2019年10月19日 (土)

三茶de大道芸(2019.Sat.)

今日と明日は、三茶de大道芸というイベントがある。場所は三軒茶屋の各所。イベントのサイトはこちら

三軒茶屋のあちこちがステージになり、多くの大道芸人(?)がパフォーマンスを行う。
それを見に、昼食も兼ねて三茶へ。

正午前、世田谷線の駅前でオープニング・セレモニーに続いて、チャラン・ポ・ランタンの二人が登場。元々お姉さんはストリート・パフォーマーでこの三茶de大道芸にも出ていた。

これだけ有名になったので、多くの人が集まっていた。ファンの方たちと思われる人たちが、各曲の盛り上がり所も心得ていて、ポイント毎に大合唱なる。
ムスターファを演ったとき「60歳!」で盛り上がったとき、ちょっと寂しい気持ちになった。昔の60歳はそういうものだったのだろう。今の60歳はそうでもないとおもうけど。

ステージがほとんど終わりになった時、おひねりタイムに移行する。これも「上手い!」と思った。
先月、生まれて初めて大衆演劇というものを見た。平日だったので席はガラガラ。おひねりは熱心な常連さんが渡すだけで「大変だな~」とおもった記憶がある。それに対して、チャラン・ポ・ランタンの盛り上げ方やおひねりタイムへの流れ、そして次から次へと出てくる千円札に驚くばかりでした。

続いては、四家卯大。(ミスチル繋がり?、と云われればそうかも・笑)
なんと「ゆうらく通り」である。ラジオ焼きのお店の近く。世田谷線の駅前とは大違いだなとおもったのですが、ここがとってもナイスでした。
四家さんといえば砧公園での演奏に親しみがある人も多いとおもいますが、ホールやレコードでしかチェロを聴く機会のない私にとっては「なんか音が違うな」と思っていました。屋外なので楽器などの機材が限られてしまうので仕方ないんだろうなとおもい込んでいました。
しかし「ゆうらく通り」では、あの狭さで微妙な反響があるためか、とてもいい音に聴こえます。「いいものを聴かせていただきました」と正直におもえる内容でした。


午後一時も過ぎたので、近くの中華料理店で昼食。その後、大駱駝艦を見る。
あまり観る機会がないタイプのパフォーマンスなので細かい所を見てしまう。ご存知の方も多いとおもいますが、基本的な衣装(?)は最低限。紐と小さな布だけ。これが(どんな動きをしても)全くずれることがない。更に衣装を羽織ることがあるのですが、この質感も「う~ん」と唸らせるものだし、使い方も「えっ、えっ、、そんなことし続けるの?」と驚きの連続。
舞踏は「そこでそう来る!」「え~、そんなのあり?、あるよね!、出来ちゃうんだ、やっちゃうんだ」と驚きの連続。はじめの内は体の各所の細かい動きに目がいっていましたが、全体を見る余裕が出て来たらまたまた驚き。表情というか顔を含めての舞踏、表現。

 

このステージは二時頃に終わった。
二時半から四家さんが、今度は、あい・あい・ロードという場所でやるらしい。何処だろうと思ったら、昔よくマグロの解体ショーをやっていた辺りだ。
行ったけど時間が早すぎる。近くの烏山川緑道で「アート楽市」がやっているとプログラムに書いてあったので行ってみたが、雨のためキャロットタワーの4階で開催しているとか。
時間が潰せず、帰宅することに。

 

若林駅に向かい、駅近くの喫茶店「STEPS」へ。
毎年、つまみぐいウォーキングでコーヒーをご馳走になっているので、いつか行こうとおもっていたが、なかなか行けないでいた。
入店してマスターが若くて吃驚。つまみぐいの時には見たことがない。たぶん店内で次から次へとコーヒーを淹れてくれているのだろう。
昼食をしっかり食べた後だったので、私はケーキとコーヒーのセット、女房はウィンナーコーヒーのみ。味は、私たちの世代には「これだよね、ケーキやコーヒーって」という味。
私たちの後から高齢男性のお客さんが入ってきて席に着いたとおもったら、何も語らずコーヒーが出てきたようだ。コーヒーを飲む姿も洒落た方だった。この店に似合っていた。
店内では何かのCMの撮影をやっていた。マスターも出演するために、その打合せをやっていた。たしかに撮影に使いたくなる店である。

