2017年11月 9日 (木)

動物虐待事件におもうこと(6.日本の文化)

前回で終わらすと書きながら、続いてしまいました。
今回の分は書かないつもりでしたが、前回分の調べ物辺りから、「自分の認識はちょっと違っていたかも」と思うようになり、更に調べて、そこから書いておいた方が良さそうなことを書いておきます。

書きたいことは、「動物(特に猫)虐待はしっかり取り締まらないと(動物愛護と関係なしに)、国として問題なのでは」ということ。
 

ちょっと、お断り。
私は「犬との幸せな生活」を皆さんに知ってもらいたいと考えています。今、日本に流れている情報だけでは、残念な結果になることが多々ありますので、足りない部分を捕捉しようと考えています。
逆に、身近な動物と接することから生じる暗い部分は、避けて通りたい人間です。動物虐待については特に避けていますので、あまり知りません。周りの人たちは、虐待動画を見たことがある人が多いですが、私は見たことがありません。動物虐待については全く詳しくありません。

しかし、動物虐待がなくなってほしい気持ちはあります。惨いことをされる動物がいなくなってほしいし、動物虐待しなければならない人間もいなくなってほしいと願っています。

株価がバブルの頃よりも高くなったとか言っているようですが、庶民の生活は不安だらけです。そんな世の中だから、動物虐待に向かってしまうのかと考えたりします。日々の生活が充実していれば、わざわざお金や時間を使って、そんなことはしないでしょうから。

とにかく動物虐待がなくなってほしいのです。それには「動物虐待はいけないことなんだ」と広く伝えなければならないものですが、今の日本にはそのようにおもっていない人も多々いるようです。
法律で取り締ることになっても、想像していたほどは取り締まりが行われません。それは取り締まる人たちの多くもそのように考えているのでは、と思わざるを得ないのが現状です。

現場の人は上からのお達しで動いていますから、上の方の人たちに納得していただくには、1~5の中に何度か出てきた「二つの意見書」が出されるのが基本的な方向性だと思いますが、今回動物虐待のことを調べていて、以下のようにも考えました。

 

幾つかの虐待事件の経過(逮捕されたか、起訴されたかなど)を調べ始めたら、各事件について語っているブログなども読みました。そこから大手掲示板などで盛んに話がされていることも知りました。そのような場所では、動画をアップし、やり方について使う道具からコツまで話し合っています。もちろん、起こったこと(猫がもがき苦しむ姿など)についても。
隠語も数多く、その意味を知ると頭がおかしくなりそうなものもありました。凄惨な虐待は珍しいことではなく、猫に対する凄惨な虐待を楽しげに興味深く語り合っていて、幾つかの定番の虐待方法があるのですが、それを行うとどのようにもがき苦しみ死んでゆくか。またはどのような後遺症や苦痛をもちながら生きているのかを語り合っているのです。そのような掲示板を見つけることは、それほど難しいことではないことも分かりました。

また、虐待を行う人間の分類、社会がどうみているか、批判された場合にどのようjに反論すればいいのかなどが、既に出来上がっていることが分かりました。
「害獣を駆除する目的」はそこでの常套句でした。既に刑を軽くする方法さえも広まっているのです。

このように少し調べただけで、動物(ほとんどが猫)虐待が日本のアンダーグランド文化になっていたことが分かりました。

これらはネット上の話です。昔のようにインターネット(特に動画の投稿)がなかったら、このような場はなく、猫に八つ当たりしたくても方法が分からず反撃にあったことでしょう。(そう考えると、スマホの普及が動物虐待に拍車をかけたのかも。その他の犯罪も、出会い系のSNSやLINEなどでやりとりして犯罪に繋がることが多々あるようですが、それらと似ているかも。)
また、猫から人間の子供へ、についても「なんとなく分かる」ようになりました。何回もやっていれば、次の段階へ進みたくなるんだろうなと吐き気を催しながら想像しました。

 

誰かの「生命・身体・財産」に被害が及ばない犯罪を思い出しました。被害者はいないけど刑事罰が規定されているもの。「ギャンブル、売春、覚せい剤など」。(参考

その場の行為だけを考えれば、本人たちは納得ずくなので被害者はいません。しかし感覚がおかしくなり、常習性や依存がでてくると、それを行うためにお金が必要になったり、社会行動の基本的な価値観にズレもでてくる。そういうことが広まらないように取り締まる。そんな感じだとおもいます。
現在の動物虐待は、これらに入るのではないかと考えるようになりました

私は動物虐待をもっと単純なものだと思っていました。13匹の被疑者のように、専用の場所まで用意する人間は稀だと思っていました。しかし、少し調べただけでも、似たようなことをやっていると思われる人は結構な数いて、動画を見せ合い、話し合っているようです。見つけられる場所にもあるのですから、隠れた場所には幾らでもありそうです。もしかしたらそのような人が、自分が住んでいる町内に居てもおかしくないくらいの数だと感じました。

ネットで公開されているのだから、やってもいいことなんだと思い込む人もいるでしょう。はじめは見るだけ、それから少しやってみたくなる、苦しむ姿を見たくなる。何度かやってしまう。それをある程度繰り返したら飽きて次の段階が欲しくなり、人間(幼児)を対象に考えるのでしょう。または、凶器を持って大人に向い、めった刺しにして苦しむ姿を見たがるのでしょうか。

これらの事実を知り、想像してしまった結果、動物虐待をするような人たちの存在が(分かり易い言葉で言えば)「怖い」と感じるようになりました。

なので、警察の方々に「お願いだから、もっとしっかり取り締まって」と言いたくなります。余暇の時間を猫が苦しむ姿を見ることに没頭するような人間が身近にいるとおもうと恐ろしいです。

 

動物虐待は既に、日本の(闇の部分ではありますが)文化になっていました。ここで歯止めをかけていただかないと、今以上に暮らしにくい国になりそうです。

動物が好きな人たちだけではなく、国民全体が動物虐待(特に猫)の取り締まりについて、議論していただきたいと、切に願っています。

 

1.はこちら<<<   一つ前(5.)はこちら<     <こんどこそ終わり>

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2017年11月 2日 (木)

動物虐待事件におもうこと(2.動物虐待の基礎知識)

前回の終わりに書いたこと

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私の「一般人的感覚からしての疑問」

1.10匹以上の猫を虐待した映像をアップしている人間が世の中にいて、その人間の行為を称賛していた人間もいる。もしかしたら彼らはネットだけでなく繋がりをもっているかもしれない。そのような人間に対して最高2年でいいのか。今回のケースは、どれくらいの量刑になるか。

2.わざわざ猫を虐待するという行為自体が理解できない。今回の容疑者も色々と道具を揃えていたようだし、もちろん時間も必要だ。そこまでしてやりたいものなのか。

3.動物虐待を国として(国民が国民に対して)罪とし罰を与えることをどのように(国民は)考えているのか。現状からみて、動物虐待を取り締まる法律を軽く見ている人(今回の犯人など)が多いのは何故なのか
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1.については、これから裁判が行われるようなので、経過を注目したい。

今回は、2.の、何故、わざわざ猫を虐待し続けるのか、を考えるために、動物虐待についての、私の知っている基礎的な部分を書いてゆきます。

以下、私個人の考えです。何かおかしな点があれば指摘いただければ有難いです。

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人間への虐待でも積極的虐待と消極的虐待があるように、身近な動物に対しても同様です。

