2018年7月27日 (金)

お腹が空かない

この10年くらいで、味覚・臭覚・視覚・聴覚が明らかに衰えた。加齢というものだろう。

子供の頃から、自分でも困っている身体の癖のようなものがある。それは衰えない。
美味しいとおもって食べた後に体調を崩すことがある。何が原因なのか、だいたいの見当はついているのですが正確には分からない。アレルギーと呼ぶべきものなのか消化器系の不具合なのか、それも分からない。とにかく、著しく体調を崩すことがある。

口で美味しいと思っても、一時間後に後悔することがある。同じようなものを食べても飲んでも全く問題ないこともある。食べ合わせもあるのかも。

美味しくて体調崩さないものを食べたときは、何故か長時間お腹が空かない。時には、次の日も空腹感がやってこないことがある。
うーにーと旅行をしていたときは、そんな経験を時々していた。うーにーが居なくなってからは、そのようなことが少なくなった。

 

しかし先日、そんなことがあったので、備忘録的な意味も含めて書いておく。

何年か振りに、犬友達あり猫友達でもある人のお宅にお邪魔することになった。うーにーが若かった頃からの付き合い。その人は、そう遠くない将来、飲食店を開く予定らしい。折角の機会なのでお昼をご馳走になることに。

ご馳走になったものはこんな感じ(分かり難い写真ですみません)。

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20180726_4ビシソワーズに見えるのは桃のスープ。
デザートのケーキは、我が家の近所のお店(トロッコさん)のパウンドケーキ。
お店の人に「一本売りしてくれますか?」とお願いしたら「いいですけど、動物性のものを使っていないので三日くらいしかもたないです。日にちが経つと、植物性の油が酸化してにおいがしてくるようになってしまいます」とのこと。事前に冷凍で送っていただき、解凍後二日経っていただきましたが、そのようなことは全く感じませんでした。

車で伺ったので飲み物はノンアルコール。(簡単に言えば)炭酸入り葡萄ジュース。甘めなのですが、食事時に飲めました。「どこが扱っているんだろう」と裏を見たら、我が家の近所の会社(カルディ)。

 
美味しいし、体にすんなり入ってくるし、見た目も綺麗。色々な意味で「気持ちよく」いただけました。

食事全体として、量的に多いことはないし糖分多目とか脂が多いとかもない。気持ちよく身体に入って、ちゃんと吸収されたようです。
晩御飯の時間になってもお腹が空きませんでした。一緒に行った女房も同じコトを口にした。

 

お店が開店したら通いたいですが、近所ではないのが残念。

食事も美味しかったですが、ゴールデンと遊ばせてもらえたことも嬉しかった。開店したらお店にいつもゴールデンが居てほしいとおもいますが、それは難しいかな。

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2018年7月16日 (月)

ちょっとした勉強会

今回も備忘録的なブログ。
分かる人にしか分からない内容だし。

 

とある週末、お泊りでフードをメインとするペットビジネスの勉強会に参加してきました。生体は全く扱わない世界ではありますが、フードが関わりますので生体(一般飼い犬・飼い猫、保護されている犬や猫)への配慮・援助ということも含まれる。

私的なものであったので、具体的なケースで話が進み、その内容はここには書けません。
ここに書けることは、私が「やっぱり、そうなんだ。今の飼い主さんは、ある意味大変だな」と感じたことを書いておく。

 

うーにーが我が家にやってきたのは、1994年。高温の夏が当たり前になり始めた頃で、エアコンの室外機が高温で止まってしまい、一人暮らしの高齢者が亡くなったことが問題になった年でした。
次の年には、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件。1994年に埼玉愛犬家連続殺人事件。この頃、大阪の自称訓練士が殺人事件もありました。
今ととなっては「とっても昔」の話で、2000年の動愛法改正以降に、ペットについて興味を持った人たちの中には知らない・感覚的に理解出来ない人たちも少なくないだろう時代です。

ちなみに、ドッグ・カフェという言葉はありませんでした。ドッグ・ランは「欧米にはそんなものがある」程度で、東京都や23の各区が管理している公園にそのようなものが設置されることは「有り得ない」とおもうような時代でもあり、夜な夜なノーリード集会が隠れて(?)行われ、「前回の咬傷事故がいつで、どんな人が関わっていた」等が公然の噂でした。

当時のドライフードといえば、日本に昔からある加工食品メーカーが直接か、その関連会社が作っていたり、輸入代理店になっていたり。また、獣医さんが療法食として扱っているメーカーのもの、ショーをやっている人たちが使っていたもの、などが輸入されていました。
私の記憶では「プレミアム・フード」という言葉はなかったと思います。一般飼い主が入手し易かった「良い」と言われるフードは「ショードッグ用のフード」などと呼ばれるようなことが多かったと思います。

(一般の人が気軽に手に入れることが出来る)ショードッグ用のものも数が非常に限られていて、中には「私は絶対に使いたくない」とおもうようなものも「良いフード」をされていました。しかし、そのフードはある程度の数の人に支持されて有名になっていたことも事実です。つまり、イメージ戦略、ブランド戦略が成功していたのです。

その後、植物性のものをメインにしたものや「ここまで考えているのか!」とおもったり、「アメリカにはペット・フードの法律があり、守らないと大騒ぎになるのか」と関心したりしたものでした。

そして「手作り」や「生食」の情報も広がってきました。
その頃の日本は、Windows3.1 から Windows95 への移行時で、インターネットインフラが整いつつある時代でしたが、まだまだ一般的ではありませんでした。ADSLのサービス開始は1999年と言われていますが、普及が始まり「ブロードバンド元年」と言われているのは、2001年です(Windows Me)。

それ以前のことですから、マスコミ媒体としては数少ない雑誌、それ以外は口コミが情報入手の主な手段だったと記憶しています。なので、ブランド戦略はし易かったとおもいます。
当時も「みんな、もう少し考えてみようよ」と感じることがしばしばありました。

 

現在、2018年。様々な情報が手にはいります。「あのペットフードは本当にいいの?」と思えば、色々な情報がインターネットを経由して入手できます。もちろん発信する側にもなり得ます。
そのような時代なので、イメージ戦略、ブランド戦略は難しいだろうとおもっていました。

今回の勉強会は、ちょっとした衝撃でした。戦略を仕掛ける側の手法も高度になっていました。また力の入れ方も昔とは違うと感じました。

現在、プレミアム・フードと呼ばれるものは多種多様あります。となると、どれか一つのフードに目をつけ、「これ、うちの子に良いかな?」とネットで調べた結果、著しくネガティブな情報がなければ「とりあえず使ってみよう」となります。しかし、身体はそれぞれ違うので、同じフードを食べても同じような変化が期待できるとは限りません。そうなったときは次を探せばいいのです。

以上は「買う側」の話ですが、次は「売る側」の話。

前の方で書きましたが、1990年代中盤くらいまでのペットフード業界は規模も限られていました。また(ペット関連に限らず)広告戦略も今とは違って紙媒体がメインでした(ペット関係は電波媒体はほとんど使っていなかったとおもいます)。戦略といっても分かり易かった時代です。

ちなみに、消費者金融会社のCMにチワワが採用されて、小型犬ブームに拍車がかかるきっかけとなったのは、2002年です。ちょうど、ブロードバンドの普及が顕著になった頃になります。そしてよく「ペット産業は、既に一兆円産業になった」などと言われてことも記憶しています。

それから15年以上経った現在の販売戦略は(ペットフードに限らず)、とても多種多様な媒体、高度な手法、戦略が行われるようになりました。ペット・フードに関しては、昔は(産業として)力を入れて広告を打つほどの部類には入らなかったのですが、現在のように多くのフードが販売されて、多くの人がペットと暮らす世の中となっている現在、売る側も苦労が絶えないだろうことは容易に想像できます。