若林駅近くに来ると、ピーターセンに行くのが我が家のいつもの行動。
明日の朝のパンもゲットできた。午後の二時半くらいでしたが、お得な袋詰めが売っていた。
小さいながら多くの種類のパンがあり、飽きないパン屋さんだ。

STEPSもピーターセンも世田谷区内共通商品券というものが使える。
この商品券が使えるお店は、まずいいお店だ。

 

なかなか充実した土曜日の午後でした。
明日(2019.10.20)もイベントはあるので、興味のある方はまず三茶de大道芸のサイトを確認してみてください。

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2019年10月16日 (水)

リブレ(血糖値の経過観察)その2

その1 からのつづき

 

さて、血糖値を経過観察して何をするのか。

今まで、約二ヶ月に一度の血糖値検査(その時の血糖値と糖化アルブミンという約2週間くらいの状態(平均値)が分かる検査)でインスリン量を考えていた。
その1にも書いたように、それだけでは実際の体調を反映していないような気がしてならなかった。
一般的な話として、インスリンの過剰投与で血糖値が激しく上下することが知られている。その結果、平均値(糖化アルブミンの値)が良くなってしまうこともある。その時の血糖値(一般的な血糖値検査)はその時だけの値。それらだけでは、なかなか判断が難しい。

また、インスリンは人間用が元なので、猫に使用する場合は少量になる。なので少し量を変えただけで大きな影響が出ることがある。薬の効きも個体差がある。
人間用には血糖値を日常的に経過観察出来るものが他にもあるようですが、それを猫に使うのは難しい点が多かったので、薬の効き目をリアルタイムで確認することが出来なかった。

色々書きましたが、簡単に言えば

「今の薬の使い方で適切に効いているのかを確認したい。負担がかかっているようなら量を変えたり、薬を変えたいが、確認するいい方法がなかった。リブレなら出来るみたいだ。試してみよう」

こんな感じです。

 
この後、リブレの血糖値グラフを載せますが(簡単な状況説明は書きますが)インスリンの種類や量、血糖値グラフの読み方などは書きません。それは獣医師が判断し説明することで、素人の(しかも、おばまという特定の個体の)結果から、基本的な説明や詳しい状況説明なしにしたことを、参考にされたらとても危険なことになりそうだから。
糖尿病は個体差もあれば、その日のコンディションによっても変わります。体調が悪くなっても「何も変えてないのに、何故?」と思うこともしばしばです。
そんな訳で、大雑把な状況説明くらいで、詳しい解説はしないことをご理解願います。



・9月15日から、はじめてみて吃驚。
低い時間が長すぎる。こんな日もあり高血糖な時もありなら糖化アルブミンはそこそこの数字になるだろう。
この時までのインスリンの打ち方だとこのようになってしまうようだ。

2019libre_0915    2019libre_0916
※グラフの天井と底については、後述します。

・それまでのインスリンで量を調節したけどこんな感じにするのがやっと。

2019libre_0919    2019libre_0920

 

・薬を変えてみる。なかなか調整が難しい。変えた日は天井に張り付いたまま。

2019libre_0921    2019libre_0922

 

・薬を変えて量を調節しましたが、二週間のタイムアウトを迎える。

2019libre_0928    2019libre_0929

 

※このグラフの天井(高血糖)と底(低血糖)について

低血糖はそのまま命を落とすこともあるし、重篤な症状を起こしたり後遺症が残ることもあるので、とても気を付けねばなりません。
このグラフを見た感じ、50よりも少し下まではあるようですが、その下が気になります。しかし、人間のものなので、それより下の詳しい数値は分からないようになっているみたいです。
ある程度を下ると「LO」になります。ばまの記録の中で数字が表示されて最も小さいのは「47」でした。


高血糖は、短時間であったり、400くらいが2~3時間続くのは、おばまの場合、目に見えた症状が出ず(一時的な数値として)400、500は珍しくないことがよく分かりました。

このグラフなのですが 350で天井です。しかし、500未満までは個別の数値を見ることが出来ます。500以上は「HI」表示なり、それが600なのか800なのか分かりません。
リブレには過去3回の個別測定値を表示出来る機能があるのですが、下の左と右では大違いなのです。