積極的虐待は、暴力をふるうなど積極的な働きかけで虐待すること。
消極的虐待は、最低限の世話もしないこと。厳密には「したくても出来ない」ことを言うので、消極的虐待とネグレクトは完全にはイコールではありません。(このことについての説明は、今回は必要ないとおもわれるので省略します。)

定義を書いても分かり難いので、分かり易いを挙げます。
積極的虐待 : 殴る、蹴る(これ以上は書きたくありませんが、その他暴力行為などです)。暴力以外にも動物の健康を害する対応を積極的に行う。
消極的虐待 : (してあげるだけの経済力・体力・時間などがなくて)食べ物や水を与えない。身の回りを清潔に保ってあげない(ケージの中で排泄をさせてそのままにするなど)。ほぼすべての時間、狭い場所で一人で過ごさせるなど。

消極的虐待は「したくても出来ない」ので、本人が誰かに助けを求めるべきでしょう。
積極的虐待は、放っておけばどんどん行うかもしれません。冒頭にも書きましたが、お金や体力、時間をかけてわざわざやるくらいなのですから。

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消極的虐待については、昔から色々とおもうことがあるので文末に書いておきます。興味のある方は読んでいただければ嬉しいです。日本における身近な動物に対する認識が、この20~30年くらいで変わってきたことを感じている方もいらっしゃるとおもいますが、まだまだ色々な考え・感覚の人がいると感じています。
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本筋に戻ります。
動物虐待を法律で取締るは何故でしょうか?、私はこんなことを聞いたことがあります。

動物虐待、特に、猫への惨たらしい積極的虐待がエスカレートすると、次は人間(幼児の場合が多いらしい)へとその刃が向かうと言われています。ある程度の年齢以上の人なら記憶にあるとおもわれる「宮崎勤」「神戸連続児童殺傷事件」などがその例ですが、この10年間くらいに起きた不可解な動機(「人を殺してみたかった」など)の殺傷事件の犯人の内、多くは猫への虐待を行っていたと言われています。

前日の書込みに最近起こった4つの動物虐待事件を書きましたが、全て対象が猫なのです。

もちろん、猫を虐待している人間全てが人間を襲うようになる訳ではありません。(逆も。猟奇的な殺人や連続殺人を行う人間が全て猫を虐待していたという文献は読んだことがありません。)
昆虫や小さな動物に惨いことをし、それを見ること、行うことに快楽を覚え、対象が少しずつ大きくなり猫にいきつく場合が、次に人間へとなる可能性があるそうです。
「快楽を覚え」るので中毒性というか常習性が起こるそうです。文字通り中毒的になるともう自分でも止められないそうです。動物を虐待することに依存してしまう。ストレス解消にお酒が絶対に必要な人たち(アルコール依存症)と同じように、動物虐待が必要な状態になってしまうとか。
このような人たちの中から、人間を対象にしたい衝動が止められなくなる人が出てくるそうです。

お酒の例で分かるように、これは精神科にお世話になる必要がある状態です。アルコール依存症もなかなか治すのが難しいそうです。性犯罪者も同様で、ある程度の割合の人は再犯を犯すし、犯さなくてもその衝動がある人が多いと何かの本で読んだことがあります。
同様に、猫への惨たらしい虐待をする人たちの中には、どうしてもその衝動が起こってしまう人がいるとのことです。

猫への虐待から人間に向かう人たちは、自分では抑えることができない衝動があり、行動となってしまうようです。精神科にお世話になるべきと私は考えますが、現在は、惨たらしい動物虐待だけで、必ず病院にお世話になるべきという認識には至っていないようです。

また横道に逸れ過ぎてしまいましたが、「動物虐待を法律で取締るは何故でしょうか?」の話です。

今ある「動物の愛護及び管理に関する法律」の大改正(1999年)の理由の一つが、「神戸連続児童殺傷事件」だったと聞いています。
猫を虐待する人の中から、次は人間へと考える人がいるから、つまり、人間に危害を与える可能性が高い人を取締ろうとの趣旨があると記憶しています。これは多くの人が、納得できるとおもいます。

 

しかし、この考えには2つの問題点があります。

1.精神科にお世話になるとしたら、病気なのだから犯罪にならないのではないか?
アルコール依存症は病気であり犯罪ではありません。動物に虐待をしたい衝動を日常的に抱いている状態だけでは犯罪ではなく、病気なだけと私は考えます。しかし、先にも少し書いたように、現在日本では動物虐待だけでは病気とみなしていないようです。しかし、動物虐待を自分でも抑えられないような状態を症状の一つとは捉えている病気はあるとのことです。
どうであれ、病気と捉えられてしまうと、罪が軽くなったり、あるいは無罪になることもあるのではと考えてしまいます。
その代りに治療をしっかり行っていただければいいのですが、それについての話を見聞きしたことがありません

2.惨たらしい積極的虐待をしていても「自分でも抑えられない人(人間にも危害を与える可能性が高い人)」とそうでない人を分けられるのか?
分けられないと思います。
しかし、今抑えることが出来る人も将来どうなるかは分からないとおもいます。
そしてもう一つ。やった本人がどうであるかと別の問題として、虐待の事実を公衆に見せたり、公衆でなくとも個人的に見せたとしても、見せられた相手が抑えられない人(予備群を含む)だったらどうでしょうか。その人の衝動をさらに強いものにすることでしょう。まだ衝動を罪悪感によって抑えることが出来ていた人が、虐待動画を次々と見て、そしてやっている人は取り締まられることもないことを知ったら、衝動が抑えられない方向に進んでゆくのではないでしょうか。

このように考えれば、分ける必要なく、取り締まるべきだと、私は考えています。


ただし、1999年の改正から今まで、この法律がそのような観点で取り締まりをしている根拠になる意見書や国の見解を見た記憶がありません

以上はあくまで私の個人的な考えです

 

ここまで読んで、「何故、人間に対する危害のことばかり語るのか。動物に対する危害そのものを取り締まる話ではないのか?」という疑問をお持ちの方もいらっしゃると思います。
また、冒頭の3.「動物虐待を取り締まる法律を軽く見ている人(今回の犯人など)が多いのは何故なのか」についても書いていません。

次回に、動物虐待と法律で取締ることを、幅広い多くの人はどのように捉えているのが、私の考えを書いておきます。

 

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以下は、個人的な「消極的虐待」についての思い出です。ご興味ある方だけ読んでください。

消極的虐待というとネグレクトを頭に浮かべる人も多いとおもいます。(消極的虐待とネグレクトは、厳密にはイコールではありませんが細かい話は省きます。その区別が分かるページとしてWikiPediaのネグレクトのページがあります。人間に対しての説明ですが動物に対しても同様に考えています。)
私はこのような問題に興味を持ち始めたのは、1990年代中頃でした。当時は、動物への消極的な虐待は誰も口にしませんでした。

そして2000年を過ぎた頃です。テレビでペット番組が増えてきた頃であり、当時、番組内のクイズを最も正解した人に犬をプレゼントするという企画がありました(すぐに中止になりましたが)。プレゼントされた芸能人が忙しい中、可愛がっている映像が出たのですがが、犬は朝から夜遅くまで一人で留守番。
当時の私は、トレーニングも少しは勉強していました。脳科学的なアプローチ情報が広まってはきたものの一般には広まっていない状況でしたが、私は個人的な知識や経験でそのようなトレーニングをしていました。そんな私はすぐに「これは虐待だ!」と感じたのです。しかし、そのことを誰に話しても「確かに可哀相だけど、虐待というのはちょっと…」と返事が返ってきたものでした。

