたものかとおもっていた。そして一時間くらい放置して見に行くと、小さな蟻たちがメジロの周りから土の粒の毛布を掛けてゆくように覆い始めた。三時間もすると綺麗な土饅頭のようになり、その下にメジロの骸があるとは分からなくなった。
それから何日を要したか覚えていないが骨もなくなった。全て自然に(命の循環に)帰ったのだ。
この時の感情を何と表現していいのか分かりませんが、たぶん「羨ましい」が近いのかもしれない。
(余談ここまで)

 

三年くらい前だろうか。長野県の南の方を車で走っていた。同乗者が急に、元善光寺に寄りたいと言い出した。
そこで九相図のようなものを見た。このとき九相図というものを知らず、後からそのようなものがあることを知った。(Wikipediaのページはこちら

そして小野小町の老後といえばいいのか、死との向き合い方を知る。

更に、日本に於いて、市井の方々が亡くなった場合、火葬し埋葬することが義務の当たりなったのは、遠い昔ではないことも知る。
飢饉などがあると死体があちこちにゴロゴロしてよろしくないので埋葬するように、とお達しが出るようになったとか。それから誰でも何らかの形で埋葬され、私が産まれた時代では墓地の墓に入るのが当たり前だった。
この30年くらいだろうか。子供がいない(=墓守がいない)者が増えたからか、散骨そして樹木葬が広まりつつあるのを感じる。

それらは火葬が前提のようですが、個人的な考えとして、そのまま動物や微生物に喰われて自然に帰りたいとおもうこともある。

ならば検体や臓器移植がいいのかも。

 

元の記事に関連した話。

車で旅行をしていて、動物の死体に出会うことがある。
はじめの内は、車を止めて端に寄せてそれ以上のことは出来ないかと考えたこともあるのですが、その周りの土地は(山の中であっても)私有地だろうから、道の近くの土の場所に運ぶのも気が引ける。だからと言って、車に乗せて一緒に旅をするのも気が引ける。結局何も出来ないのがもどかしい(動物愛護法に従い通報すればいいんですよね)。
 

またまた話は変わります。

自宅の周りでも、動物愛護法の大改正施行(2000年)以後は道路で事故に遭った犬や猫の死体を見る回数がどんどん減ったとおもいます。最近はほとんど見ません。

 

これまた「とても個人的な考え」ですが、死体、つまり死そのものと直面する機会が減るのはいいことなのかな、とおもうことがあります。
人が死を嫌う理由の一つに(身体的・精神的)苦痛が伴うだろうということもありますが、死や苦痛がバーチャルなものとして感じる人が増えたような気がします。つまり苦痛という感覚について考えない人が増えたような気がします。とにかく、現実の死については、とても距離をとっているように思えてなりません。

もちろん、道路で犬や猫、メジロやスズメが死んでいるのがよいとは思いませんが、何か直面する機会があった方がよいのではとおもえてなりません。
昔は三世代世帯が当たり前だったし、家で息を引き取るのも当たり前だった。なので子供も死に際に直面した。
と、書いている自分も、その後の世代で核家族で育った。祖父母の死に際には立ち会っていません。記憶を手繰ってみても、誰か(人間)の死のその時に立ち会ったことはないかも。

亡くなった直後に病院に駆け付けたら、病室から霊安室に移され、すぐに葬儀の話になったことは記憶にあります。これは気が紛れていいとおもったこともありますが、その通り「紛らわしていて」受け止めることを避けているのかも。

そんなことを考えると、火葬場のない小さな島で高齢で亡くなることは、それだけでも価値のあることなのかも。

 

以上、散らかった文章になってスミマセン。
「個人的な考え」でした。

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2018年12月22日 (土)

(読書感想文)人生の旅をゆく2

年末になったので今年読んだ本の読書感想文幾つか簡単に書いておこうとおもう。


まず、「人生の旅をゆく2」、著者は、よしもとばなな(現:吉本ばなな)さん。エッセイ集。
小説をほとんど読まない人間なので、今まで彼女の本を読んだことはない。

この本は女房が誰かからいただいてきた。犬との生活の話もあるので、それで我が家に辿りついたのだろう。

 

冒頭の方に犬との話が幾つかあった。次は、著者の子供の頃、若かりし頃のエピソードなどがあり、さらに読み進めると亡くなった忌野さんへの想いを語る。そして、東日本大震災に関わる話になる。震災の翌年お父様(吉本隆明氏)を亡くし、自身の在り方を考えさせられる内容が多くなる。