そんな現在の販売事情はどうなのか?
まず、他の主な産業と同じビジネス形態がとられてことに驚きました。フードメーカーや海外フードの輸入販売権が投資の対象にもなるようです。販売戦略は、やはりまずイメージ・ブランドの確立、販売網の整備と、日本における主な産業と全く同じ手法が取られているようです。

具体的な話を聞いていると、耳を疑い、目は白黒してしまいました。それくらい 1990年代との違いを感じました。

 

そこで感じたことは(ペットフードに限りませんが)それら情報を安易に信じ、それが(自分が得られる)最高のものだと思い込んでしまうことに危険はないのだろうか、と疑問をもってしまいます。
送られてくる情報が力強いものであれば(しかも多方面から同様の情報が入れば)そのように思い込んでしまうことは、当然のことだとおもいます。

このような情報に惑わされたとしても、フードを購入する側が危険な立場にさらされることは、ほとんどないでしょう。(現在、日本にもペット(犬猫に限りますが)フードに関するがありますので。)あるとしたら、「実は割高なフードだった(自分がおもっていたほどの効果が得られなかった)」「ちょっと体調が悪くなったような気がする」くらいで、ペットに著しい健康被害が出るようなことは、ほとんどないのではとおもっています。なので、「人間の食べ物も疑問をもつこといっぱいあるくらいだから、この程度ならいいんじゃない?」とおもってしまいます。

しかし、壁ではなく卵の立場を伝えてゆきたい人間としては、「ペットのためによりよいフードや日用品を」と(ビジネス目線ではなく)飼い主目線で、情報を提供してくれる人たちの声がもっと届いてもいいのではないか、とおもうことが多々ありました。
それくらい資本を注ぎ込んだ情報が出回っていることを感じています。

 

食べ物のこと、日常使うもののこと。それらのことを考える時間を、もっともってもいいのではないかと、いつも思ってところに行き着いてしまった。

皆さんには、こんなことを考えてほしい。

「カロリー」や「糖分」「脂肪分」などを気にされる方は少なくないとおもう(自分、家族、ペットに限らず)。
その理由は、肥満であったり血管内にへばりついてしまうものだったり、色々あるとおもいます。
ほとんどの理論展開は、これらの入口と結果です。「表示されているカロリーがこの数字だから肥満になってしまう」など。

同じものを同じ量食べたら、同じだけカロリーが摂取され吸収されるのだろうか。つまり個人差、個体差の問題です。
そもそも食品に表示されているカロリーの計り方は、摂取を前提として計られるものなのか調べてほしい。お時間ある方は、他の数値についても調べていただけたらとおもう。

更にお時間のある方は、「栄養素」や「治療薬の基本成分」についても同様の視点で調べてほしい。簡単に言えば、サプリメントの効果は人によって違うし、薬の効果もそうだし、副作用も。
食品について、そのような視点でみることに、皆さんがもう少し力を入れてもいいのではないかと常々感じている。

つまり、入口と結果だけでなく、真ん中の「摂取」にも注目し理解し考慮してほしいのです。これは、個人差、個体差があるので広告に載せるのが困難な情報です。インターネットで他の人が書いていることが、自分には、自分が共に暮らすペットには、当てはまらないだろうとこでもあります。

医療行為についても同様のことが言えます。同じ検査結果でも症状が違ったり、同じ治療でも効果が違ったり。この部分を担当するのが、医師や獣医師の「診たて」になるとおもいますが、多種多様な検査が可能になった現在は、その能力をしっかりともっている先生が少なくなってきていると感じます。
そのことについても、皆さんがもう少し力を入れてもいいのではないかとおもうことあります。

 

ペットの日常を考えてあげるとき、自分自身の日常を考えるとき、身近な人のことを考えてあげるとき、そのようなことを考えてあげる時間をとってほしいと、心から願ってやみません。

10個一パックの卵も、よく見れば一つ一つ違う形をしています。人間を含めた生き物は、規格化できないものだと、私は信じ続けていたいのです。

 

100年後くらいには人間も遺伝子操作されて規格化されるかもしれませんが、そのとき、私は生きていないことが、私にとっての救いです。
その世界は、人間が人間により管理される(現在でいうところの)家畜であるか、AIにより管理される家畜ということになるような気がし、その世界を見たくないのです。

自分は世界に一人の自分であり、共に暮らす人間の家族もペットも世界に一つの存在だとして暮らすことが、幸せな日常の基礎だとおもいます。

 

そんなことを再確認した勉強会でした。

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2018年7月14日 (土)

ラブ ゼネレーション(読書感想文) その3

前回からの続きですが、今回は、書籍とはほとんど関係ないこと。

マスコミとは、マス・コミュニケーションの略であるから、「大衆とのコミュニケーション」だと思うのですが、「大衆への情報伝達」の方がしっくりくるだろう。
昔であれば、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などを使って不特定多数の人に同時に情報を伝達することであり、その情報を元に人々はコミュニケーションをとっていた。

インターネットが日常に根付いた現在、マスコミの伝達手段の一つにインターネットが入ることは確かではあるが、「不特定多数の人に対して同時に」ではないようなものが増えてきた。
また、受け手であった個人が、不特定多数の人に情報を発信できる世の中になってきた。

そのように、情報が交錯、氾濫している現在、情報がビジネスになるのは当然のことで、多くの人が求める情報には価値が生まれる。どのような情報を世の中の人が求めるかといえば、「明るい」、「前向きな」情報だろう。または、「押しが強かったり」、「過激な」、「刺激的な」情報も人は得ようとする。

情報だけではなくエンターテイメントもそうだ。音楽、テレビドラマや舞台、デザインなどもその傾向がある。

 

そのようなものは面白いかもしれない。刺激的なものを観ればワクワクするかもしれない。しかしそれが現実的なものではないとおもったとき、私は落胆する。ほとんどの人が現実的だと信じることが出来たとしても、私自身はそう感じることが出来ないとき残念な気持ちになる。

現実の個人個人は、そんなに強くないし格好よくない。私はそうおもってしまう。とても弱くどこか不恰好な部分を持っている人がほとんどだとおもう。
そんなことを伝え続けてきた早川さんが、皆の前で歌わなくなってしまったことが残念でならない。

 

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このブログを書く直前に、二冊のラブゼネレーションを図書館に返しに行った。そのとき、何気なく図書館内をうろうろしていたら、村上春樹の「雑文章」をいう本を手に取り、目次の「壁と卵」という文字が気になり読んでみた。
エルサレム賞という社会的・政治的に微妙な地域の賞を受賞したときのスピーチ。その中で村上さんがコアにしたのは、次のような一文でした。

=============
「高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ」
=============

上記の文章は、こちらのページからコピーさせていただきました。なので書籍とは表現が違うかもしれませんが、私の記憶の限りでは同じだっとおもいます。

 

早川さんは「高くて硬い壁」どころか、自分が暮らしている町の誰か個人にさえ劣等感を抱いてしまうような感じではありますが、「壁にぶつかって割れてしまう卵」が如きであると認めていることは確かだろう。

再び、上記リンクを張ったページからのコピーですが、こんな文章もあります。

=============
皆、薄くてもろい殻に覆われた、たった一つのかけがえのない魂(たましい)である、と。
=============

 

さて、本題です。

私は、犬や猫など身近な動物との幸せな暮らしを送るためには何が必要だろうか。今の世の中に何が足りなのだろか、と考えることがあります。
そもそも、各個人の「身近な動物との幸せな暮らし」とはどのようなものなのか。インターネットが普及し、個人が不特定多数に情報を提供できるようになった現在、それはある程度のモデルが存在するようにおもえる。犬であればこんな感じ、猫であれなこんな感じ、と。