欧米の幾つかの地域では、長時間の留守番は虐待とみられます。日本でもやっとそのような考えが知られるようになってきました。
2000年前後から2010年くらいまで若い(たぶん遊びも忙しいんだろうなと思ってしまう)芸能人含め「こんなペット飼っていま~す」と自慢している記事が多々ありましたが、どれだけ一緒にいられる時間があるのだろうと心配になったものでした。

私が気にし始めてから20年以上経ちます。長時間の留守番が虐待と捉えられる地域が(世界の中には)あるということが知られてきたことは、確かな前進だと思いますが、日本国内に目を向ければ、大きな前進が見られないのが残念です。

現在も次の法改正に向けて議論されているようですが、法律を作るだけでなく、その法律を守るべき根拠もしっかり伝えてゆくべきではないかと考えています。
何故、犬(幼犬を含む若い犬は特に)を長時間一人にすることが虐待となるのか。何故、動物虐待を国が取り締まる必要があるのか。

このようなことをしない限り、「ペット好きの感情論のせいで前科がつくなんてありえない!」と感じる人はいなくならないでしょう。動物虐待を取締る根拠を、専門家の意見書などと共に国として見解を示して欲しいと願ってやみません。

 

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2017年11月 1日 (水)

動物虐待事件におもうこと(1.一般人的感覚からの疑問)

8月末辺りから、猫十三匹を虐待し、中には死に至った猫もいるという事件が報道されましたが、もうお忘れの方もいらっしゃるのではないでしょうか。
その虐待行為をネットで誰でも見ることが出来るようにもしていたとのこと。恐ろしいことは、ネット上にその行為を称賛している書込みがあること。
今までも虐待の動画をアップした者はあったようですが、今までに比べれば数が多いし、称賛する人たちがいることも不気味なものを感じます。そのような人間が一般社会に潜んでいることをおもうと、日々の生活も不安になる方も多いのではないでしょうか。

上記の事件の記事(消えてしまうので複数載せておきます)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171003-00010739-jprime-soci
https://sirabee.com/2017/08/30/20161270923/
https://ameblo.jp/momokohime7/entry-12305871023.html

この頃、他にも、女性が猫13匹を虐待
http://www.sanspo.com/geino/news/20170605/tro17060521370014-n1.html
ペットフードを扱っている会社の役員による猫虐待
http://www.asahi.com/articles/ASK804TYVK80ULOB00C.html
さらには、「理想の猫じゃない」と次々に殴りつけたり踏みつけて20匹殺したという事件も
https://news.goo.ne.jp/article/nishinippon/nation/nishinippon-20171012113854097.html

 

あまりにも次から次へと出てきますが、動物の愛護および管理に関する法律の第四十四条は、以下のように書かれています。

第四十四条 愛護動物をみだりに殺し、又は傷つけた者は、二年以下の懲役又は二百万円以下の罰金に処する。

愛護動物を一匹だけでも虐待したらこの法律に引っかかると読むのが普通だとおもいます。今回は分かっているだけでも十三匹に虐待を行い、死に至らしめた猫もいるとのことなので(一般市民の感覚からすれば)最高刑である、懲役二年以外にないとおもうのですが、そこまでならないのでは、というのが専門家の見方のようです。

今までも、猫を虐待しネットで誰でも見ることが出来るようにしていた人間はいたとのこと(ニュースなどで読みましたが私自身はそのような動画は見たくないので見ていません)。
それらがどのような刑事罰を受けているかというと、100万円以下の罰金刑が相当と考えられる場合に使われる、略式起訴になっているとか。

その略式起訴とかいうものを調べてみた。
その罪を犯したと思われる者は警察に捕まり取り調べを受ける。次に検察に送られて、ここでも調べる。その結果、罰金100万円以下の刑が相当だと判断された場合、略式起訴になるらしい。懲役を求められることはない

先に書いたように、猫に酷いことをしてそれをネットに堂々とアップする。つまり「私はやりました!」と公表する。そこには「この行為の何が悪いんだ!」という考えがあるのではないでしょうか。
身近な動物を虐待することは非常に悪いこととは考えず、せいぜい悪戯程度のことにしか感じていないのでネットにアップする」という人たちだけでも、そこそこ居るようです。わざわざアップしない人はもっと居ることでしょう。その数を考えると恐ろしくなります
恐ろしいと同時に、今の日本はそんな世の中なのかと不思議にも思う。

ネットにアップすれば、上記の法律があることを指摘されるだろう。それでも公開し続けるのは、法律で取り締まられることはないと考えているのか、されたとしても微罪と考えているのか

 

私の「一般人的感覚からしての疑問」

1.10匹以上の猫を虐待した映像をアップしている人間が世の中にいて、その人間の行為を称賛していた人間もいる。もしかしたら彼らはネットだけでなく繋がりをもっているかもしれない。そのような人間に対して最高2年でいいのか。今回のケースは、どれくらいの量刑になるか。

2.わざわざ猫を虐待するという行為自体が理解できない。今回の容疑者も色々と道具を揃えていたようだし、もちろん時間も必要だ。そこまでしてやりたいものなのか。

3.動物虐待を国として(国民が国民に対して)罪とし罰を与えることをどのように(国民は)考えているのか。現状からみて、動物虐待を取り締まる法律を軽く見ている人(今回の犯人など)が多いのは何故なのか。

次回、これらの疑問に対して考えたことを書いていきたいとおもいます。

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2017年9月17日 (日)

「多頭飼育」対策

「多頭飼育」対策で指針=飼い主ケアで連携-環境省
https://www.jiji.com/jc/article?k=2017091500167

上記の記事を読んだ。
私と動物愛護系の付き合いが長い人は、同じようなことを、ず~っと言っていたことをご存じだとおもう。私が思いついた訳ではなく、海外でそのような取り組みを行っている行政があり、これでないと確実に止めることは出来ないと思っているから。

なので、この記事に書かれていることはいいことだと思いますが、今までの法律や基準などが(私が想像していた様には)守られない現状からして、また絵に描いた餅にならないかが心配です。

まず、福祉部局との連携は必須だと考えていますが、それでも解決されない(再び同じ状況になる)ケースは無視できないだけ出てくるはずです。
そのようになったときに、多頭飼育崩壊と言える状況になった時点で所有権を放棄させるように法律が改正されればいいと思いますが、まず線引きが難しいと思うし、そもそも所有権を強制的に放棄させることは日本の法律では難しいことだとおもいます。
法律(動物愛護管理法)の中に、44条の2程度の飼育(飼養)が出来ないのであれば、飼育を諦めなさい(所有権の放棄とは言わない)とするくらいでしょうか。

実質的に出来るとすれば、法律でこんなことを書けばいいのかも。
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飼育活動が出来ない状況(長期の入院や収監等、また、在宅していても疾病などで飼育活動が出来ない場合を含む)が続いた場合(その状況が予想できる場合はその時点で)、飼い主は確実に飼育をしてくれる人(もちろん法に書かれている虐待をしない人、法に書かれていることから考えられる通常の飼育が出来る人)を指名し、その人が責任を持って飼育を行うこととする。指名できない場合は国が指名する。この期間の費用は飼い主が全額負担する。
この費用が担保できないのであれば、国が動物たちを買い上げる。その金額は動物たちの取得費用とする。
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というような感じで「あんたには無理でしょ?」と諦めさせるしかないのかな、と思っています。
「えっ?、国じゃないでしょ?、都道府県でしょ?」と言いたい人もいると思います。法で都道府県に任せる理由は、地域によって動物による付き合い方が違うからということのはずです。この件は、法律の44の2に書かれていることを基準にするので、国が判断するべきことです。都道府県で判断がまちまちであってはならないことではないでしょうか。