2019libre_hi   2019libre_hinon

ブラフでは、どちらも350を超えていますので天井に張付いて表示されますが、左のように「HI」表示になると、どれだけ高血糖なのか見当つきません。右は「その辺りか」と今後の参考にもなります。
どちらも9月19日で、その日のグラフは上の方にあります。グラフ上天井になっていても、未明と正午頃では状況が違う訳です。

 

猫は何かつけて個体差が激しいですが、糖尿病はそれをとても感じます。
おばまは、低血糖による痙攣などの症状は起きたことがないし、高血糖により急な体重減少もほんの少しだけで済んでいます。
赤ライン(低血糖)の時間が長かったり、天井に張り付くような一日があった場合、顕著な症状が出てもおかしくないとおもいます。しかし今のところ症状はほとんどありません。おばまは我慢強いのかも。

 


先にも書きましたが、もしあなたの猫が糖尿病だとしても、参考にしないでください。このブログは「リブレはこんなものでした」という記事であり、決して「リブレ、最高!」という記事ではありません。

血糖値の経過観察が出来るので、インスリンの量を調整したり薬を変えましたが「低血糖で大変なことになったらどうしよう」と落ち着いていられないこともありました。ある意味、あっても無くても同じです。
外したら、また手探りの日々になります。なので外した直後は何かと不安でたまりません。

一つ言えることは、リブレを着けている間、血糖値が許容範囲に入っているときと入っていないときの様子をよく観察し、外した後、それを思い出し少し参考にすると気が紛れます。

リブレをやるまでは、飲水量を一つの指標にしていましたが、血糖値との相関性は見られないように感じました。
タイムラグがあったり、激しい上下があると飲水量が増えるのかもしれませんが、単純に血糖値が高いから飲水量が多い、ということはありませんでした。
となると、この多飲は何なのかが気になりますが(BUNやクレアチニンは正常範囲内)。

再び、戻すことや咳込むことが多くなったら、またリブレのお世話になれると思うと、少し気が楽です。

 


リブレをよく勉強している先生は今のところ少ないようなので、その意味でも皆さんにはお勧め出来るものではありません。

先生とよく話し合い、飼い主自信が判断する。これが原則です。
医療行為は獣医師しか出来ません。先生が勧めるからやるのではなく、自分が判断し、自分では出来ないから先生にしていただくのです。
いつもお世話になってる先生との話し合いの結果、リブレを使った方が良いとなっても先生が勉強している時間がないのであれば、詳しい先生を紹介していただけばいいと思います。もちろん猫のストレスもよく考えて。

 

猫の糖尿病はよく分かりません。さじ加減がとても難しいケースも多々あるようです。インスリンの取り扱いも繊細だし。「何がいけなかったの?、何も変えていないはずなのに?」と思うことしばしば。

リブレってものもが猫でも使えるみたいだけど、どんなものなのだろうと興味をもっている飼い主さんや獣医師先生の参考になれば幸いです。
 

どんな病気であれ、躾の問題であれ、飼い主さんが納得できる方法を見つけられることを祈っています。
また、より多くの情報を提供することが出来る獣医師先生が増えてくださることも祈っています。

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2019年10月13日 (日)

リブレ(血糖値の経過観察)その1

このブログには、1ページあたり写真は10枚の制限があるようなので「その1」と「その2」に分けました。
内容も分けました。
1は、やることになった経緯や服を着せてみたらどうだったとか。
2は、数値(血糖値)がどうだったのか。


ばまちゃんは糖尿病。
糖尿病とは尿に糖が出る病気。尿に糖が出れば糖尿病。何処がどう悪いのかは色々ある。
人間の場合、色々検査してその原因を調べ、きめ細かい対応をするみたいです。

猫の場合そこまで出来ないみたい。その理由が色々あることは私自身も理解出来てきた。ある意味、諦めモード。

糖尿病と診断され、インスリンを毎日打つようになってから5年くらい経つ。最近、激しく咳き込むことや吐くことが多くなってきた。今まで以上に動かなくなってきた。「年だから」とはちょっと違うのではと思っていたが、どうしようもないかなと思っていた。


そんな時のこと。
もう半年くらい前だろうか、もっと前かも。

ラジオを聞いていたらタイトルの商品の話が聞こえてきた。人間用である。
ゲストの方が実際に着けてみたら、一日の内の血糖値の変化に驚いていた。何気なく「猫にもできたらな~」と思っていた。
オフィシャルサイトがあるのですが医療関係者以外は見てはいけないらしい。
http://www.myfreestyle.jp/