このエッセイ集は書下ろしではなく、あちこちに書かれたものを集め編集し直したものらしい。それらは 2008年から2012年に書かれたものであり、出版は2012年の秋。
東日本大震災と存在感の大きなお父様が亡くなったこともあってか、心の内側に目が向けられる内容のものが多いと感じた。

下町で育った著者は、子供の頃、隣近所の家では留守でも鍵がかかっておらず、留守のときに子供がお邪魔して台所のテーブルの上に置いてある(用意されている)お菓子などを勝手に食べることが当たり前だったと書いてあった。
子供の頃、ご近所さんと生活を共有し合って日常を過ごしてきた著者は(震災やお父様が亡くなる以前から) 現代における人間関係の常識に違和感をもっていたようです。
なので尚更、もっと人と人は直接関わるべきではないのか、と震災の時に感じたのだとおもいます。

 

東日本大震災から8年経った今読むと、「あの時はみんなこんな感じだった。今読むと大袈裟に読める」と感じた。それが正直な感想。

そしてふとおもった。 

あれはブームだったのか。それとも心から願ったのか。
遠くの地で甚大な被害があっても、自分はそれほどでもなかったから、忘れてしまえばそれまでなのか。
世の中に対してよりも、自分に対しても問いかけたい。

あのとき自分は何を書いただろう。
今、大袈裟といわれようとも、綺麗事といわれようとも、この本に書かれていたようなことを、たまには書こうとおもった。

そんな一冊でした。

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2018年7月27日 (金)

お腹が空かない

この10年くらいで、味覚・臭覚・視覚・聴覚が明らかに衰えた。加齢というものだろう。

子供の頃から、自分でも困っている身体の癖のようなものがある。それは衰えない。
美味しいとおもって食べた後に体調を崩すことがある。何が原因なのか、だいたいの見当はついているのですが正確には分からない。アレルギーと呼ぶべきものなのか消化器系の不具合なのか、それも分からない。とにかく、著しく体調を崩すことがある。

口で美味しいと思っても、一時間後に後悔することがある。同じようなものを食べても飲んでも全く問題ないこともある。食べ合わせもあるのかも。

美味しくて体調崩さないものを食べたときは、何故か長時間お腹が空かない。時には、次の日も空腹感がやってこないことがある。
うーにーと旅行をしていたときは、そんな経験を時々していた。うーにーが居なくなってからは、そのようなことが少なくなった。

 

しかし先日、そんなことがあったので、備忘録的な意味も含めて書いておく。

何年か振りに、犬友達あり猫友達でもある人のお宅にお邪魔することになった。うーにーが若かった頃からの付き合い。その人は、そう遠くない将来、飲食店を開く予定らしい。折角の機会なのでお昼をご馳走になることに。

ご馳走になったものはこんな感じ(分かり難い写真ですみません)。

20180726_1  20180726_2

20180726_3  20180726_5

20180726_4ビシソワーズに見えるのは桃のスープ。
デザートのケーキは、我が家の近所のお店(トロッコさん)のパウンドケーキ。
お店の人に「一本売りしてくれますか?」とお願いしたら「いいですけど、動物性のものを使っていないので三日くらいしかもたないです。日にちが経つと、植物性の油が酸化してにおいがしてくるようになってしまいます」とのこと。事前に冷凍で送っていただき、解凍後二日経っていただきましたが、そのようなことは全く感じませんでした。

車で伺ったので飲み物はノンアルコール。(簡単に言えば)炭酸入り葡萄ジュース。甘めなのですが、食事時に飲めました。「どこが扱っているんだろう」と裏を見たら、我が家の近所の会社(カルディ)。

 
美味しいし、体にすんなり入ってくるし、見た目も綺麗。色々な意味で「気持ちよく」いただけました。

食事全体として、量的に多いことはないし糖分多目とか脂が多いとかもない。気持ちよく身体に入って、ちゃんと吸収されたようです。
晩御飯の時間になってもお腹が空きませんでした。一緒に行った女房も同じコトを口にした。

 

お店が開店したら通いたいですが、近所ではないのが残念。

食事も美味しかったですが、ゴールデンと遊ばせてもらえたことも嬉しかった。開店したらお店にいつもゴールデンが居てほしいとおもいますが、それは難しいかな。

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2018年7月16日 (月)

ちょっとした勉強会

今回も備忘録的なブログ。
分かる人にしか分からない内容だし。

 

とある週末、お泊りでフードをメインとするペットビジネスの勉強会に参加してきました。生体は全く扱わない世界ではありますが、フードが関わりますので生体(一般飼い犬・飼い猫、保護されている犬や猫)への配慮・援助ということも含まれる。

私的なものであったので、具体的なケースで話が進み、その内容はここには書けません。
ここに書けることは、私が「やっぱり、そうなんだ。今の飼い主さんは、ある意味大変だな」と感じたことを書いておく。