しかし、よくよく話を聞いてみると「こんな感じ」には、だいぶ幅がある。実際の行動だけでなく、根本的な考えにも随分と幅がある。「子供の頃からこのように(犬や猫と)接してきた」その接し方が現在では犯罪になることもありますが、法律のことを知らずに昔ながらの接し方をしている人もいる。法律のことは知らなくても、「世の中が変わってきて、自分の感覚(接し方)が非難されることがある」と感じ始めている人もいる。
(犬や猫に)色々なことをしてあげたいとおもっていても、時間的な制約などでそれをしてあげられないので理想的な関係が築けず、ジレンマを感じている人もいる。

情報が氾濫していると言われているこの現代に、このような人たちが多々存在する。30年前に比べれば、とても高度な情報が簡単に手に入る現在でも。
どれほど高度な情報であっても、個人が積み上げた知識・経験から得た各自の感覚と、現在の社会が「正解」としたスタイルとの溝を埋めることは容易ではない。人によっては「不可能」と言ってもいいだろう。

こんなことを日頃感じている私は、村上春樹の「皆、薄くてもろい殻に覆われた、たった一つのかけがえのない魂(たましい)である」に共感を覚えた。

またこのスピーチの中には、以下のような内容もあった。これも上記のリンク先からコピペさせていただきました。

=============
何が正しくて何が間違っているか、何かがそれを決めなければならないとしても、それはおそらく時間とか歴史とかいった類のものです。
=============

長年、犬や猫との暮らしについて調べたり考えたりしていると、このようなことを実感します。20年前、30年前、50年前の日本のことを思い浮かべてほしい。さらに、その日本の中の色々な地域のことを思い浮かべてほしい。
犬や猫との付き合い方は、とても変わってきています。しかし、誰が何をもって「これが正しい付き合い方」と断言できるのでしょうか。法律で色々定めて方向性を示していますが、違和感・反感を抱いている人もいる。

何が正しいかと決めるのは、「時間とか歴史とかいった類のもの」であると、私もおもいます。今は正にその判断を待っている最中なのだと。

 

「犬とゆく」や「人のため、犬のため」がやるべきことの一つに、そんな混沌とした時代でも、より多くの人が幸せが実感できる、犬や猫との暮らしを目指すための情報を提供してゆくことなんだろう。

ときどき、「あなたははっきりと答えを書かない!」とお叱りモードで助言を頂戴することがありますが、私は「何が正しいか」を書きたくありません。「今はこうですよ、こんな人もいますが、全く逆の人もいます。この日本の中で、各自その人の人生の中で自然に身についた感覚は違うのです。そんな色々な人がいるのが今の日本です」と伝えるのが、私の役目だとおもっています。

壁は誰でも見えますから伝える必要もないでしょう。日々消費されてゆく数多くの卵の中から、私が出会った卵のことを、これからも伝えてゆきたいとおもいます。

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コピペさせていただいたページは以下。
(ブログ名)青山の昼と千駄木の夜 ~Indiana(インディアナ)暮らし編
(ページ名)『【全文版】卵と壁 ~村上春樹氏 エルサレム賞受賞式典スピーチ』
(URL) https://ameblo.jp/fwic7889/entry-10210795708.html

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2018年7月12日 (木)

ラブ ゼネレーション(読書感想文) その2

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前回からのつづき。

2011年版の「ラブ・ゼネレーション」が図書館にあることを確認した後、「ちなみに、おいくら?」と調べてみた。なんと 2,700円!(文庫ではありませんでした)

図書館で予約をし、数日後、取りに行く。
何が変わっているのか。まず装丁が違う(当たり前?)。表紙の裏にも絵があったり文章があったり。
本文的には、7つのエッセイと写真が何枚かが追加されている。

 

まず、エッセイについて。
1992年版の印象は、アーティストとして歌とどのように向き合っているか、が主に書いてありましたが、2011年版で追加されたもののほとんどは、一人の人間としての考え方や感じ方が書かれている。

 

前半に加わった三章は、やはり音楽を仕事をしていることの苦悩がかかれている。

タイトルからしてそれが伝わる「僕には道楽などないとおもったらあったのですね -- JACKS解散理由 --」。

「あぶない音楽」では、デモや教育、冷戦について書かれている。
デモで女の子が機動隊に殴り殺されても報道されない。男の子が護送車から逃げようとして負った怪我が原因で骨での帰宅となったこともあった。
それについて感じること、考えることについて「僕の歌いたいことはちっちゃなちっちゃな、そう個人的なことなの。だから個性的なのよ。」と書いている。
最後には「原爆や水爆のふしぎな平和の中で、自分ひとりだけの美しさをみがいていくことはステキなんです。」と結ぶ。

続いて「ラブ・ゼネレーションにおいての序章」。
当時20代前半だった早川さん。子供の頃から大人に失望していたし、教育が目指すところも無理があることを感じ、失望さえ感じていたようだ。
しかし大人になっている自分。「どうしたらいいのか?」と考える。最後の一文は「まずは一つ一つの色は違う点になって出発を探そう。」で終わる。

 

中盤に一つだけ加わっている、「垂直的人間」。
商品、作品が作られ売られることについて書いている。少々長いが(おもわず「そうおもいます」と感じたところを)引用する。
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 病気をなおすことが目的なのではなく、問題は、その医者を信じるか信じないかの問題であり、知識を得るためだけに教師につくのではなく、その教師を信じられるか信じられないかが先であり、金のためにその会社に行っているのではなく、その会社及び社長を信じるか信じないかの問題である。
 その上で、金をふんだくったりふんだくられたりするのが望ましいのであって、いいとも悪いとも思わずモクモクと物品や金が動くのは、まるでゆうれいだ。
===============

私にとって一部意味不明なところもありますが、大筋では「信じるとか信じないとか考えずに(短絡的に)お世話になったりするから、妙な流れになり、時にはとんでもない結果になる」と、とても同感した。

 

終盤。本屋さんになってからの生活の中で。

「日陰者の一日」は、本屋さんの従業員としての一日と、奥さんのこと。人によっては「なんでこんなこと書くの?」とおもうかもしれないが、私は「そういうことが気になること、分かる」と妙な同感。

「里望君と長さん」の中で「僕は今、おつきあいしている友達が二人しかいないけれど、全然寂しくなんかない。」と書いている。ご近所の男性たちと休日を楽しんでいる。
下ネタを言い合うような仲ではあるが、「僕たちは、けっこう礼儀正しい。」とも書いている。この辺りも妙な同感。

「奥床しさについて」は、タイトルを読んでドキッとした。私は「おくゆかしさ」がこのように書くことを知らなかった。今となっては使う機会がなくなってきた言葉なのかも。
内容は、歩いていたら交番まで連れて行かれたときの話、お店に私服警官が来たときの話、お店にファンと思われる女のヒトが訪ねてきたときの話、音楽仲間が病院を探している電話を架けてきたとおもったら実はレコードを買ってほしいといい始める話。
他愛もない話の羅列。「もう少し、こちらの気持ちも分かってよ」と書きたいのだろう。何を伝えたいのか分かり難い。しかし、私も「こういうこと、書いておきたい」とも思う。
「奥床しさ」を皆がもてば、多くの人が生きやすい世の中になるだろうな、とおもった。

 

比較的後ろの方に、写真が何枚か。
音楽を仕事にしていたときの写真、ポスターやチケットも。当時の自宅近くで中川五郎さんと奥さん、お嬢さんの写真。本屋さんを開業し、その店内で猫を抱いている写真など。