海外では飼育禁止命令を出すことがありますが、私の知る限り、日本でそれをやっても無視というか再び同じ状況になることでしょう(海外でもそのようだし)。
飼育禁止命令を出すという形式はいいと思うので、その後のケアと言えばいいのか監視がしっかり出来ればいいのではないかと思います。その意味ではこの記事の方向性はいいとおもいます。
先ほどの飼育を任された人だって信用できない人がいるでしょうから、やはりケアというか監視が必要になるはずです。

では、この飼育代理人(勝手に命名)や飼育状況監視人(これも勝手に命名、代理人の飼育も監視)を誰がやるかです。いい加減な人にやってほしくありませんが、日本の社会の慣習からして、これらの人がビジネスになるならば認められる可能性は大きいと考えます。
生体販売が厳しくなってきたペットショップの店主や店員の転職先、シェルターや一時預かりさんの活動資金の獲得先として、考えることができれば現実的になってくるのではないでしょうか。
つまり、動物取扱業者であり、特別な資格(←代理人や監視人という資格か免許を作る)を持った人。優良な飼育知識をもっているというお墨付きにもなる。個人的には、今までシェルターワークで頑張ってきた人(里親の見定め、アフターフォローもしてきた人)たちになってほしい。

言いたいことはいっぱいありますが、時間がないのでここまでにします。

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2017年9月16日 (土)

多摩動物公園

7月6日に大怪我をした。それから二ヶ月以上が過ぎた。怪我そのものはたぶん治った。しかし後遺症的な症状が治らない。でもそれは体を大事にし過ぎて体が固まってしまったからなのかも。
これは長距離歩いてみないとならないなと考え、低山ハイキングへ行こうと考えていたところに、思わぬ用事が!

知り合いのお店に用事が出来たのですが、お店は最近引越しをしていた。何処だろうとと思ったら、多摩動物公園のほとんど真ん前smile、リハビリというか、試し歩きは多摩動物公園ハイキングに決定!

歩くことを目的にするので、こちらのコース通りに行ってみよう。

 

Cimg9615用事を済ませて、正門前で写真を一枚。この時のタイムスタンプが、12:40くらい。

入って左側にウォッチングセンターなる建物がある。そこで、7キロコースの地図をいただく。
まず、ちょっと登り坂。怪我の場所が痛む。どうしようもなく痛くなるまで歩いてみよう。

イノシシ、カモシカ、ツキノワグマ、ニホンサルなど馴染のある動物を見ながら坂道を登る。
「痛いな」に加えて、周りにいっぱいいる幼稚園生くらいの子供たちがぶつかってこないかヒヤヒヤしながら歩く。

昆虫館で、コウロギやスズムシを見て、ゴキブリを思い出すな~と思っていたら、期待通り展示されていて笑った。
蝶がいっぱいいるエリアは南国ムードたっぷり。沖縄を思い出す。

次のエリアに移動しようとして迷う。結構余計に歩いてしまった。

ライオンは遠くに見えた。のんびりしていた。フラミンゴものんびり。

象の場所では、先日のウェルフェア・サミットで話にでていた盛り土がされていた。象の隣にあると大きく見えませんが、とある動物園ではこれを作るのが結構大変とか。こちらの園だったら(平地で広いので)重機が入るかも。それだったら楽だけど。
ガラス越しですが象の体が間近に見えるのもよかった。
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ここでお腹が空いていることを思い出す。
売店では、カレーややきそばなどがある。メニューは豊富ではない。食べる場所は充実しているので、「お弁当もってきてね」という感じなのかも。この時は、お弁当を持ってきていないので、焼きそばとコーラという若者ぶったメニューで昼食をすます。

次は、キリン。こちらも結構広いエリアで、みんなのんびりしている。
一人離れた場所にいる。木の上に用意された食べ物を食べているようだ。野生では高い所のトゲトゲの葉も食べつくし、さらに高い所の葉を食べるために首が伸びたらしい。その動きをさせてあげているらしい。
Cimg9643 Cimg9644

どうでもいいことですが、「キリンに食べ物を与えないでください」とか書かれた看板のすぐ近く(首を伸ばしたキリンの近く)で、一生懸命キリンに葉っぱをあげようとしていた男性がいた。周囲から見て、「おかしな人」と思われることが分からないのかなと思いましたが、猫や鳩に餌をあげることをやめられない人が多いのですから、このような人がいてもおかしくない日本なのでしょう。

Cimg9657チンパンジーは、資料展示で興味深いものがあった。とりあえず、自動販売機と空き缶回収機の写真。
Cimg9647   

個人的に思い出深いコウノトリ、モウコノウマを見て、たぬき山へ。
タヌキは是非、見たかった。前脚付け根の黒い部分と、スクエァな感じの体の比率がばまちゃんぽいからだ。実物を見たかったが、見つけることができなかった。
フクロウやイヌワシを見て、トナカイの居る所に来た。私が柵の前に立つと、向こうから「はいはい、御用はなんですか、私ですよね、私」と遠くからやってきて、私の前を往復してくれたオスがいた。他の個体が遠くで群れているのに。わざわざ来てくれて、ありがとう。
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エミューなどを見た次はコアラですが、暑いし、まだお腹が空いているので、自販機で売っているアイス(ハーゲンダッツの棒のヤツ)を食べて一休み。子供連れが多いが、私のような一人で来ている人も多い。性別・年齢はまちまち。

結構前に話題になったコアラ館。綺麗だけど「何かが違う」という感じを受けた。コアラが近くで見ることが出来るのは嬉しい。
館を出るとユーカリの葉が触れるようになっていた。「毒じゃないの?」と思いましたが、触るくらいは大丈夫らしい。
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地図を見ると、ここで3キロ。まだ半分も来ていない。時間は14:50。焦ってきた。

この先、道を間違えて時間のロス&歩く距離が増える。地図を見ると間違えようもないと思うのですが、ウロウロしてしまった。この頃には痛いことを忘れていた。動物を見ることが出来ることも興味深いのですが、この動物園は緑が多いのがいい。
カワセミやカンガルーを見てタスマニア・デビルを見る。この動物園に来たら、今はこれを見ないといけないらしい。
確かに珍獣だ。有袋類であるだけで珍獣ですが、頭と体のバランスをはじめ骨格全体や移動の仕方が興味深い。この個体も遠くに居たのですが、私がガラスの前に立つと、「はいはい、写真ね。いいですよ。こんな感じでいいですか?」とやってきてくれて、モデルさんのように移動して、そして戻っていきました。
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次はオラウータン。実物はほとんど動かなかったのですが、私がカメラを向けたら、高い所Cimg9755_2
からすす~っと降りてくる姿を見せてくれた。
それよりも資料のこの絵が、、、これって、進撃の○○だよね?
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トラやアジアゾウを横目で見ながら、次に目に入ったのはインドサイ。デカイ!、とにかくデカイ(写真だと分かりませんね。是非実物を見て欲しい)。恐竜の生き残りと言われることがありますが、よく分かります。
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この先でもまたウロウロしてしまった。
そんなときに見た、二ホンアナグマは「のんびりし過ぎだろう」とほっとした。
(個人的にアナグマにはいいイメージありませんでしたが、少し好きになったかも。)
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となりのカワウソを見て、また迷ってしまい、ウサギやヤギを見るはずなのですがその前に、「モグラのいえ」へ。ネットで有名な「モグラ先輩」やトウキョウトガリネズミなどにも会えた。
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管を使った、モグラのいえはなかなか興味深い。
Cimg9789管理に気を遣うのではと思った。メッシュ状の管が破けたら逃げてしまわないのか、などと考えてしまった。
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ウサギやヤギの横を通り、インドサイの所まで戻り、ヒマラヤタールや立派な角のムフロンを見て、見慣れたカモシカの次に、トカラヤギが一頭。こういう理由でここにいるのか。トカラヤギは沖縄に居たときに見た。動物との付き合いは地方で色々である。
Cimg9797 Cimg9798