人間のレポートアがあったので参考まで。
http://www.fukuyamabingo.info/entry/2017/02/06/205148
http://www.fukuyamabingo.info/entry/2017/03/02/223104

グラフが青い帯の中に入るように調整するのが基本らしいです。


おばまが病院に行くのは2ヶ月に一回くらい。半年くらい前、先生に「こんな話を聞いたけど、猫には無理ですよね~」と冗談半分で言ったら「それ、今、勉強しています。近い内に使ってみようとおもいます」と。


なんだかんだと半年くらい経ってしまいましたが、9月の中旬から下旬でやることになりました。
毛を刈った所にバツンと着装。音に驚くかと思ったら驚かなかった。着けて気にするかと思ったら気にしなかった。

2019libre_a  2019libre_b

舐めたり齧ったりすることを考えて着せた服も気にしなかった。

2019libre_c  2019libre_d  

人間のレポートにあるように、装着したら1時間待つ。病院で一時間待ち、血糖値が測定出来ることを確認したら、家に帰ることが出来る。
この日、普通の血糖値の血液検査もした。その値とほぼ変わらないので「正確なんだな」と確認できた。


家に帰ってからは、いつもの病院帰りの行動と同じ。服やリブレを気にする様子は全くない。
お腹がポッコリなので、服がまくれ上がり、リブレを舐めてしまうのではないかと心配もしたが不思議なくらい気にしなかった。

夕方、インスリンを打つにあたり困ったことがありました。背中が覆われているので首の後ろに打てない。
先生に確認したら「穴開けてください」とのこと。服を持ち上げてハサミで切ればいいらしい。その通りにやったらちょうどいい穴が開きました。

2019libre_e  2019libre_f
こんな感じで2週間、血糖値の経過観察をしました。

リブレ終了後、バツンと着けたものを外したのですが、針の長さに吃驚。
刈ったところでも、貼っていない場所は毛が生えていましたが、貼った所は毛がほとんどありません。毛が生える猫の場合、2週間前に数値が出なくなることもあるとか。ばまちゃん、いい子だ!

2019libre_g  2019libre_h

服の姿が可愛いし、すぐに脱がすと舐めるかもしれないとおもい、リブレをはがしてから三日間服を着せていました。
脱がせる時は、ちゃんと脱がせるのは面倒なので、ハサミで背中側をジョキジョキ切る。あとは脚を抜くだけ。
切っている時も気にしない。背中側を切り終わって前脚に引っかかっている服も気にせず、そのままで10分くらい過ごしていました。その後、何事もなかったように立ち上がり、歩きだして、抜けました。
脱がしても舐めることもありませんでした。

下は、10日くらい経った時の写真。やはり貼った所はあまり生えていません。
でも気にする気配なし。

2019libre_i  2019libre_j

今回のことで、おばまの毛が厚いことがよく分かりました。

その2 へ つづく

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2019年10月 7日 (月)

犬種特性

つい先日、犬の繁殖業のことについて書いた(とても驚いたこと(後書きブログ))。長編なこともありますが、何度も書き直している間に「犬のことに興味を持っている人たちに読んで考えてほしいな」とおもった記事がネットに載っていた。
残念なことですが、時間が経ったら2ページ目が会員登録しないと読めなくなってしまった。
ですが備忘録として、このブログに書いておきます。

 

昨今の日本では犬や猫の殺処分数が話題になることが時々あります。以前はなかなか一般のニュースにはなりませんでした。

この問題を議論するとき「問題行動」がテーマになることがあります。ここでは「攻撃性」とは書きません。攻撃性について焦点に絞って語りたがる人が少なからずいらっしゃいますが、それだけではないし、攻撃性の定義についても人によって違うようなので、ここでは人間に対して「問題」になる「行動」として話をしたい。

以前SNSで(殺処分数の話題の中で)犬の攻撃性について話し合っている人たちがいました。その中に「産まれて来る時は皆同じ。その後の環境で変わってしまう(攻撃性を獲得する)」と書いている人たちを見た。ここまで犬を知らないことに驚いたが、日本人の中には少なからずそのような人たちがいるのかもと思ったりもした。

ただ殺処分の問題を論じるのなら、それなりに調べた上で発言していただきたいものである。

 