本の中で、自分の見た目にコンプレックスを抱いていることを感じさせる文章が何度か出てきますが、写真の中にもそれを感じる。

 

早川さんの音楽や著書に共感を覚えるのは、そのコンプレックスかもしれない。
私も身長が低い。吊り下げの服ではぶかぶかである。立派な体格な人どころか、吊り下げの服を着ることが出来る人にさえ嫉妬をする。しかし「その分、頑張ろう」とは思わない。静かに、奥床しく暮らせればいいとおもっている。

私のコンプレックスは「見た目」ですが、人間誰しも何かしらのコンプレックスを持っているとおもう。それを克服し、頑張って生きている人もいるだろう。マスコミに書かれる文章の多くは、そのような人たちのもので、ときどき「こんなに頑張って疲れないのかな」と思ってしまうこともある。また「自分みたいに頑張らない人間はイケナイ人なのかな」とおもってしまうこともある。

そんなことを表現し続ける早川さんが魅力的に感じる。高度な演奏やとてもユニークな音楽的発想をウリとしない。大事にすることは「伝えること」。

犬との生活を長年考えている私にとって、この「伝えること」はとても大事にしている。そこが私にとって魅力的に感じるのかもしれない。

 

早川さんの作品とは関係なしに、書いておきたいことがあるので、つづく

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2018年7月11日 (水)

ラブ ゼネレーション(読書感想文) その1

犬猫関係ではありません。音楽関係ですが、今の音楽業界からかけ離れているエッセイです。昭和40年代に出版されて絶版になり、平成に入り再出版される。(たぶんこの本も絶版されていて、平成23年に別の出版社から改めて出版されている。)

これも備忘録的なブログ。

 

著者は早川義夫さん。
東京オリンピック直後の日本で数年活動し、惜しまれながらも音楽の世界から完全に離れてゆく。この本は、活躍した時期と音楽の仕事から離れる頃にかかれたものがメインとなっている。
平成に入りこの本が出版(シンコー・ミュージック)されて、その2年後に音楽活動を再開する。休止期間は23年だそうだ。
そんな早川さんが、先日こんなことを Twitter に書いていた。

==========(2018年)
5/20(日)鎌倉歐林洞のライブを最後にしばらく休みます。再び歌い始めて25年ありがとうございました。
==============

音楽業界のルールに疑問を持ち続け、しっかりと声を出し続けた忌野さんが亡くなったときもショックでしたが、音楽業界にほとんど関わらず活動を続けてきた早川さんの活動休止は、私にとっては同じくらいショックでした。
ちなみに、早川さんの曲のほとんどは(他のアーティストが歌っているものは、そのバージョンがありますが)カラオケにありません。歌詞がネットに載っていることもあまりありません。

彼は 1972年、ある曲で多くの人に知られるようになりますが、別のグループが歌いヒットし、その後多くのアーティストがカバーすることになります。しかし、その歌い始めたグループが歌うにあたり、早川さんに対し何の話もなかったようです。(井上陽水さんの「陽水生誕」が発売された3年前のこと。そんな時代だったようです。)
(ちなみに、1972年には完全に音楽の世界とは離れ、本屋さんを営みはじめる。)
早川さんは、著作権などややこしい権利などについては深く考えることなく、「歌いたいこと伝えたいことがあるから歌う」というスタンスでやってきました。
復活後も(テレビに出たこともあるようですが)大きなホールで行うことも少なく、一人ひとりに言葉が届くような小さなライブハウスで歌い続けていました。

復活してから一緒に活動してた相棒的な存在の人が 2014年に亡くなり、その後も続けてくださるだろうと願っていましたが、ついに活動休止されてしまいました。

そのようなことがあり、この本を読んでみようとおもいました。図書館で探したら見つかりました。

 

20180707読んでみました。はっきり書いてしまえば、ほとんどの部分は酷いです。色々な意味で酷いです。読むのが疲れるし、「実名書いてこんなこと書いていいの?」とおもう内容ばかり。

今の世の中で好まれる表現は「ポジティブ」で包んで輝かせる感じですが、この本は「包み隠さず」。「私はこうおもっています・感じています」の羅列。
音楽で仕事をする人間というより、人に感動してもらうものを作る人間としての苦悩。神様が与えてくれた特殊能力があるとか、すごく知識があるとかではなく、ただただ「伝えたいことがある」だけで活動している人の苦悩という感じ。

ビートルズが好きだけど、ビートルズのことはよく知らないという。知り過ぎることが怖かったようです。常に自分が完全なる自分であり続けることが、この仕事をする人間の条件のように考えていたようです。

しかし、最後はおもわぬどんでん返し。人間とは、生きてゆくとは、こういうもんだよなとおもった。

 

再出版されるにあたり、中川五郎さんが書いた解説を含めると全222ページ。
最終的な部分、苦悩から開放されてゆく頃のことが書かれている部分についてメモしておきます。

185ページから始まる「棄てるものがあるうちはいい」の冒頭は「しばらく、歌仲間とも離れ、」で始まる。音楽活動を休止し始めた頃。
次の「いろいろなこと」(189ページ)の冒頭は「考えてみれば、もう二〇ヵ月も続けてきたわけで、そろそろ終わろうと思う。」で始まる。他の人のことも書いていますが、自分のことが書かれている部分が多くなる。
その章の最後は、誰かの歌の引用なのか、自分の歌の引用なのか。それともこのとき書かれたものなのか、以下の5行がある

=============
あげるんじゃなくて、すてるんだね
もらうんじゃなくて、ひろうんだね

恋もお金も身体も心も

あげるんじゃなくて、すてるんだね
もらうんじゃなくて、奪うんだね
=============

次の章は「強姦論」。今の世の中だったら出版できないのではと思われる内容も含まれている。
この後、「卒業について」「父離れ」は、全く自分のことを語っている。どれだけダメな人間かを語っているようにも読めるし、人間誰でもダメな部分をもっているんじゃないのか、と問いかけているようにも読める。
子供の頃の環境は色々だ。でも、同じ環境に置かれても誰も同じように感じ・育つわけではない。そんなことも感じた。

 

本編はここで終わる。
続いて「作品歴」があり、昭和四十七年に書かれた「あとがき」、平成四年に書かれた「文庫版あとがき」が続き、最後に「解説」を中川五郎さんが書いている。

中川五郎さんの文章の最後には、早川さんが再び歌い始めることを期待している。そしてその二年後、1994年(我が家にうーにーが来た年)にソニーからCDが発売される。

うーにーの関係で知り合った人が、早川さんと仕事をすることになり、早川さんを知る。その人が興奮気味に話をしていたことをよく覚えている。そして、初めて聴いたとき「この音楽の何処が魅力的なのかよく分からん」と思ったこともよく覚えている。当時は、CDが100万枚売れることが珍しくなかった時代で、きらびやかな音楽が溢れていた。そんな音楽とは全く異質だった。

 

ここまで読んでくださった方の中には、早川義夫という人を知らない人も多いとおもう。
こんな曲を作った人ですと書けば、「へ~」と思い出してくださる人もいるかも。

サルビアの花

天使の遺言
作詞を担当した森雪之丞さんのNoteはこちら

 

見返りやその後の義理のことを考えて、「あげたり・もらったり」するのではなく、自分の意志で、感情で、「すてたり、奪う」感覚でやり取りした方が、お互いの関係がより確かなものになってゆく。
それは、早川さんを教えてくださった人からも、うーにーからも教わったような気がする。

 

ここまで書いて、平成23年に別の出版社から発売されたものを調べてみた。
あったのですが金額にビックリ!、エッセイの追加と写真が加わっているらしい。
念のため、図書館にあるか調べてみる。あれ?、あった!!