 

うーにーが我が家にやってきたのは、1994年。高温の夏が当たり前になり始めた頃で、エアコンの室外機が高温で止まってしまい、一人暮らしの高齢者が亡くなったことが問題になった年でした。
次の年には、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件。1994年に埼玉愛犬家連続殺人事件。この頃、大阪の自称訓練士が殺人事件もありました。
今ととなっては「とっても昔」の話で、2000年の動愛法改正以降に、ペットについて興味を持った人たちの中には知らない・感覚的に理解出来ない人たちも少なくないだろう時代です。

ちなみに、ドッグ・カフェという言葉はありませんでした。ドッグ・ランは「欧米にはそんなものがある」程度で、東京都や23の各区が管理している公園にそのようなものが設置されることは「有り得ない」とおもうような時代でもあり、夜な夜なノーリード集会が隠れて(?)行われ、「前回の咬傷事故がいつで、どんな人が関わっていた」等が公然の噂でした。

当時のドライフードといえば、日本に昔からある加工食品メーカーが直接か、その関連会社が作っていたり、輸入代理店になっていたり。また、獣医さんが療法食として扱っているメーカーのもの、ショーをやっている人たちが使っていたもの、などが輸入されていました。
私の記憶では「プレミアム・フード」という言葉はなかったと思います。一般飼い主が入手し易かった「良い」と言われるフードは「ショードッグ用のフード」などと呼ばれるようなことが多かったと思います。

(一般の人が気軽に手に入れることが出来る)ショードッグ用のものも数が非常に限られていて、中には「私は絶対に使いたくない」とおもうようなものも「良いフード」をされていました。しかし、そのフードはある程度の数の人に支持されて有名になっていたことも事実です。つまり、イメージ戦略、ブランド戦略が成功していたのです。

その後、植物性のものをメインにしたものや「ここまで考えているのか!」とおもったり、「アメリカにはペット・フードの法律があり、守らないと大騒ぎになるのか」と関心したりしたものでした。

そして「手作り」や「生食」の情報も広がってきました。
その頃の日本は、Windows3.1 から Windows95 への移行時で、インターネットインフラが整いつつある時代でしたが、まだまだ一般的ではありませんでした。ADSLのサービス開始は1999年と言われていますが、普及が始まり「ブロードバンド元年」と言われているのは、2001年です(Windows Me)。

それ以前のことですから、マスコミ媒体としては数少ない雑誌、それ以外は口コミが情報入手の主な手段だったと記憶しています。なので、ブランド戦略はし易かったとおもいます。
当時も「みんな、もう少し考えてみようよ」と感じることがしばしばありました。

 

現在、2018年。様々な情報が手にはいります。「あのペットフードは本当にいいの?」と思えば、色々な情報がインターネットを経由して入手できます。もちろん発信する側にもなり得ます。
そのような時代なので、イメージ戦略、ブランド戦略は難しいだろうとおもっていました。

今回の勉強会は、ちょっとした衝撃でした。戦略を仕掛ける側の手法も高度になっていました。また力の入れ方も昔とは違うと感じました。

現在、プレミアム・フードと呼ばれるものは多種多様あります。となると、どれか一つのフードに目をつけ、「これ、うちの子に良いかな?」とネットで調べた結果、著しくネガティブな情報がなければ「とりあえず使ってみよう」となります。しかし、身体はそれぞれ違うので、同じフードを食べても同じような変化が期待できるとは限りません。そうなったときは次を探せばいいのです。

以上は「買う側」の話ですが、次は「売る側」の話。

前の方で書きましたが、1990年代中盤くらいまでのペットフード業界は規模も限られていました。また(ペット関連に限らず)広告戦略も今とは違って紙媒体がメインでした(ペット関係は電波媒体はほとんど使っていなかったとおもいます)。戦略といっても分かり易かった時代です。

ちなみに、消費者金融会社のCMにチワワが採用されて、小型犬ブームに拍車がかかるきっかけとなったのは、2002年です。ちょうど、ブロードバンドの普及が顕著になった頃になります。そしてよく「ペット産業は、既に一兆円産業になった」などと言われてことも記憶しています。

それから15年以上経った現在の販売戦略は(ペットフードに限らず)、とても多種多様な媒体、高度な手法、戦略が行われるようになりました。ペット・フードに関しては、昔は(産業として)力を入れて広告を打つほどの部類には入らなかったのですが、現在のように多くのフードが販売されて、多くの人がペットと暮らす世の中となっている現在、売る側も苦労が絶えないだろうことは容易に想像できます。