そのような人たちに読んでいただきたい記事が以下のもの。

イヌは品種によって脳の構造も違う、お役目と関連
品種改良で「脳の進化が急激に進んだ」と研究者
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/090400515/

 

動物の基本的なことを学んだことがある人は「時間の無駄だった」と感じるかも。
人と身近な動物の関係を学んだことのある人なら「えっ、今更?」と感じたかも。

この記事の中で面白いと思った言葉があります。

「偽の動物」
(内容が2ページ目に書いてあります。公開当初は登録しなくても2ページ目が読めました。今は読めない・悲)

では「本物の動物」って何?、そこをちょっと考えてみていただきたい。

(英語で云うところの)「野生動物」と「家畜」の違いについて学び、それらどちらにも接した経験もあり、犬が産まれながらにして(野生動物との違いは勿論のこと)多くの「家畜」とも違うことを体感している人であれば、「偽の動物」の意味は感覚的にも理解できるとおもいます。

 

ついでにもう一つ。
アメリカ教育省が1993年に定義した「ギフテッド」という言葉をご存知だろうか。
人間の話です。産まれてきた時にもっているものがあり、多くの人とは明らかに違う人のこと。WikiPediaはこちら
「産まれて来る時は皆同じ」ではなことが、今の世の中の定説になっています。

他の動物と同じだった犬が、今の犬になった歴史を考えてみます。
(偽の動物である)犬になる前の状態から、犬になるまでの間、人間によって選択繁殖されてきただろうことを想像する人は多いとおもいます。
どのような選択繁殖か?
人間とのコミュニケーション能力に長けている能力、その意味での「ギフテッド」の犬を選んできた。訓練(人間の言葉もどれだけ発達していたか分からない時代に、動物の訓練なんてあったとしても大したものではないはず)しなくても人間とコミュニケーションがとれる個体を選択繁殖したのだろう。
「選択繁殖」と書くと固く聞こえるかもしれない。こう書けばいいかな。

自分ととても分かり合える動物に出会った。その動物の子供欲しいとおもって子供をとった。

こいうことだ。

 

話がどんどん逸れてきたので、思いっきり逸れてみたいと思う。
冒頭に紹介した先に書いたブログの続きのようなこと。

このような(選択繁殖の)積み重ねが、今の犬となっている。
その副作用が問題行動や遺伝性疾患。
(野生における生存競争のような)外的要因全てを考慮した生命力ではなく、人間とのコミュニケーションを優先した選択繁殖なので、そのようなことになってしまうのだろう。

繁殖業のプロの人たちは、このようなことが感覚として身についている人だ。
人間がやってきたことの積み重ねによるリスク、自分が行うことによるリスクも重々承知。
素晴らしいとおもう犬の子供と暮らしたい。勿論、繁殖した犬に一生について責任をもつ。譲った犬に対しても。
どれだけ大変なことか分かっているが、繁殖した全ての犬の一生を知らなければ、素晴らしい犬がなんであるかさえ分からない。ただの自分勝手な「好み」になってしまう。そのことも理解している。だからオープンな場であるショーにも顔を出す。

 

多くの犬の一生に携わる。
犬が産まれる前から携わり、その一生を知り、思い出になったその後も。
さらに客観性も備えるように気を配る。

繁殖業とはそのような人たちであるはず。

 

英語では、ブリーダーに対してパピー・ミルという言葉がある。長年、この言葉を(マスコミが)どう訳すか悩んでいたようですが3年くらい前から「子犬工場」とすることが一般的になってきた。
子犬を作り出し商品として売る。ほとんどの場合(命のない商品と同じく)最終購入者とは接しない。それで良いと思っている最終購入者がほとんどだかから。
最終購入者(飼い主)の意識が変わらない限り、根本的な解決に繋がらないと私は感じている。

 

紹介した記事の2ページ目の最後に書かれていること(IDを取得しないと読めないことなのでここにはコピペしませんが)が印象的でした。
私の言葉で言い換えれば、

人間は周囲の環境をより暮らしやすいものにしてきましたが、他の動物の脳をも変えてきた。だから今の人間に暮らしやすい世の中がある。その代償もあるはず。それを認識しつつ恩恵を享受すべきだろう。

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2019年9月21日 (土)