借りて読んでみます。

なので 「つづく」(笑)

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2018年6月 5日 (火)

Dr. Jeff に質問したかったこと

私は現在、シェルターに関わる活動も里親探しに関わる活動もしてないので、ジェフ先生の講演会を聴く価値がある人間なのか疑問におもっていた。聴いても実感が湧かないのではとおもっていた。

しかし聴いていて、「自分がおもっていることと同じだ。でも、日本でそんなこと言うと白い目で見られるんだよな~」と思い、同時に「でも、聴きに来ている人の多くは、ジェフ先生と同様の考え・感じ方なんだろうな。だから来ているんだろうな」と想像して聴いていた。
しかし前の書き込みで書いたように、必ずしもそうではない人がかなりの数いらしたようでした。

だからこそ質問したいことがあったのですが(質問時間は結構ありましたが)先生の考えを受け入れがたいと、私には聞こえる質問が相次ぎ、時間切れになってしまったことが残念でした。

 

改めて論点を書いておきます。

6月2日の話は私には以下のように聞こえました。
ノーキルを目指してしまうと、安楽死の必要があると多くの人言う状態の犬や猫を抱え込むことになり、活動が効率的に行えなくなることがある。その結果、シェルター内が不適切な状態になったり、運営姿勢に問題が出てきたりする。なので、総合的にみて安楽死を選択肢の一つに入れるべきである。選択するかどうかは、団体の状況により判断は変わってくるだろうとのことです。
また獣医師である彼は、個々の動物としっかりと向き合う(一頭一頭をしっかりケアする)ことが基本であり、重要であるとも語っていました。著しい苦痛を抱え回復の可能性もほぼない場合は安楽死を検討すべきだ、とのことです。

そのような姿勢で運営されているシェルターは、活動が安定して長続きし、シェルター内の環境も良いケースが多い。
この考えは、長年、世界中のシェルターを見てまわったり、運営に関わってきた結果。より多くの動物たちを救うには、このような考えを持つことが大切。

だいたいこんなことが主旨だったとおもいます。

それに対して、何人かの方が自分の体験談をしっかりと説明し、そして次のような質問をしていました。
どんなに(経済的、時間的など総合的に)コストがかかっても、目の前の命を救うことに常に前向きになるべきではないのか。

 

(私がしたかった質問)

動物愛護の歴史を振り返ると、まず「目の前の動物に対する気持ち」から始まり、しかしそのような活動は社会全体には受け入れられず、経済的な価値をはじめ社会全体の利益に繋がる、つまり社会貢献でもある活動だと明示することで、幅広い理解、そして支援を得られるようになったきたことをご存知の方も多いとおもいます。

今回の講演会、そしてジャパン・ツアー全体は、そのことの再確認と、気持ちから社会貢献への変革を起こす手法の具体的な提案だと、聴いていておもいました。

 

質問したいことは2つ。

1つめ。気持ちで続けている活動について。
そのような活動は、社会貢献としての活動へと必ずシフトするのが「理想」なのでしょうか。それとも、気持ちの活動と社会貢献の活動、両方が常に存在する社会も、先生のお考えの中では、一つの理想なのでしょうか。

2つめは、具体的は手法についてです。
先生の活動は、身近な動物をレスキューすることは、社会貢献になる活動であることを幅広い人たちに理解していただく必要があることを広め、その実践を手助けすることだと、お話を聞き理解しましたが、気持ちだけの活動ではなく社会貢献活動であると、考えを改めていただかなくてはなりませんが、その具体的な手法について教えてください。

今日のお話の中で一般的には「一つは教育。そして助成金など行政からの補助やアピール。もう一つは寄付などによる活動を通しての啓発」と理解しましたが、日本にいらして山崎さんとお話を重ねているとおもいますので、この日本に有効的だと思われる手法を教えてください。

 

こんなことを聞きたかったです。
私は、身近な動物との共生を願っている人間ですが、動物たちと関わりのない人・興味のない人たちからは、「それは個人的な趣味の話ですよね?」と言われてしまうことがあります。その人には全く関係のないことですから、社会全体としてのテーマにはなり得ないと考えています。そのような人は少なからずいます。
しかし、少子高齢化、地域社会の衰退が進む日本においては、ペット、コンパニオン・アニマルは地域社会の一員にもなり得るし、心から家族と感じている人たちが増えています。今、「私には関係ない」と言い切った人が年を重ねたとき、身近な動物を心の支えるすることもあります。そのような人に会ったこともあります。
このように感じ、経験している人間として、身近な動物たちが粗末に扱われない社会へと進むヒントになると考え、是非お聞きしたかったです。

最後に山崎さんがお話された「日本にもジェフ先生のプロジェクトとしてのシェルター、病院」が出来ることで(その実際を目の当たりにすることで)、考えを変える人が広がってゆくのかな、とも思いました。

そんなこを含めて、是非お聴きしたかったです。

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2018年1月10日 (水)

「動物愛護法」は本当に動物を守れている? 現行法が抱える問題点とは

https://petokoto.com/1433

上記、なかなか参考になる記事だと思ったので、自分の備忘録。そして、私の活動を理解してくださっている方々にも読んで、ご意見いただけたらと願います。

現在の法運用の限界のようなものを具体的にみることができる内容もあるし、将来についての方策が見えてくる内容もあります。

 

司会:細川先生

 

1 法律を運用する「現場」が抱える課題
 大熊伸悟さん(高崎市動物愛護センター職員)

不幸な犬や猫を減らしたいと考える人には、是非読んでいただきたい。
今までセンターがなかった場所にセンターが出来ること、そこに熱意ある方が就かれ、改革を進めてゆく。行政という大きな組織の中で、今までやっていなかったことを行うことがどれだけ大変であり、また、そこまでしなくても良いという選択肢がある中、茨の道を進むが如くの日々を選んでいます。

「あなたたちなんかは動物のことちっともわからないでしょ」と言われたりと悔しいおもいを抱き、さらに勉強も重ね、実情にあった指導が実ることになったのでしょう。

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例えば飼い主から電話で「うちの馬鹿犬は私の手を噛むんだ、散歩もしてあげてる、餌もあげてるのに噛むんだ、けしからん」といった話をされたときには、・・・・
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と書かれた前後を読むと並々ならぬ熱意を感じます。このレベルのことを、どこのセンターでもやっていただきたいものです。

今までも熱意ある職員さんが、保健所やセンターを変え、その地域を変えた例が幾つかあります。このような方が活躍できることを心から願っています。

記事の順序とは前後逆になりますが、業者を刑事告訴するまでのプロセスについて、ここまでネット上に書いてくださったことにも感謝しています。
法律があるのだから裁判にかけられるはず、と考える人が多いようですが、現場はこんな感じだし、地域によって絡み合う諸事情があることもあります。

これは、後述の「4 動物取扱業、登録制から許可制へ……?」も併せて読んでいただきたい。
都道府県(センターや保健所)の権限を強くしていただくことと、動愛法に何回か出てくる「環境省令で定める基準」を現場で物差しとして使えるものにしていただくことを願うばかりです。

 

2 劣悪なペットショップ 東京都の法律運用は?
 川崎亜希子さん(公益社団法人「日本動物福祉協会」栃木支部長)
 太田匡彦さん(朝日新聞記者)

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2年ほど前に東京都昭島市のペットショップで一つ事例があったので・・・・
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と、この事件についてのお話です。

この事件については、公ではお話し出来ない内容があるのではと思っています。
以前、この件についてのシンポジウムが近所で行われたので拝聴させていただいたことがありますが、そのときに公では話せないことがあることを感じさせる内容を目にしました。私が以前から抱いていた疑問に対する答えを見つけることができましたが、それば逆に大きな問題があることを突き付けられたような気持になり、正直なところショックでした。