そんな現在の販売事情はどうなのか?
まず、他の主な産業と同じビジネス形態がとられてことに驚きました。フードメーカーや海外フードの輸入販売権が投資の対象にもなるようです。販売戦略は、やはりまずイメージ・ブランドの確立、販売網の整備と、日本における主な産業と全く同じ手法が取られているようです。

具体的な話を聞いていると、耳を疑い、目は白黒してしまいました。それくらい 1990年代との違いを感じました。

 

そこで感じたことは(ペットフードに限りませんが)それら情報を安易に信じ、それが(自分が得られる)最高のものだと思い込んでしまうことに危険はないのだろうか、と疑問をもってしまいます。
送られてくる情報が力強いものであれば(しかも多方面から同様の情報が入れば)そのように思い込んでしまうことは、当然のことだとおもいます。

このような情報に惑わされたとしても、フードを購入する側が危険な立場にさらされることは、ほとんどないでしょう。(現在、日本にもペット(犬猫に限りますが)フードに関するがありますので。)あるとしたら、「実は割高なフードだった(自分がおもっていたほどの効果が得られなかった)」「ちょっと体調が悪くなったような気がする」くらいで、ペットに著しい健康被害が出るようなことは、ほとんどないのではとおもっています。なので、「人間の食べ物も疑問をもつこといっぱいあるくらいだから、この程度ならいいんじゃない?」とおもってしまいます。

しかし、壁ではなく卵の立場を伝えてゆきたい人間としては、「ペットのためによりよいフードや日用品を」と(ビジネス目線ではなく)飼い主目線で、情報を提供してくれる人たちの声がもっと届いてもいいのではないか、とおもうことが多々ありました。
それくらい資本を注ぎ込んだ情報が出回っていることを感じています。

 

食べ物のこと、日常使うもののこと。それらのことを考える時間を、もっともってもいいのではないかと、いつも思ってところに行き着いてしまった。

皆さんには、こんなことを考えてほしい。

「カロリー」や「糖分」「脂肪分」などを気にされる方は少なくないとおもう(自分、家族、ペットに限らず)。
その理由は、肥満であったり血管内にへばりついてしまうものだったり、色々あるとおもいます。
ほとんどの理論展開は、これらの入口と結果です。「表示されているカロリーがこの数字だから肥満になってしまう」など。

同じものを同じ量食べたら、同じだけカロリーが摂取され吸収されるのだろうか。つまり個人差、個体差の問題です。
そもそも食品に表示されているカロリーの計り方は、摂取を前提として計られるものなのか調べてほしい。お時間ある方は、他の数値についても調べていただけたらとおもう。

更にお時間のある方は、「栄養素」や「治療薬の基本成分」についても同様の視点で調べてほしい。簡単に言えば、サプリメントの効果は人によって違うし、薬の効果もそうだし、副作用も。
食品について、そのような視点でみることに、皆さんがもう少し力を入れてもいいのではないかと常々感じている。

つまり、入口と結果だけでなく、真ん中の「摂取」にも注目し理解し考慮してほしいのです。これは、個人差、個体差があるので広告に載せるのが困難な情報です。インターネットで他の人が書いていることが、自分には、自分が共に暮らすペットには、当てはまらないだろうとこでもあります。

医療行為についても同様のことが言えます。同じ検査結果でも症状が違ったり、同じ治療でも効果が違ったり。この部分を担当するのが、医師や獣医師の「診たて」になるとおもいますが、多種多様な検査が可能になった現在は、その能力をしっかりともっている先生が少なくなってきていると感じます。
そのことについても、皆さんがもう少し力を入れてもいいのではないかとおもうことあります。

 

ペットの日常を考えてあげるとき、自分自身の日常を考えるとき、身近な人のことを考えてあげるとき、そのようなことを考えてあげる時間をとってほしいと、心から願ってやみません。

10個一パックの卵も、よく見れば一つ一つ違う形をしています。人間を含めた生き物は、規格化できないものだと、私は信じ続けていたいのです。

 

100年後くらいには人間も遺伝子操作されて規格化されるかもしれませんが、そのとき、私は生きていないことが、私にとっての救いです。
その世界は、人間が人間により管理される(現在でいうところの)家畜であるか、AIにより管理される家畜ということになるような気がし、その世界を見たくないのです。

自分は世界に一人の自分であり、共に暮らす人間の家族もペットも世界に一つの存在だとして暮らすことが、幸せな日常の基礎だとおもいます。

 

そんなことを再確認した勉強会でした。

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2018年7月14日 (土)