フシゾウのオスは荒れていた。角が痒いらしい。メスが近づいてきたら八つ当たりしていた。
オラウータンの辺りに戻り、オラウータンの森へ。先ほどの住み家(?)とは高所に張られたワイヤーで繋がっている。結構な距離があり、よく落ちないものだと感心した。森は誰もいなかった。そして戻って、ユキヒョウを見る。二つのエリアに分かれているようで、どちらのエリアにいる個体も間近で見ることが出来た。ユキヒョウも草を食べるらしい。
ちなみにばまちゃんは食べない。食べなくても吐く。尻尾の太さはユキヒョウの勝ち。
Cimg9802 Cimg9814

レッサーパンダがいて、続いてターキン。なんとも特殊なオーラ。写真では伝わらないと思うけど。
Cimg9822 Cimg9824

そのお隣さんも見たのですが、覚えていません(苦)。この時、すでに16時くらいになっていたので、「もう帰らねば」と焦ってきていました。

最後にオオカミとまたモウコノウマ。オオカミはいい写真が撮れませんでした。どの個体も大きな犬という感じで野性味が感じられませんでした。生活が保障されているので当然なんだろうけど。つまらなそうにも見えました。

Cimg9844モウコノウマ。首はこんな感じだったけ?、と。首と言えば、こんなパネルもありました。家畜化されている馬とは染色体の数も違う。つまり別の種類。交雑ってないのかな。
Cimg9827 

あとは坂を下って、大きな鳥のケージを見て終わりなのですが、その最後にこんなことが書かれたパネルがあるケージがありました。
Cimg9855動物園の役目として、野生(人間の生活圏を含む)で怪我をした動物の保護があります。
ここは鳥のケージですが、鳥以外の動物も必要に応じて保護していると聞きます。
動物園に来ている人たちの中には、ここでなければならないんだろうなと感じる人も何人かいました。低山ハイキングの代わりに選んだ人もいます。
最後に、動物園の役割は色々なんだなと思わせる罠に見事にかかってしまいまいした。

時計を見たら、16:20。入場してから 3時間40分、ほとんど歩き続けたことになります。随分と迷いましたから、8キロは歩いたでしょう。
次回は迷いませんので、4時間あればゆっくり見ることができそうです。お弁当持って、ゆっくり食べたいから5時間かな。

 

電車に乗る頃、気が付きました。
7キロコースを歩き始めた登り坂での痛みはもうありません。やはり大事にし過ぎていたのかも。それとも動物パワーか!
でも、帰りの電車の中ではまた痛みが。揺れに弱いです。(車の運転は大丈夫なのですが。)

そして次の日、起きてみたら調子よかった。
やはり、また行こう。

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2017年8月26日 (土)

飼い主って色々(突然頭に浮かんだ)

7月上旬から、縦になるのが良いのか横になるのが良いのか、悩ましい生活を送っています。

そんな日々を送り始めた頃だったと思う。以前、時計が落ちた話を書きましたが、今度は、うーにーの写真が落ちた。
高い位置に、うーにーとまいすの写真が飾られ、その間におばまの写真が飾ってある。その中でうーにーのものだけ落ちた。

午前中の早い時間だった。私は横になっていた。ガタン!と大きな音がした。部屋を見渡したが、何が起こったのが分からなかった。落ちたのがうーにーの写真だと分かるまで少し時間があった。

落ちたうーにーの写真を見つけて、何故か「猫の飼い主よりも、犬の飼い主の方が獣医学的なことに詳しい人、多いよな」と頭に浮かんだ。何故、そんなことが頭に浮かんだのか分からない。犬の飼い主だって疎い人はいる。何故そんなことが頭に浮かんだのか、自分でも不思議だった。

その理由について考えてみた。
猫は痛みに強いというか、あまり表に出さない。犬も痛みに強いが多少は表情に出る。なので病院に行くことが(猫に比べれば)多くなり、知識もついてゆくのかな、と思ったりした。

さらに考えてみれば、人と犬、人と猫、との関わりはやはり違うんだろうなということ。そんなことを考えたりした。

20170826

今日は、ばまちゃんの血液検査に行ってきた。糖尿病の経過観察。
肝機能の数値が少し悪かったのと、血小板が少し低かった。血小板は誤差の範囲を言えるくらいだったのですが、備考欄に肝機能の影響が考えられることが書かれていたので、先生に「何故、血小板と肝機能が関係するのですか?」と聞き、説明していただく。ばまちゃんには関係なさそうだ。
病院にある機械では、猫の血小板が少なめにでることがあり、その理由につても説明していただいた。

こういうことの積み重ねなのでしょうね。10年20年で差が出てくる。
それは何でも同じだとおもいます。

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2017年6月23日 (金)

友達が逝った(その3)

つづきものです。

友達が急逝して、もう一ヶ月以上が経ったことになる。もうそんなになるのか、と不思議な感じだ。まだ、彼を身近に感じる。

何事に於いても綿密に準備をし、ことを進め、終わったら分析するような人間だったので、急逝したことを恥じていることだろう。
彼の予定では、亡くなる前日に退院し、帰宅後、事務的なことをしっかり済ませ、その後は何があっても周囲に迷惑をかけないようにするつもりでいたことだろう。しかし、それが叶わず、周囲の者は何かと混乱しています。

冷静に考えれば「迷惑をかけやがって!」のはず。
しかし、それらに対応していて不快に感じない。

知らない人と連絡をとりお願いすることが何回か。恐る恐る連絡をし、用件を伝え、今後のことを話し合うと、「いい人だなぁ、今後も付き合いたいな」とおもう人ばかり。来年の(亡くなった友達が毎年主催していた)花見に誘う約束を交わした人もいる。
通夜・告別式には久しぶりに顔を見た友達もあった。疎遠になっていた友達たちもまた、集まりに顔を出してくれそうです。

「普通、この書類は分かり易い所に置いておくだろう」というものが幾つか見つかりません。そのため遺族は右往左往で、私達友達はそのサポートをすることもあるのですが、何故かそれが苦にならない。亡くなったことだけでも悲しいはずなのに暗くならない。

人は亡くなった後に、その人の価値が分かるといいますが、まさにそれを実感しているところです。

 

市川海老蔵の奥様である小林麻央さんが亡くなったとのことで、海老蔵が会見しているのをるぴなすのテレビで見た。
奥さんが亡くなっても仕事をこなすのは芸の道に生きる者として当然だけど、会見は辛かったのではないかとおもう。

旅立つまでの時間があるこの病気は、その時間を充実させるものにも出来れば、本人や家族を追及するような時間になることもある。それは各自の考え方により変わることかもしれません。