そのことについてはここでは書けませんが、とても難しい問題であり、それをどうにかしない限り(業者の問題だけでなく、動愛法の運用全体が)大きな前進は難しいのではないかと危惧しています。

 

3 「8週齢」を条例で 札幌市の事例
 藤野真紀子さん(元衆議院議員)
 太田匡彦さん(朝日新聞記者)

業者に対して既に8週齢の規制をしておいて、飼い主を対象にしようとしたら「科学的知見はあるのか」との考えから、ちょっと待ったをかけようとした、ということですが、逆に環境省に、8週齢の規制を業者だけに行う「科学的知見はあるのか」と問いたくもなる。
これについては、以前議連の先生が「決めの問題である」と発言していたのを記憶していますが、環境省が客観的な「科学的知見」に拘るのか、「決め」を作り、悪質な(思慮深くない?)繁殖者(業者、飼い主、その他繁殖する者全て)に対して、繁殖行為について意識を高めてもらう方向で進めるのか、今後を見定めたいとおもいます。

業者でない人が(繁殖する必要も意思もなく)安易に繁殖することは倫理上も問題があるとおもうし、一般飼い主が繁殖するのであっても、せめて8週くらいまでは親元に置いてあげてほしいものです。

 

4 動物取扱業、登録制から許可制へ……?
 大熊伸悟さん(高崎市動物愛護センター職員)
 太田匡彦さん(朝日新聞記者)

冒頭の、1 法律を運用する「現場」が抱える課題 の解決策的内容。
法改正により、登録制から許可制にしたい、とありますが、その通りだとおもいます。以下、現場ではそのような場面に遭遇することがあるかとおもいます。
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現状の法律では、それを運用する地方自治体の職員は布の服にこん棒みたいな状態で現場に行かなくてはいけないので・・・
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現場職員の方々の熱意が報われる法律にしていただきたいです。

最後の方にある
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繁殖用の犬猫を畜産動物にするということです
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には、ギョっとしましたが、そのようなことが進んでいるという現状は記憶しておく必要がありそうです。そこまでして繁殖するメリットがまだまだあるということですから。

(参考)
http://www.ray-office.jp/authorization/%E8%A8%B1%E5%8F%AF%E5%88%B6%E3%80%81%E7%99%BB%E9%8C%B2%E5%88%B6%E3%80%81%E5%85%8D%E8%A8%B1%E5%88%B6%E3%80%81%E4%BD%95%E3%81%8C%E9%81%95%E3%81%86%E3%81%AE%EF%BC%9F/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%8A%E5%87%BA%E5%88%B6

 
 
5 動物を守りたい――アニマルポリスの実現可能性は?
 大熊伸悟さん(高崎市動物愛護センター職員)
 川崎亜希子さん(公益社団法人「日本動物福祉協会」栃木支部長)

現場で起こっている問題が、公の場でここまでしっかり議論されるようになった現在、アニマルポリスの必要性は明らかだと感じています。
名称や組織の構成手法はこれから議論してゆくとして、まず、動愛法をしっかり守る必要性を国民に理解していただくことが必要だと考えています。広く理解されれば、職員の権限を強くするのは当然であり、職員の数も増え、しっかり監視・指導できるようになれば世の中、変わってくるとおもいます。また、センター内部に置くのではなく、指導・取り締まり等を仕事としてきた人を中心にした別組織になってもいいのではないでしょうか。

どのような形であれ、動愛法が理解され、人と身近な動物とが心穏やかに暮らすことが当たり前の世の中になることを祈っています。その世の中は、きっと人間同士も心穏やかに暮らすことができる世の中だと信じています。

 

※オマケ――虐待について

記事を読んでいて、この説明も必要なのでは?、と思ったことを書いておきます。
一言で「虐待」と言っても種類(?)があります。とても大まかな分け方を書いておきますので、考えていただけたらと願います。
また将来的に、法律やそれに付属する基準などで記載されることを願っています。

・ 積極的虐待と消極的虐待
「積極的虐待」は、猫を対象にしたものが多いです。惨いことをする。さらにその死体等を人目のつくところに遺棄したり、その行為をネットにアップしたりするので、他者への影響もあります。
「消極的虐待」は(時間的理由、経済的理由等で)手が回らない。つまり、ケージや部屋が劣悪な環境になったり、その他、健康面の最低限の配慮が出来なくなってしまう状況が続いてしまうことです。

・ 虐待を行うのが、「業者」なのか「個人」なのか
今回の記事でも8週齢規制を業者だけでなく飼い主にも、との内容がありましたが、(虐待に限らず)業者が行う場合と飼い主が行う場合では、違ってきます。
「業者」は消極的虐待になることが多いと思いますが、行政は業者を登録制にしていますから、把握、指導できる関係にあるはずです(それがしっかり出来ないのが現状で、このような議論がある訳ですが)。
「個人」は積極的虐待も飼育崩壊などの消極的虐待もありますが、行政は把握することも難しいです。そして現在の法律の運用では指導も(やることは出来ても従っていただくことは)難しいのが現状です。

現在、大括りに「虐待」と云いますが、最低限上記の分類を国民が意識できるような取り組みが必要なのではと感じています。

 

以上、自分の備忘録と私の活動に理解ある方々へのメッセージでした。
一年後には、どれだけ前進できるのか。来年の年明けに、これを読み返したいと考えています。

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2017年11月22日 (水)

三峰神社参り (2017.11.14)

先日(2017.11.14)、三峰神社に行った。埼玉県の東の方にある。地図だとこんな感じ。

今年の7月、腰を痛めて弱っていた私のために、山に詳しいボランティア仲間が快気祝い的に企画してくれた。「何処がいいですか?」と聞かれたので、犬というかオオカミの神様がいるこちらを希望した。

一般的に言われる三峰神社はバスでも行ける。幾つものお社があり、お土産屋さんや立ち寄り湯もある。そこだけでもなかなか楽しめる。
そこから1時間半くらい山道を歩くと、三峰神社の奥宮がある。山歩きの距離は手頃そうだし、犬関係なので、こちらを希望した。(WikiPedia

※ブログに使えそうな写真が撮れませんでした。基本的に文章だけになります m(_~_)m
奥宮往きのレポートは、ネット上に多々ありますので、写真等は他でみてください。文章もそちらをみればいいかな (^^ゞ

 

7:30 池袋発のレッド・アロー号

集合場所が「特急の改札」と言われて「?」と思った。早めに行って良かった。いつも使っている改札は、地下一階の改札。そこではない。その真上くらいに一階改札があり、その近くに特急券などを売っているカウンターがある。ちなみに、改札はもう一つあるようですが、反対側にあり、他の鉄道を利用した場合、関わることはないだろう。

長距離列車にほとんど乗らない私は、レッド・アロー号も初めて。なかなか快適。お喋りに花を咲かせつつ、気がつけば車窓はのどかになり、今日の山登りを期待させてくれる。

 

8:59 西武秩父駅着 ~ 9:10 西武観光高バス三峯神社行き乗車

駅に着いたらバス停まで走るように指示される。「平日なので混んでいる訳ないだろう」と思っていたら、既に長蛇の列。走って良かった。

 

10:30 三峰神社着 ~ 奥宮へと向かう

池袋 7:30発でこの時間に到着ですから、遠い場所という感じ。でも、登山口着でこの時間は嬉しい。
バスはラッシュアワーの時のように混んでいたので、奥宮へ行く人もそこそこいるのだろうと思ったら、ほとんどいなくて、のんびりと楽しい山登りが出来ました。