ラブ ゼネレーション(読書感想文) その3

前回からの続きですが、今回は、書籍とはほとんど関係ないこと。

マスコミとは、マス・コミュニケーションの略であるから、「大衆とのコミュニケーション」だと思うのですが、「大衆への情報伝達」の方がしっくりくるだろう。
昔であれば、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などを使って不特定多数の人に同時に情報を伝達することであり、その情報を元に人々はコミュニケーションをとっていた。

インターネットが日常に根付いた現在、マスコミの伝達手段の一つにインターネットが入ることは確かではあるが、「不特定多数の人に対して同時に」ではないようなものが増えてきた。
また、受け手であった個人が、不特定多数の人に情報を発信できる世の中になってきた。

そのように、情報が交錯、氾濫している現在、情報がビジネスになるのは当然のことで、多くの人が求める情報には価値が生まれる。どのような情報を世の中の人が求めるかといえば、「明るい」、「前向きな」情報だろう。または、「押しが強かったり」、「過激な」、「刺激的な」情報も人は得ようとする。

情報だけではなくエンターテイメントもそうだ。音楽、テレビドラマや舞台、デザインなどもその傾向がある。

 

そのようなものは面白いかもしれない。刺激的なものを観ればワクワクするかもしれない。しかしそれが現実的なものではないとおもったとき、私は落胆する。ほとんどの人が現実的だと信じることが出来たとしても、私自身はそう感じることが出来ないとき残念な気持ちになる。

現実の個人個人は、そんなに強くないし格好よくない。私はそうおもってしまう。とても弱くどこか不恰好な部分を持っている人がほとんどだとおもう。
そんなことを伝え続けてきた早川さんが、皆の前で歌わなくなってしまったことが残念でならない。

 

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このブログを書く直前に、二冊のラブゼネレーションを図書館に返しに行った。そのとき、何気なく図書館内をうろうろしていたら、村上春樹の「雑文章」をいう本を手に取り、目次の「壁と卵」という文字が気になり読んでみた。
エルサレム賞という社会的・政治的に微妙な地域の賞を受賞したときのスピーチ。その中で村上さんがコアにしたのは、次のような一文でした。

=============
「高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ」
=============

上記の文章は、こちらのページからコピーさせていただきました。なので書籍とは表現が違うかもしれませんが、私の記憶の限りでは同じだっとおもいます。

 

早川さんは「高くて硬い壁」どころか、自分が暮らしている町の誰か個人にさえ劣等感を抱いてしまうような感じではありますが、「壁にぶつかって割れてしまう卵」が如きであると認めていることは確かだろう。

再び、上記リンクを張ったページからのコピーですが、こんな文章もあります。

=============
皆、薄くてもろい殻に覆われた、たった一つのかけがえのない魂(たましい)である、と。
=============

 

さて、本題です。

私は、犬や猫など身近な動物との幸せな暮らしを送るためには何が必要だろうか。今の世の中に何が足りなのだろか、と考えることがあります。
そもそも、各個人の「身近な動物との幸せな暮らし」とはどのようなものなのか。インターネットが普及し、個人が不特定多数に情報を提供できるようになった現在、それはある程度のモデルが存在するようにおもえる。犬であればこんな感じ、猫であれなこんな感じ、と。

しかし、よくよく話を聞いてみると「こんな感じ」には、だいぶ幅がある。実際の行動だけでなく、根本的な考えにも随分と幅がある。「子供の頃からこのように(犬や猫と)接してきた」その接し方が現在では犯罪になることもありますが、法律のことを知らずに昔ながらの接し方をしている人もいる。法律のことは知らなくても、「世の中が変わってきて、自分の感覚(接し方)が非難されることがある」と感じ始めている人もいる。
(犬や猫に)色々なことをしてあげたいとおもっていても、時間的な制約などでそれをしてあげられないので理想的な関係が築けず、ジレンマを感じている人もいる。

情報が氾濫していると言われているこの現代に、このような人たちが多々存在する。30年前に比べれば、とても高度な情報が簡単に手に入る現在でも。
どれほど高度な情報であっても、個人が積み上げた知識・経験から得た各自の感覚と、現在の社会が「正解」としたスタイルとの溝を埋めることは容易ではない。人によっては「不可能」と言ってもいいだろう。

こんなことを日頃感じている私は、村上春樹の「皆、薄くてもろい殻に覆われた、たった一つのかけがえのない魂(たましい)である」に共感を覚えた。

またこのスピーチの中には、以下のような内容もあった。これも上記のリンク先からコピペさせていただきました。

=============
何が正しくて何が間違っているか、何かがそれを決めなければならないとしても、それはおそらく時間とか歴史とかいった類のものです。
=============