見識と識見

※見識と識見の認識が逆ではないか?、とのご指摘を受け、改めて調べましたが正直なところ分からなくなりました。
とりあえず、以下の文章は「勘違い文章」として読んでください
はっきりとした違いは分かりませんでしたが、文末に参考になりそうなことを追記しました。「動物の愛護及び管理に関する法律」で使われるべくして使われたのだろうと思いましたが「たぶん、こうだろうな」程度のことしか書けませんでした。 m(_~_)m
見識と識見でお悩みの方は、文末をご覧ください。

 

何年前のことか忘れてしまっていますが、愛玩動物飼養管理士の勉強をしていて「動物の愛護及び管理に関する法律」を読んでいた。
その中に「識見」という言葉が出てくる。その条文は、末尾にコピペします。

ネットの中にある広辞苑で調べると、大した違いはないように書いてある。
なので「ふ~ん、じゃ、なんで逆さにするの?」と程度に思っていた。

最近、やなせたかし先生の「アリスのさくらんぼ」という本を読んだ。短編集といえばいいのか絵本なのか。絵と文がある作品集です。
ご本人もなんと呼べばいいのか悩んでいたら、誰かが「やなせメルヘン」と名付けてくれたので、そういうことにしているらしい。

この本の中に「識見」という単語が出てきて、改めて調べてみた。

 

本題に入る前に、この本の紹介。
幾つかの作品がり、目次には各作品の簡単な説明が書いてある。

正確に書くと「目次」とは書いていない。「表題と内容早わかりガイド」とタイトルがあり、その横には

とりあえず短い時間で立ち読みする人、あるいは手取早く内容を知りたい人、または読まないで批評文をかく人の為の親切ガイド、でなければ読む前の胸おどる予告編。

これを読んだだけでも、一つのことを幾つもの視点で見ようとする人であることが分かる。世の中には色々な見方の人がいることを常に意識している。

この目次のようなもののはじめに出てくるのが、本のタイトルにもなっている「アリスのさくらんぼ」。その「内容早わかりガイド」は次のようになっている。

たとえばビフテキを喰べながら動物愛護を説く人にこの一編を捧げる。

これを見て、読んでみたくなった。

本全体を一通り読んでおもったことは、どの作品も誰かがやっていることにどう見るかがテーマのようだ。

 

アンパンマンが出てくる作品もある。まだアンパンマンが有名になる前。
この本の「あとがき」の日付は、一九七三年十月 となっている。

タイトルは「飛べ! アンパンマン」。
アンパンマンは(本の中で)実在し餓死しそうな子供たちを救っている。顔を食べられたアンパンマンは「なくなってしまうが、何度でも生き返る」。彼の姿は「漫画を描く才能のある人間にだけしかみえない」。
この活動を知った主人公はアンパンマンのことをかいて編集者にみせるが「こりゃあ、ダメですよ。」と言わる。子供にみせれば「全然、面白くないや、」。

人知れず子供たちを救い続け、自分は何度もなくなってしまう。ほとんどの人はその姿が見えず、見えた人が他の人に伝えても悪口ばかり言われてしまう。主人公は考える。

君はいうだろう。
「だれもしらなくていいおれは好きでやっているんだ。おれがやらなくて誰がやるのかね」と。

やなせ先生が有名になった後、行政の仕事を格安または無償で行うこともあったと聞く。この話を読んでいて、そのことを思い出した。

 

この本の中で一番長いのが「はだかのワニ」。
ある夜、流星らしきものに運ばれ空からワニがやっきて、アル島でのんびり暮らしていた。そこに年をとったターザンがやってくる。昔のスターが大通俗娯楽冒険ストーリィを大熱演して見せる。純情可憐、素朴実直なワニはスターに憧れ、ターザンからレッスンを受ける。
そんなある日のこと・・・
洪水がやってきて流された先は街。そこで皮を剥がされ、はだかにされてしまう。はだかにされたワニと出会ったテンプラア博士は新種として発表し、テンプラアーノ・カキアゲーノ・ゾオルスと命名する。そしてワニはスターになる。

そこでの一節。

 国家としてこれを見のがすわけがない。現代では政治的識見よりも人気が先行する時代で芸能人が大臣になろうかという風ですから、たちまち国立ゾオルス記念館をつくってそこにはだかのワニを入れたのです。

この作品はそこそこ長い。皮を剥がされてしまうまでも、スターになるまでも、スターになってからの日々も丁寧に語られている。それはら誰にでも起こりそうな災難ですが、誰が悪いとは言い切れない。「そういう世の中だから」としか言いようがない。それにより、純情可憐、素朴実直に生きている者たちは翻弄される。ワニを通して現代社会の生きづらさを綴っている。