まずは、普通の山の中。でも傾斜はそこそこあります。だらだら登りという感じ。
少し行くと、木の根、枯葉が多く、気を抜くと足がとられそう。
目的地が近づいてくると、岩場っぽい所が増えてくる、アップダウンが急で階段に手すりが設置されている所もありました。
最後は、階段&手すりから、階段も無くなり鎖場になります。「ここで怪我しても神社まで担いで帰れないだろうな」という場所もあったので、気を引き締めて登りました。

20171114a1220171114a11全行程中、2か所くらいテーブルと椅子があったとおもいます。また、屋根付きの東屋も一ヵ所ありました。体力のない方でも、無理せずゆっくり歩けば楽しめるルートだとおもいます。

焦らず確実に登れば事故が起こることはないと思いますが、山に入るときは登山届は忘れずに。今は、ネットでも出来るのですね。

20171114a13道中、両側の木がネットで覆われていましたが、たぶんそれは鹿などの害から守るためではとのこと。歩いていて見つけることが出来た動物の排泄物は、季節を考えると少な目に感じましたが、熊も出るようになので、充分に気を付けて歩いた方が良さそうです。

 

正午頃 奥宮到着

小さな祠があります。狛犬のように左右にオオカミが配されています。長年の間、交代があり、隠居したオオカミたちが祠の横にひっそり置かれていました。その中の一つは、夜になると動き出しそうな感じでした。

20171114a02 20171114a04

祠のすぐ下に、半畳ほどの板張りの場所があり、そこで昼食。最後の鎖場の直ぐ上で、ちょっとスリルある場所でした。20171114a03そこには「妙法」と書かれた石がありました。
20171114a01


13:30頃 神社まで降りてきました

往きに比べて(道も分かっているし)、楽に降りてくることが出来ました。
変化に富んでいて、楽しい山歩きです。また行こうとおもいます。

 

三峰神社のあちこちを見てまわる

メンバーの中に最近、来たことがある人がいて、とても詳しく案内してくれた(感謝!)。三峰神社に行くのであれば、一通り下調べしてから行くことをお勧めします。離れた所にもお社があり、とても趣があったりします。

山から降りてくると、まずお土産屋さんがある。犬を連れた人が何やら食べていたりした。
お土産屋さんが右に左にと続いたあとに、大きな鳥居がある。三つの鳥居がくっついたような形をしている。その両脇にも、狛犬のようにオオカミが鎮座している。
その左手には博物館がある。この日(11月14日)は埼玉県民の日で、入場料が無料(いつもは 300円)なので観たかったのですが、時間の関係で見送りました。

大きな鳥居をくぐり、坂道を登り、左手にある階段を登ると、奥宮が見えるという見晴らし台(遥拝殿・ようはいでん)がある。行ってみましたが、何処が奥宮なのかよくわかりませんでした。次回は双眼鏡を持って来よう。

階段を降りてくると、立派な山門(随身門・ずいしんもん)が見えてくる。近年修復したかの色鮮やか。
この先、幾つもの社があるのですが。各社の前には左右に犬神様(オオカミ)が鎮座している。時代の違いか何らかの意図があってか、各々が違うイメージのものなので、とても楽しめる。

文末に、狛犬というかオオカミの写真を幾つかアップしておきます。

その他、神社として楽しめる要素は多々ある。
また、お土産屋さん以外にも飲食店があったり、立ち寄り湯もある。

帰りのバスの時間が、15:30。その関係で博物館を見ることができなかった。入口までは入り、中を覗いたのですが、大きなオオカミの剥製があったりして、とても興味を惹かれました。次回は是非!

 

15:30発 帰りのバス

少し早目に停留場に並び、座ることができました。一時間以上のバスなので、座れないとキツイです。

 

17時前に西武秩父駅到着 ~ お土産を買って ~ 17:25発のレッド・アロー号

バスが駅に到着し、次のレッド・アロー号を確認すると、少々時間がある。「素通りしないでお土産を買って!」という考えなのかも。素直にその誘いにのってお土産屋さんへ。

お土産屋さんはとても綺麗。最近、改装されたみたいです。
そのお土産の袋に「祭の湯」と書いてあったので調べてみたら、お土産屋さんの奥に温泉があるらしい。ちなみに公式ページのアクセスページが示している位置にはありません。こちらのページが分かり易いです。

 

18:47 西武池袋到着 ~ 解散

帰途は少々お疲れモードでしたが、これから仕事!、というメンバーも。
私は素直に帰宅し、静かに過ごしました。

 

以上、三峰観光をお考えの人向けレポートでした。

 

 

三峰神社 オオカミ(狛犬?)コレクション

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2017年11月 9日 (木)

動物虐待事件におもうこと(6.日本の文化)

前回で終わらすと書きながら、続いてしまいました。
今回の分は書かないつもりでしたが、前回分の調べ物辺りから、「自分の認識はちょっと違っていたかも」と思うようになり、更に調べて、そこから書いておいた方が良さそうなことを書いておきます。

書きたいことは、「動物(特に猫)虐待はしっかり取り締まらないと(動物愛護と関係なしに)、国として問題なのでは」ということ。
 

ちょっと、お断り。
私は「犬との幸せな生活」を皆さんに知ってもらいたいと考えています。今、日本に流れている情報だけでは、残念な結果になることが多々ありますので、足りない部分を捕捉しようと考えています。
逆に、身近な動物と接することから生じる暗い部分は、避けて通りたい人間です。動物虐待については特に避けていますので、あまり知りません。周りの人たちは、虐待動画を見たことがある人が多いですが、私は見たことがありません。動物虐待については全く詳しくありません。

しかし、動物虐待がなくなってほしい気持ちはあります。惨いことをされる動物がいなくなってほしいし、動物虐待しなければならない人間もいなくなってほしいと願っています。

株価がバブルの頃よりも高くなったとか言っているようですが、庶民の生活は不安だらけです。そんな世の中だから、動物虐待に向かってしまうのかと考えたりします。日々の生活が充実していれば、わざわざお金や時間を使って、そんなことはしないでしょうから。

とにかく動物虐待がなくなってほしいのです。それには「動物虐待はいけないことなんだ」と広く伝えなければならないものですが、今の日本にはそのようにおもっていない人も多々いるようです。
法律で取り締ることになっても、想像していたほどは取り締まりが行われません。それは取り締まる人たちの多くもそのように考えているのでは、と思わざるを得ないのが現状です。

現場の人は上からのお達しで動いていますから、上の方の人たちに納得していただくには、1~5の中に何度か出てきた「二つの意見書」が出されるのが基本的な方向性だと思いますが、今回動物虐待のことを調べていて、以下のようにも考えました。

 

幾つかの虐待事件の経過(逮捕されたか、起訴されたかなど)を調べ始めたら、各事件について語っているブログなども読みました。そこから大手掲示板などで盛んに話がされていることも知りました。そのような場所では、動画をアップし、やり方について使う道具からコツまで話し合っています。もちろん、起こったこと(猫がもがき苦しむ姿など)についても。
隠語も数多く、その意味を知ると頭がおかしくなりそうなものもありました。凄惨な虐待は珍しいことではなく、猫に対する凄惨な虐待を楽しげに興味深く語り合っていて、幾つかの定番の虐待方法があるのですが、それを行うとどのようにもがき苦しみ死んでゆくか。またはどのような後遺症や苦痛をもちながら生きているのかを語り合っているのです。そのような掲示板を見つけることは、それほど難しいことではないことも分かりました。

また、虐待を行う人間の分類、社会がどうみているか、批判された場合にどのようjに反論すればいいのかなどが、既に出来上がっていることが分かりました。
「害獣を駆除する目的」はそこでの常套句でした。既に刑を軽くする方法さえも広まっているのです。