長年、犬や猫との暮らしについて調べたり考えたりしていると、このようなことを実感します。20年前、30年前、50年前の日本のことを思い浮かべてほしい。さらに、その日本の中の色々な地域のことを思い浮かべてほしい。
犬や猫との付き合い方は、とても変わってきています。しかし、誰が何をもって「これが正しい付き合い方」と断言できるのでしょうか。法律で色々定めて方向性を示していますが、違和感・反感を抱いている人もいる。

何が正しいかと決めるのは、「時間とか歴史とかいった類のもの」であると、私もおもいます。今は正にその判断を待っている最中なのだと。

 

「犬とゆく」や「人のため、犬のため」がやるべきことの一つに、そんな混沌とした時代でも、より多くの人が幸せが実感できる、犬や猫との暮らしを目指すための情報を提供してゆくことなんだろう。

ときどき、「あなたははっきりと答えを書かない!」とお叱りモードで助言を頂戴することがありますが、私は「何が正しいか」を書きたくありません。「今はこうですよ、こんな人もいますが、全く逆の人もいます。この日本の中で、各自その人の人生の中で自然に身についた感覚は違うのです。そんな色々な人がいるのが今の日本です」と伝えるのが、私の役目だとおもっています。

壁は誰でも見えますから伝える必要もないでしょう。日々消費されてゆく数多くの卵の中から、私が出会った卵のことを、これからも伝えてゆきたいとおもいます。

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コピペさせていただいたページは以下。
(ブログ名)青山の昼と千駄木の夜 ~Indiana(インディアナ)暮らし編
(ページ名)『【全文版】卵と壁 ~村上春樹氏 エルサレム賞受賞式典スピーチ』
(URL) https://ameblo.jp/fwic7889/entry-10210795708.html

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2018年7月12日 (木)

ラブ ゼネレーション(読書感想文) その2

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前回からのつづき。

2011年版の「ラブ・ゼネレーション」が図書館にあることを確認した後、「ちなみに、おいくら?」と調べてみた。なんと 2,700円!(文庫ではありませんでした)

図書館で予約をし、数日後、取りに行く。
何が変わっているのか。まず装丁が違う(当たり前?)。表紙の裏にも絵があったり文章があったり。
本文的には、7つのエッセイと写真が何枚かが追加されている。

 

まず、エッセイについて。
1992年版の印象は、アーティストとして歌とどのように向き合っているか、が主に書いてありましたが、2011年版で追加されたもののほとんどは、一人の人間としての考え方や感じ方が書かれている。

 

前半に加わった三章は、やはり音楽を仕事をしていることの苦悩がかかれている。

タイトルからしてそれが伝わる「僕には道楽などないとおもったらあったのですね -- JACKS解散理由 --」。

「あぶない音楽」では、デモや教育、冷戦について書かれている。
デモで女の子が機動隊に殴り殺されても報道されない。男の子が護送車から逃げようとして負った怪我が原因で骨での帰宅となったこともあった。
それについて感じること、考えることについて「僕の歌いたいことはちっちゃなちっちゃな、そう個人的なことなの。だから個性的なのよ。」と書いている。
最後には「原爆や水爆のふしぎな平和の中で、自分ひとりだけの美しさをみがいていくことはステキなんです。」と結ぶ。

続いて「ラブ・ゼネレーションにおいての序章」。
当時20代前半だった早川さん。子供の頃から大人に失望していたし、教育が目指すところも無理があることを感じ、失望さえ感じていたようだ。
しかし大人になっている自分。「どうしたらいいのか?」と考える。最後の一文は「まずは一つ一つの色は違う点になって出発を探そう。」で終わる。

 

中盤に一つだけ加わっている、「垂直的人間」。
商品、作品が作られ売られることについて書いている。少々長いが(おもわず「そうおもいます」と感じたところを)引用する。
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 病気をなおすことが目的なのではなく、問題は、その医者を信じるか信じないかの問題であり、知識を得るためだけに教師につくのではなく、その教師を信じられるか信じられないかが先であり、金のためにその会社に行っているのではなく、その会社及び社長を信じるか信じないかの問題である。
 その上で、金をふんだくったりふんだくられたりするのが望ましいのであって、いいとも悪いとも思わずモクモクと物品や金が動くのは、まるでゆうれいだ。
===============

私にとって一部意味不明なところもありますが、大筋では「信じるとか信じないとか考えずに(短絡的に)お世話になったりするから、妙な流れになり、時にはとんでもない結果になる」と、とても同感した。

 

終盤。本屋さんになってからの生活の中で。

「日陰者の一日」は、本屋さんの従業員としての一日と、奥さんのこと。人によっては「なんでこんなこと書くの?」とおもうかもしれないが、私は「そういうことが気になること、分かる」と妙な同感。