旅立ちに関わった人たちが、何を得るかは本人次第のところは大きいとおもいますが、旅立った人間がそれまでにしてきたことも大きいのだなと日々感じているところです。

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2017年6月22日 (木)

友達が逝った(その2)

前回からのつづき。
先月亡くなった友達との話から、在宅緩和ケアについて。

彼とは30年近く前からの友人で、彼の病気は約13年に分かった。
日々の行動の仕方は全く違う人間でしたが、「楽しいことが好き」「流されてはいけない」という考えは共通していました。

彼と親しくなって数年経ったとき、インターネットの時代がやってきた。「楽しいこと」「流される・流されない」は情報化社会に影響されることになる。

病気が治ることはないだろうとなった頃だったと思う。彼もブログをはじめる。その内容の濃さは驚くばかりだった。しかしマニアックになるこはなく、さらっと書く。一見すると「もしかして、ただの知ったか振り?」と思うような書き方もあった。暗くならないように書くのだ。

 

あるとき、彼のブログにコメントしたことがある。それまでもコメントしたことはあった。
大した内容ではなかったと記憶しているが、具体的な内容は覚えていな。2~3行の書込みで「へ~、そうなんだ」ということを軽く書いた記憶がある。
この時、「悪いが消させてもらう。思いっきり勘違いしている」とメールが来て、コメントが削除された。
何か言いたいことがあった訳ではないので削除されたこと自体はいいのですが、自分が患者さんたちの気持ちを理解できていないことに、私自身が驚いた。以降、コメントしないようになっていた。

しかし、ブログ自体は読んでいた。医療の日進月歩がよく分かった。
彼の病状が深刻になるにつれて、二人だけのときは、医療のこと、ブログのことを話すことが多くなった。

最後に会ったのは、亡くなる三日前。このときもブログの話がほとんどだった。具体的な内容としては、在宅緩和ケアのこと。

 

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以下、緩和ケアとはどういうものか、ご存知の方だけ読んでください。それを説明するのは手間がかかるし、中途半端に書いて誤解を招きたくありません。また、ご存知ない方、興味のない方には不要な情報です。
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治療を打ち切った後、入院ではなく在宅での緩和ケアを選択した。対応してくれる病院がとても少ないのですが、たまたま徒歩圏内にあった。
楽しいこと大好きな人間だったし、仕事も大好きだった。なので、最後の時まで入院したくなかったのだ。

そのような選択をしてくれたことで、私も在宅緩和ケアというものを感覚的に知ることが出来た。ブログにも在宅緩和ケアのことが書かれるのだが、今一つ突っ込んで書いてくれない。
最後に会ったとき、私から、「在宅緩和のことをしっかり書いてほしい。この選択のことを多くの人に知ってもらい、要望の声をあげてもらい、このような病院、先生を増やしてほしい」と。

答えは、「それは出来ないんだよ」。耳を疑った。しかし彼の説明は理路整然とし、私は理解できた。

 

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以下、私独自の理解や考えも含んでいる。彼の考え方そのものでない内容が含まれています。そして、先にも書いたように、私は命と向きあう人たちの気持ちを理解できない部分をもっています。なので気分を害する方もいらっしゃると思います。気分を害すると感じたらスルーしていただきたい。または、しっかりとコメントいただければ幸いです。
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一般的に、緩和ケア=ターミナルケア と捉えている人が多いことでしょう。私も実質そういうものだと思っています。しかし、彼は「必ずしもイコールではない」と言う。たぶん、「自分を見てくれ!」と言いたかったのだと思う。
最期の入院をする少し前まで仕事をしていました。「今回はしんどいので、迷惑をかけることになるかもしれないので、申し訳ないけど他の人にお願いしほしい。今回の処置で体調が戻れば、またやらせていただけたら」とか言っていた。

とても最期とは思えなかった。
本人は、あと数ヶ月生きるつもりでいたし、誰もが最低あと1ヶ月は生きることが出来るとおもっていただろう。それくらい、仕事をし、人と会い、楽しい時間を過ごしていた。

私が最後にあったのは、午後から夕方にかけて。その日の夜、友達三人がやってきて、そこで酒盛りをしたそうだ。治療がある訳でもないので、本人も飲んでOK。いつもは一緒に飲み食いしていたのですが、このときは、珍しく口にしなかっと聞いている。

 

結果としてターミナルとなってしまいましたが、「終わりを見据えるのみの日々ではなかった」ことは確かです。その意味では、ターミナルではありませんでした。

彼のブログを読んでいると、如何にQOLを保ち、可能であれば上げたいと考えていたことは分かる。ならば、緩和ケアのことを多くの人に知ってもらうですが、それは出来ないと言いました。

 

現在、治療と緩和がチームを組むことはまずありません。治療に区切りをつけたら緩和。
だから、緩和=ターミナルと捉える人が多い。
このようになっているのは、大きな力が及んでいるらしい。なので、このことを公で論じると、お世話になっている方々(病院や先生)に迷惑をかけることになるだろうし、本人や同じ病気と共存しながら生きている人たちが、緩和ケアを受けるハードルを高くしてしまう可能性があるらしい。多くの人のQOLを考えるからこそ、声を大に出来ないという。

人生の終わりが確実やってきてしまう病を患っていない私にはピンとこない話でしたが、何気なく「そういうこともありそうだな」とはおもいました。

 

他に、こんなことも話していました。
現在、緩和ケアは治療をしないことが前提ですから、治療を終わりにする決断をしなければならない。それが出来ない人が多い。つまり、奇跡を期待する人が多いのだそうだ。
「奇跡」とは、常識的には起こり得ないことが起こることですから、起こらないのが当たり前。しかしいつまでも、「自分には起こるかも」と願い、ダメージを受け続け体がボロボロになっても治療を続ける人が多いという。そして緩和の恩恵をほとんど受けることなく時間が尽きてしまうのだろう。

さらにこんな話も。
緩和ケアを受けたとしても、それがターミナルとなっている現在、緩和ケアを受けた本人は亡くなりそのことを語ることは出来ない。遺族は、闘病期間全体からみれば緩和ケアは短期間のこととなり、記憶の多くは苦痛を伴う治療のことなので、緩和ケアの重要性を忘れてしまうとおもわれる。
なので声があがり難いらしい。

また、緩和ケアは本人が知識と意識を持ち続けないと高い効果を得られないとも言っていた。
例えば、痛みを我慢して薬を飲まないと痛い状態に体(脳)が慣れてしまい痛み止めが効かなくなることがある。我慢することがそのような結果になるという知識と、その知識を得ようとする意欲、QOLを保つために医師としっかり話し合う意識が必要になる。
自分に残された時間のためならこれくらいやる人がほとんどだと、私は思ったのですが、実はそうでもないらしい。自分で自分の体の状態を理解し、それに必要な知識を積み重ね、主治医に自分の体の状態や苦痛の程度を伝え、選択肢をいただき、判断する。
このようなことに慣れていない人が多いと言っていた。
 

近年科学の進歩は著しいものがある。しかし痛みをはじめとする苦痛を客観的に測定する方法は未だない。同じ怪我をしても、とても痛いと感じる人もいればそうでもない人もいる痛いと感じても我慢できる(するべき)程度とおもう人もいれば、処置して欲しい(緩和処置を受けるべき)とおもう人もいる。皆が同じではないのだ。薬の効き方にも個人差がある。このことを理解しないとならない。だからこそ積極的に自分の症状を理解し伝えなければならない。このようなことに慣れていない人が多いと言う。