このように少し調べただけで、動物(ほとんどが猫)虐待が日本のアンダーグランド文化になっていたことが分かりました。

これらはネット上の話です。昔のようにインターネット(特に動画の投稿)がなかったら、このような場はなく、猫に八つ当たりしたくても方法が分からず反撃にあったことでしょう。(そう考えると、スマホの普及が動物虐待に拍車をかけたのかも。その他の犯罪も、出会い系のSNSやLINEなどでやりとりして犯罪に繋がることが多々あるようですが、それらと似ているかも。)
また、猫から人間の子供へ、についても「なんとなく分かる」ようになりました。何回もやっていれば、次の段階へ進みたくなるんだろうなと吐き気を催しながら想像しました。

 

誰かの「生命・身体・財産」に被害が及ばない犯罪を思い出しました。被害者はいないけど刑事罰が規定されているもの。「ギャンブル、売春、覚せい剤など」。(参考

その場の行為だけを考えれば、本人たちは納得ずくなので被害者はいません。しかし感覚がおかしくなり、常習性や依存がでてくると、それを行うためにお金が必要になったり、社会行動の基本的な価値観にズレもでてくる。そういうことが広まらないように取り締まる。そんな感じだとおもいます。
現在の動物虐待は、これらに入るのではないかと考えるようになりました

私は動物虐待をもっと単純なものだと思っていました。13匹の被疑者のように、専用の場所まで用意する人間は稀だと思っていました。しかし、少し調べただけでも、似たようなことをやっていると思われる人は結構な数いて、動画を見せ合い、話し合っているようです。見つけられる場所にもあるのですから、隠れた場所には幾らでもありそうです。もしかしたらそのような人が、自分が住んでいる町内に居てもおかしくないくらいの数だと感じました。

ネットで公開されているのだから、やってもいいことなんだと思い込む人もいるでしょう。はじめは見るだけ、それから少しやってみたくなる、苦しむ姿を見たくなる。何度かやってしまう。それをある程度繰り返したら飽きて次の段階が欲しくなり、人間(幼児)を対象に考えるのでしょう。または、凶器を持って大人に向い、めった刺しにして苦しむ姿を見たがるのでしょうか。

これらの事実を知り、想像してしまった結果、動物虐待をするような人たちの存在が(分かり易い言葉で言えば)「怖い」と感じるようになりました。

なので、警察の方々に「お願いだから、もっとしっかり取り締まって」と言いたくなります。余暇の時間を猫が苦しむ姿を見ることに没頭するような人間が身近にいるとおもうと恐ろしいです。

 

動物虐待は既に、日本の(闇の部分ではありますが)文化になっていました。ここで歯止めをかけていただかないと、今以上に暮らしにくい国になりそうです。

動物が好きな人たちだけではなく、国民全体が動物虐待(特に猫)の取り締まりについて、議論していただきたいと、切に願っています。

 

1.はこちら<<<   一つ前(5.)はこちら<     <こんどこそ終わり>

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2017年11月 6日 (月)

動物虐待事件におもうこと(5.証拠)

前回からまたまた続くことになってしまいました。

前回紹介した事件は、初公判のニュースが少し残っていて、それも個人のブログでニュース記事のコピペが残っているものが多く、マスコミの記事自体は既に削除されていました。逮捕が2014年、初公判が2015年なので消されてしまっても不思議はありませんが。

4.を書くにあたり「判決は?」とばかり探し、大事なことを忘れていました。
この事件を教えてくださった方はこんなことも言っていました。

裁判になっても、証拠がしっかりとれてないと、ね。

 

その事件は、猫を40匹以上殺しています。数が多いので、13匹事件の参考になると考えたのですが、大きな見落としがありました。

この事件は、初公判の記事もあまり残っていないし、その後のことは全く見つけることができませんでしたので、何か特殊な事情があるのではと推測しています。なので、ここでも具体的なことは書かないでおきます。

概要は以下のような感じ。

事件は、2014年。
ある地域で、外を自由に出歩く猫が毒餌を与えられて次々に殺された。犯人は騒ぎになるのを恐れ、死んだ猫を回収してまわったそうです。しかしあるとき、毒餌を食べて(死にきれずに)苦しんでいる猫をみつけ、殺してあげた(ニュースでは「介錯」を書かれていたとおもいます)らしいのですが、この方法は地面(たぶんアスファルトだったのでしょう)に叩きつけたらしい。
ちなみに動機は、ストレスのはけ口もありましたが、そのときに、近所で野良猫に餌をやり、多くの猫が居着いたことに憤慨していた、ことと供述していたと書かれていました。

逮捕時は、40匹以上の猫を殺したことを認めるような報道がありましたが、改めて初公判のニュースを読んでみると、起訴事実は、叩きつけて殺した一匹のみ!!
毒餌の40匹以上については起訴されなかったのです。

 

こんなことがあるので、「証拠を」と教えてくれたのだと思います。

 

13匹事件のこと、こちらの事件のこと、その他虐待事件のことを、少し考えてみたいと思います。

毒餌で殺害については、虐待行為に快楽を感じての行為ではないようです。叩きつけての行為も「苦しんでいるのを見るにみかねて」のようだし。13匹事件やその他、ネットにアップするような、虐待行為に酔いしれている感じがありません。死体を回収していることからも、他人に見せたい気持ちはなく、逆に隠そうしていた感じを受けます。
なので証拠が乏しく、毒餌分は起訴されなかったのでしょう。

この犯人が、虐待殺傷行為に快楽を感じ、依存傾向にあったかは私には分かりませんが(少ない情報からですが)虐待行為が目的ではなく殺すことを目的としていたように感じます。

(一般論して)人間に向かう傾向にあるのは、(殺すことではなく)虐待行為に快楽のようなものを感じている人たちと言われていますので、そのような人たちを見定めることが出来れば、収監なり、措置入院なりで世の中に出てこれないようにしてほしいです。

行為だけでなく、ネットにアップし、見せびらかすようなことをする場合は強く取り締まってほしいし、ネット上でそのような人を称賛する人たちも、予備軍としてマークしてもらえればと願います
現在、警察もネット上での操作技術が身についているでしょうから、ある程度の特定は可能かとおもいます。

ネットにアップすることが許されている(逮捕されない)と思われてしまうと、動物虐待自体も許されると認識されてしまいますから、ネットでの公開についてはしっかり取り締まりをしてほしいものです。

そうなると、隠れてやるようになると思います。証拠が残り難いそれを見つけるのはやはり社会の目、地域の人の目、個人個人の目、になり、それを喚起するには、動物虐待事件のニュースが世の中の話題になり、幅広い人たちに、動物虐待が及ぼす社会への悪影響について認識していただけることを心から願っています

そのためにも二つの意見書が提出されることを願っていますが、それは個別の裁判ではなく、次の法改正に向けた話し合いにて行われるのが適当だと考えるようになりました。

そうなれば、まず、現場で動いている行政の方々、地域猫活動などを行っている方々の負担を大きく減らしてくれることでしょう。

 

幅広い人の「考え」「感覚」を変えることは容易ではありませんが、そのような情報や活動が多くの人の目にとまり、身近な動物と暮らすことそのものが社会全体に受け入れられ、例えば、ペットと入れる高齢者施設が増えるなど、ペットが何らかの排除理由にならない社会になってくれることを心から願っています

(ほんとは「ペット」ではなく「コンパニオンアニマル」と書きたいんですけどね。)

 

(最後に備忘録)
これも世田谷動物フェスティバルの休憩時間に立ち話で聞いた話。
2年くらい前に警察庁だか警視庁だかの上の方から、動愛法関連でもちゃんと動くようにとお達しがあったとか。
たしかにここ2年くらい、「また動いてくれた!」と嬉しくなることがあったような気がします。

 

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