「里望君と長さん」の中で「僕は今、おつきあいしている友達が二人しかいないけれど、全然寂しくなんかない。」と書いている。ご近所の男性たちと休日を楽しんでいる。
下ネタを言い合うような仲ではあるが、「僕たちは、けっこう礼儀正しい。」とも書いている。この辺りも妙な同感。

「奥床しさについて」は、タイトルを読んでドキッとした。私は「おくゆかしさ」がこのように書くことを知らなかった。今となっては使う機会がなくなってきた言葉なのかも。
内容は、歩いていたら交番まで連れて行かれたときの話、お店に私服警官が来たときの話、お店にファンと思われる女のヒトが訪ねてきたときの話、音楽仲間が病院を探している電話を架けてきたとおもったら実はレコードを買ってほしいといい始める話。
他愛もない話の羅列。「もう少し、こちらの気持ちも分かってよ」と書きたいのだろう。何を伝えたいのか分かり難い。しかし、私も「こういうこと、書いておきたい」とも思う。
「奥床しさ」を皆がもてば、多くの人が生きやすい世の中になるだろうな、とおもった。

 

比較的後ろの方に、写真が何枚か。
音楽を仕事にしていたときの写真、ポスターやチケットも。当時の自宅近くで中川五郎さんと奥さん、お嬢さんの写真。本屋さんを開業し、その店内で猫を抱いている写真など。

本の中で、自分の見た目にコンプレックスを抱いていることを感じさせる文章が何度か出てきますが、写真の中にもそれを感じる。

 

早川さんの音楽や著書に共感を覚えるのは、そのコンプレックスかもしれない。
私も身長が低い。吊り下げの服ではぶかぶかである。立派な体格な人どころか、吊り下げの服を着ることが出来る人にさえ嫉妬をする。しかし「その分、頑張ろう」とは思わない。静かに、奥床しく暮らせればいいとおもっている。

私のコンプレックスは「見た目」ですが、人間誰しも何かしらのコンプレックスを持っているとおもう。それを克服し、頑張って生きている人もいるだろう。マスコミに書かれる文章の多くは、そのような人たちのもので、ときどき「こんなに頑張って疲れないのかな」と思ってしまうこともある。また「自分みたいに頑張らない人間はイケナイ人なのかな」とおもってしまうこともある。

そんなことを表現し続ける早川さんが魅力的に感じる。高度な演奏やとてもユニークな音楽的発想をウリとしない。大事にすることは「伝えること」。

犬との生活を長年考えている私にとって、この「伝えること」はとても大事にしている。そこが私にとって魅力的に感じるのかもしれない。

 

早川さんの作品とは関係なしに、書いておきたいことがあるので、つづく

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2018年7月11日 (水)

ラブ ゼネレーション(読書感想文) その1

犬猫関係ではありません。音楽関係ですが、今の音楽業界からかけ離れているエッセイです。昭和40年代に出版されて絶版になり、平成に入り再出版される。(たぶんこの本も絶版されていて、平成23年に別の出版社から改めて出版されている。)

これも備忘録的なブログ。

 

著者は早川義夫さん。
東京オリンピック直後の日本で数年活動し、惜しまれながらも音楽の世界から完全に離れてゆく。この本は、活躍した時期と音楽の仕事から離れる頃にかかれたものがメインとなっている。
平成に入りこの本が出版(シンコー・ミュージック)されて、その2年後に音楽活動を再開する。休止期間は23年だそうだ。
そんな早川さんが、先日こんなことを Twitter に書いていた。

==========(2018年)
5/20(日)鎌倉歐林洞のライブを最後にしばらく休みます。再び歌い始めて25年ありがとうございました。
==============

音楽業界のルールに疑問を持ち続け、しっかりと声を出し続けた忌野さんが亡くなったときもショックでしたが、音楽業界にほとんど関わらず活動を続けてきた早川さんの活動休止は、私にとっては同じくらいショックでした。
ちなみに、早川さんの曲のほとんどは(他のアーティストが歌っているものは、そのバージョンがありますが)カラオケにありません。歌詞がネットに載っていることもあまりありません。

彼は 1972年、ある曲で多くの人に知られるようになりますが、別のグループが歌いヒットし、その後多くのアーティストがカバーすることになります。しかし、その歌い始めたグループが歌うにあたり、早川さんに対し何の話もなかったようです。(井上陽水さんの「陽水生誕」が発売された3年前のこと。そんな時代だったようです。)
(ちなみに、1972年には完全に音楽の世界とは離れ、本屋さんを営みはじめる。)
早川さんは、著作権などややこしい権利などについては深く考えることなく、「歌いたいこと伝えたいことがあるから歌う」というスタンスでやってきました。
復活後も(テレビに出たこともあるようですが)大きなホールで行うことも少なく、一人ひとりに言葉が届くような小さなライブハウスで歌い続けていました。