それは現在の医療が検査の数値により判断されるようになったからだろう。苦痛どころか違和感を感じなくても治療が始まることもあれば、明らかな自覚症状があっても検査で異常が出なければ何も出来ないことも多い。このような時代なので、自分の苦痛を伝える機会が少なくなっているのかもしれない。
  

彼がよく使っていた言葉に「ミスリード」がある。横文字全てが苦手な私は、それが好きではなかった。ピンとこなかった。それについても、最後に会った日に聴いてみた。

先ほども書きましたが治療の効果は当然のこと、全てのことに「個人差」がある。同じものを食べても同じように栄養を吸収できる訳ではない。同じご飯を食べても太る人もいれば太らない人もいる。
しかし、科学の著しい進歩のため、それを忘れてしまうのか、奇跡のようなことが起こった人が「こうやればみんな良い方向に向く」と声を大にして伝え続けると、それに望みを託してしまう人がいる。その方法と結果のみを信じ、痛みをこらえ続け(健康な部分にもダメージを与える)治療を続ける人が少なからずいるらしい。

方法と結果だけでなく、その人の体のこと、それまでに受けてきた治療、などなど総合的に情報を集めてみれば、多くの人に当てはまらないことが多いと言っていた。逆に結果が出た人は、そうなるべき状況が重なっていたのだろう。
伝える人は大事な情報を伝えているつもりであろうが、全ての情報ではなく、情報が不足し過ぎてミスリードに繋がるという。

彼の使う言葉、「奇跡は起こらない」も説明しておく。
奇跡が起こったと思っていてもよくよく調べてみれば、「起こるべくして起こったこと」ということのようです。(具体例を挙げて説明してくれたことが何度かありますしたが、ややこしいので全て忘れました。)

奇跡を祈るよりも、情報を収集し知識を高め自分の体の状態を理解し、心から信頼できる主治医との巡り合いを願う方が現実的であり、それがあれば現実としての奇跡(のようなこと)を目指せるかもしれないし、奇跡が起きなくても相対的に心安らかに過ごせたり、納得できるだろう。

 

QOLを保つための材料は、まず「自分が自分の体を理解すること」であり、その理解に必要な医学・医療の知識、そして家族や医療関係者とのコミュニケーションが大事。
ネットに書かれている奇跡を求める人たちのほとんどは、このようなこをせずに「書かれている通りの奇跡がきっと起きる」と信じるらしい。つまり、ネットで書かれた内容がそのような人たちの人生を導く(リードする)結果となるらしい。

 

ミスリードとは違いますが、「先生が一番いいと思うようにしてください」という考えもやめた方がいいと常々語っていました。そのような人のほとんどは、自分の体のことを理解しようとしないので、体の細かいことまで主治医に相談しない(出来ない)。主治医側も限られた判断材料での治療方針を決定するのはリスクも高くなるだろう。

 

彼の言いたいことをまとめるど、たぶん、こういうことだったとおもいます。
=======================
・奇跡みたいなことを伝えるのであれば、薬などの情報だけでなく、自身の体のこと・生活のことなど全て詳細に書いてほしい。
・奇跡を信じるのであれば、自分の体のことをよく理解してほしい。医学的な基礎知識、それを基に医療行為による効果を理解し、自分の体にどれだけ効果が見込めるかを考えてほしい。
・心から信頼できる主治医に、自分の考えを伝え、それを実現していただく(信頼できる医師との出会いにも基礎知識は必要です)。
=======================

 

以上が、友人が立場上言えなかったことを含んだ、彼の基本的な考えだとおもいます。一部「現実はそうなのか?」と思ったこともありますが、基本的な考えは私も同じです。
私の思い込みや、健康上の立場の違いから誤解していることなどで、嫌悪感を抱く方もいらっしゃかもしれませんが、大きく間違っていないと考えておりますし、大事なことだと思っています。

 

最後に、個人的な考えの違いを。

彼の病気には、日常生活を送る上で苦痛を伴うこともある症状がありました。それに対して「自分だったら、その日常を受け入れられないかも」と話すと、「それくらい自分でコントロールするものだろう!」と返ってくる。この話は何度もしているので、最近はすぐにこの話題は終わっていた。最期に会ったときもこの話題が出てすぐに終わった。

何故、何度も同じ話題をするかと言えば、彼がブログでそのこと(自分の症状の出るタイミングや対応方法を学習し、対応すればいいことで、何年間も同じことで苦しいと言い続けずに受け入れるしかない)を書き続けていたからだ。

彼はそのようなことを乗り越えることが出来たが、私はきっと出来ない。そこで諦める、悲観的になるだろう。

彼は経済的に裕福な立場ではなかった。しかし、人生を確実に縮める病に侵されながらも最期まで充実した時間を過ごしていた。
私は同じ立場に立たされても、同じだけのQOLを保つことは出来ないだろう。
彼はブログの中で「頑張れって言葉が嫌いです。自分も頑張っているし、みんな頑張っていることを知っているから」というようなことを時々書いていた。

言い換えれば、こんなことだろう。 
=======================
頑張れ!
頑張れば必ず報われるとは言わないが、頑張らない人間はまず報われない。
報われるとしたら「奇跡」か「よく調べていない(改善が見込まれて当然の状況だった)だけの偶然」だ。
=======================
(身近な動物との生活も似たようなことあるかも)

 

優しい文章を書けない自分がもどかしい。
彼は読者への配慮を最大限していた。そのために「何がいいたいの?」と思うこともあった。たぶんストレスを感じていたこともあっただろう。それでも書き続けた。仲間にエールを送り続けた。

もう少し頑張ってほしかったけど運命だったのだろう。
お疲れさま。

でも、安らかに眠るのはもう少し待ってほしい。
まだ四十九日も迎えていないし。もう少し楽しませてくれ。

(つづく)

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2017年6月21日 (水)

友達が逝った(その1)

これは、私の備忘録。誰かに何かを訴えたいとか、知らせたいとか考えて書いているものではない。
関係者の心情に配慮すれば書くべきではないことも含まれています。
もし読むのであれば、そのようなこともご理解の上、読み進めていただきたい。

 

約一ヶ月前のこと。友達が急逝した。
急逝といっても長年闘病生活をし、そろそろなことは分かっていた。しかしまだその時ではないと思っていた。処置入院の退院予定日に急変し、次の朝、逝ってしまった。

彼の闘病ブログはいつもランキングの上位に入っていたので、彼のことを知らなくても、その病気の人なら彼のブログを読んだことがあるとおもう。

彼は、ブログ上の人格とリアル世界の人格を使い分けていた。
ブログ上の人格というより病人であることを見せなかった。リアルの付き合いの人の中には、彼が病気と闘っていたことを知らなかった人もいるはずだ。

なのでこのブログを読んでも、コメントをつけたり、病人である彼とリアルの彼を結びつけるようなことはしないで欲しい。

 

彼とよく話をするようになったのは、私の結婚式のとき。それは山の中で行われた。馬に乗りパレードを行った。当時、大手制作会社に勤めていた彼にビデオの撮影や編集をお願いした。1990年。当時はビデオの編集も専用のスタジオで行った。

打合せからロケハン、そして色々あって撮影、編集、完パケまで、もしお金を払ってやったら幾らかかっただろう。都内の結婚式場ならともかく、山の中の牧場で式を挙げ、山の中、田んぼの脇をねり歩いた。打ち合わせやロケハンだけで何回足を運んだだろう。撮影はどんなに苦労したことだろう。