復活してから一緒に活動してた相棒的な存在の人が 2014年に亡くなり、その後も続けてくださるだろうと願っていましたが、ついに活動休止されてしまいました。

そのようなことがあり、この本を読んでみようとおもいました。図書館で探したら見つかりました。

 

20180707読んでみました。はっきり書いてしまえば、ほとんどの部分は酷いです。色々な意味で酷いです。読むのが疲れるし、「実名書いてこんなこと書いていいの?」とおもう内容ばかり。

今の世の中で好まれる表現は「ポジティブ」で包んで輝かせる感じですが、この本は「包み隠さず」。「私はこうおもっています・感じています」の羅列。
音楽で仕事をする人間というより、人に感動してもらうものを作る人間としての苦悩。神様が与えてくれた特殊能力があるとか、すごく知識があるとかではなく、ただただ「伝えたいことがある」だけで活動している人の苦悩という感じ。

ビートルズが好きだけど、ビートルズのことはよく知らないという。知り過ぎることが怖かったようです。常に自分が完全なる自分であり続けることが、この仕事をする人間の条件のように考えていたようです。

しかし、最後はおもわぬどんでん返し。人間とは、生きてゆくとは、こういうもんだよなとおもった。

 

再出版されるにあたり、中川五郎さんが書いた解説を含めると全222ページ。
最終的な部分、苦悩から開放されてゆく頃のことが書かれている部分についてメモしておきます。

185ページから始まる「棄てるものがあるうちはいい」の冒頭は「しばらく、歌仲間とも離れ、」で始まる。音楽活動を休止し始めた頃。
次の「いろいろなこと」(189ページ)の冒頭は「考えてみれば、もう二〇ヵ月も続けてきたわけで、そろそろ終わろうと思う。」で始まる。他の人のことも書いていますが、自分のことが書かれている部分が多くなる。
その章の最後は、誰かの歌の引用なのか、自分の歌の引用なのか。それともこのとき書かれたものなのか、以下の5行がある

=============
あげるんじゃなくて、すてるんだね
もらうんじゃなくて、ひろうんだね

恋もお金も身体も心も

あげるんじゃなくて、すてるんだね
もらうんじゃなくて、奪うんだね
=============

次の章は「強姦論」。今の世の中だったら出版できないのではと思われる内容も含まれている。
この後、「卒業について」「父離れ」は、全く自分のことを語っている。どれだけダメな人間かを語っているようにも読めるし、人間誰でもダメな部分をもっているんじゃないのか、と問いかけているようにも読める。
子供の頃の環境は色々だ。でも、同じ環境に置かれても誰も同じように感じ・育つわけではない。そんなことも感じた。

 

本編はここで終わる。
続いて「作品歴」があり、昭和四十七年に書かれた「あとがき」、平成四年に書かれた「文庫版あとがき」が続き、最後に「解説」を中川五郎さんが書いている。

中川五郎さんの文章の最後には、早川さんが再び歌い始めることを期待している。そしてその二年後、1994年(我が家にうーにーが来た年)にソニーからCDが発売される。

うーにーの関係で知り合った人が、早川さんと仕事をすることになり、早川さんを知る。その人が興奮気味に話をしていたことをよく覚えている。そして、初めて聴いたとき「この音楽の何処が魅力的なのかよく分からん」と思ったこともよく覚えている。当時は、CDが100万枚売れることが珍しくなかった時代で、きらびやかな音楽が溢れていた。そんな音楽とは全く異質だった。

 

ここまで読んでくださった方の中には、早川義夫という人を知らない人も多いとおもう。
こんな曲を作った人ですと書けば、「へ~」と思い出してくださる人もいるかも。

サルビアの花

天使の遺言
作詞を担当した森雪之丞さんのNoteはこちら

 

見返りやその後の義理のことを考えて、「あげたり・もらったり」するのではなく、自分の意志で、感情で、「すてたり、奪う」感覚でやり取りした方が、お互いの関係がより確かなものになってゆく。
それは、早川さんを教えてくださった人からも、うーにーからも教わったような気がする。

 

ここまで書いて、平成23年に別の出版社から発売されたものを調べてみた。
あったのですが金額にビックリ!、エッセイの追加と写真が加わっているらしい。
念のため、図書館にあるか調べてみる。あれ?、あった!!

借りて読んでみます。

なので 「つづく」(笑)

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