よく覚えていないが、実費も支払っていないような気がする。若かったら勢いで頼んだし、やってくれたのだとおもう。

結婚式よりも何年も前から同じ店でよく顔を合わせていたが、個人的に話をすることはなかった。共通の友人もいたが、何かが合わないという感じだったのだろう。
結婚式以来、共通の友達含め、付き合いは続いていた。

 

私達の結婚後、約十三年経ったとき、彼は病気の宣告を受ける。
それから更に約十三年後、ついに余命宣告を受ける。そのとき告げられた期間以上に頑張った。しかし、もう少し大丈夫だと誰もが思っていた。なので、知らせのメールを受けた時、あっけにとられた。現実味がありませんでした。

 

彼はブログで、「QOLを保ちましょう」と書いていた。「生活のQOL」よりも「人生のQOL」という言い方もした。

私も少しは医学的なことが分かるので、内臓を取った体がどうなるとか、薬の話とかをよくした。もちろん社会福祉のことも。彼は全てに於いて、よく勉強していた。涼しい顔で「自分のことだから当たり前だろう」と言っていたが、社会人が限られた時間の中で、彼ほど知識を身につけるのは容易ではなかっただろう。

 

彼は何人もの医師と話し合い、とてもいい結果を出し続けていたと思っていた。大きな手術をしても、一般的にいわれている期間の最短で退院し社会復帰し、そして遊んでいた。
表に出れば、病人面することはなかった。苦しくなると、トイレなどに隠れてその時が過ぎるのを待つこともあったというが、それが出来ない時は、涼しい顔して仕事を続けたという。
彼の苦しい顔を見たことがある人はいないのではないだろうか。体全体の感じから辛いのかもと思うことはあったが、少なくとも顔だけは辛さを見せなかった。

彼の日常生活がどれだけのものなのか、彼の話と調べ物をしてだいたいのことが分かったとき、自分には耐えられないとおもった。この病気になったら治療はせずに自然に任そうととおもったものでした。

 

彼はいつも人生のQOLを求めていた。だから苦しい顔を見せなかったのだろう。
亡くなって駆け付けたときも、悪戯っ子のような笑顔でした。最期まで周りに気を遣っていたのでしょう。

彼とは亡くなる三日前に会いました。そのとき、彼が最期の時の過ごし方として選んだ在宅緩和ケアについて話をした。そのことを続けて書きたい。

更にもう一つ。「人は死んだとき、その人の価値が分かる」といいますが、正にそんな感じでした。死んでも人を人を結びつけ、ときに楽しませてくれる。
人生のQOLとは本人の中で完結するものではないことを知った。そんなことも書きたい。

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2017年3月24日 (金)

新しいワタシの見つけ方(DVD)

映画というかDVDの感想文です。

日本語タイトルは、「新しいワタシの見つけ方」。
英語のタイトルは、「EMMA'S CHANCE」。

タイトルで検索したら、先頭に出てきたのはこのレビューページ
https://filmarks.com/movies/69700

スターチャンネルでの紹介ページ
http://www.star-ch.jp/channel/detail.php?movie_id=25496

 

主人公(EMMA)はアメリカの女子高生。進学のこと友達付き合いことなど悩んでいる時に、ちょっとした失敗をし、罰として馬のレスキュー施設のお手伝いをするようになり、周りを巻き込みながら人間的な成長をしてゆくストーリー。

「レスキュー施設」と言っても分からない方もいらっしゃると思いますので簡単に説明します。
助け出して保護する施設です。犬や猫にもあり、そちらは日本にも定着しつつあります。捨てられり、酷い飼われ方をしている動物を保護し、心身のケアを施し、新たな飼い主を探します。

わざわざ英語のタイトルを書きましたが、馬にとってここに入れることはチャンスです。主人公にとってもチャンスだったのです。日本語タイトルってヘンなの多いと思いますが、これもその一つ。でも、レスキュー施設なんて日本の人には分からないので、このタイトルが妥当なのかも。
馬にとってチャンスだと分かるシーンが幾つか出てきますが、ほとんどの人には分からないと思います。(メキシコ産馬肉というタイムリーなネタも出てきます。)
この映画を観ていておもうことの一つは、日本と欧米の文化や歴史の違い。

日本に於いてペットの代表格は「犬と猫」ですが、世界標準(といっても歴史的にみれば欧米白人社会と言うべきかも)では、「犬、馬、猫」です。
場所によっては、野良馬が居たりします。映画の中にもそんな話が出てきます。

よくボランティアとか寄付の歴史が違うということを言う人がいますが、この10年くらいはネットの普及もあり、日本でも寄付の感覚が根付いてきたと思います。歴史は違いますが、寄付という形が手軽に出来るようになってきたことを実感されている方も多いのではないでしょうか。
この映画の中では、資金集め(のお礼?)のパーティーが出てきます。これは日本には定着していませんね。これは感覚の違いなのかも。

この映画の話は実在の施設をモチーフにしたそうですが、やはり資金集めが必要になります。
映画を観はじめたときにレスキュー施設とは知りませんでした。施設のマークに Rescue の文字を見て「えっ?」と思いました。そして施設の規模を予想して、「日本だったら月にこれくらいは必要だろうな」とか考えて「日本じゃ無理」と思ったものです。馬房(馬小屋)の広さからして「いいな~」と。動物福祉ってやつですね。ヨーロッパの馬房を写真やビデオで見ていますが、それらと比べるとこの映画のサイズは一般的です。日本のよくある馬房と比べると「なんと羨ましい~」と感じます。馬房の広さ以外にも色々ところで「最低限」の感覚が違うな~、と感じました。
そんなことを気にし始めたら資金難にもなるだろうなと思ったりしました。

そんな話は改めて書くことにして、乗馬の話
ド素人の主人公が上達してゆく姿がなかなか良かったです。それが分かるようになっていました。(スタントの人を使った最後のシーンは綺麗すぎる感じはありましたが。)

私の感想文を読むと小難しそうにおもえてしまうかもしれませんが、気軽に観ることが出来る映画です。たぶん子供も見ることを想定して作っていると思います。
構えずに馬のレスキューのことを知ってもらいたいのではないかと思います。アメリカでも馬をペット出来る人は一握りだし、都市部で馬に触れる機会はほとんどないでしょうから、「馬との付き合いって難しんだろうな」と思っている人がほとんどだと思います。少しでも多くの人に、馬の問題と馬の素敵な部分を伝えたくて、このような映画を作ったのだと思います。

私自身、経験なしに馬の仕事に就いて、この女の子のように「馬っていいな」と思ったものでした。人間社会の中での馬について、少し分かってくると何かと考えてしまうこともありました。
私が馬の仕事をしたのは 30年以上前ですが、当時の日本にも馬のレスキュー団体はありました。しかし、その存在を知らせるだけの力もなかったような印象でした。日本の野良馬(捨て馬ですね)の存在を訴えても信じてもらえないし、ほとんどの人は「私には関係ない」という感じでした(当時、競馬が流行っていましたけどね)。
 

おっと、また小難しい話になって申し訳ない。
気軽に観てほしい映画です。馬が好きでなくても見て欲しい映画です。

日本の動物愛護もこんな感じの活動(映画作り)をしてくれたらと常々思っています。小難しいことは後回しでいいと思います。(オマエが言うな!、と言われそうですが・苦)
動物とのふれあいはいいものだ、からでいいのではないでしょうか。

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