しかし、ラストは御伽噺的に幕を閉じる。話としてはまとまる。しかし「これは実社会に置き換えられないな」とおもってしまう。

それに対して、アンパンマンは終わらない。
先ほど引用した行に続き、次のような一文で作品は終わる。

 しかし、おぼえておいてほしいんだ。世界中でたったひとりぼくだけは熱烈な君のファンだよ。たとえ誰もよろこばなくても、編集者は反対しても、ぼくは君の物語をかきつづけるよ。

先にも書いたが、この本のあとがきの日付は「一九七三年十月」となっている。現在、誰でもしっている「それいけ!アンパンマン」は、1975年に出版される。

 

(やっと結論)

「はだかのワニ」をお話の構成上まとめ上げるために、完全に終わらせる形をとったのが作家としての「見識」によるもの。
アンパンマンを(物語の終わりらしく)終わらせず、書き続けると意思表示したのが人としての「識見」。
こんな感じなのだとおもう。

Google で「見識と識見の違い」で検索すると幾つも出てくるが、中には広辞苑のことから「大して変わらない」と書かれているものもある。
「違うんだ」と書かれているものとして以下を紹介しておく。
https://senemon.exblog.jp/15673000/
小説や文学作品で使われている箇所を抜粋しているページ
http://kotoba.quus.net/syousetu/%E8%AD%98%E8%A6%8B/

 

冒頭に書きましたが、私が「識見」に興味をもった「動物の愛護及び管理に関する法律・第三十八条(動物愛護推進員)」をコピペしておきます。
======================
動物の愛護及び管理に関する法律
第三十八条(動物愛護推進員)
都道府県知事等は、地域における犬、猫等の動物の愛護の推進に熱意と識見を有する者のうちから、動物愛護推進員を委嘱するよう努めるものとする。
2 動物愛護推進員は、次に掲げる活動を行う。
一 犬、猫等の動物の愛護と適正な飼養の重要性について住民の理解を深めること。
二 住民に対し、その求めに応じて、犬、猫等の動物がみだりに繁殖することを防止するための生殖を不能にする手術その他の措置に関する必要な助言をすること。
三 犬、猫等の動物の所有者等に対し、その求めに応じて、これらの動物に適正な飼養を受ける機会を与えるために譲渡のあつせんその他の必要な支援をすること。
四 犬、猫等の動物の愛護と適正な飼養の推進のために国又は都道府県等が行う施策に必要な協力をすること。
五 災害時において、国又は都道府県等が行う犬、猫等の動物の避難、保護等に関する施策に必要な協力をすること。

 

==========

(以下、後日追記)

先に「識見」について以下のページを紹介しました。

小説や文学作品で使われている箇所を抜粋しているページ
http://kotoba.quus.net/syousetu/%E8%AD%98%E8%A6%8B/

同様に「見識」が使われている箇所を抜粋したページがこちら。

https://kotoba.quus.net/syousetu/%E8%A6%8B%E8%AD%98/

この2ページを見比べて、私がおもった違いは以下の通りです。

見識は日常会話でも出てきますが、基本的に一般人が関わる範囲でのことのような気がします。
その人が身につけた知識や教養と、人柄からくる行動を評価する時に使われているような気がします。評価される行動はその人が自身のために行ったものであり、結果として他人に影響もでる程度のものを評価するときに使うようだと感じました。
ある意味人間性の評価でもあると考えられます。

識見は、政治家や将軍、学者や芸術家など(一般人とは違う)プロの中のプロ(勿論知識や教養は身につけているが、その世界のトップレベルの人たち)が行う判断や作り出される作品を評価する時に付随的に用いられ、それらは不特定多数の人に影響を及ぼすことが前提にある行動・行為・活動のような気がしました。
対象になる(評価される)行為や作品はとてもレベルの高いものですが、その人たちにとっては(人間性や感情よりも)とても豊富な知識・経験から産み出される(凡人には理解できない、普遍性かつ先見性をもった)行為・作品であり、発表され世に出ることが前提(本人がそうおもっていなくても世間が注目してしまうことも含む)の事柄を評価するときに使われるようです。
その人が「凄い人」と思ってしまうと「見識」と区別がつかなくなりますが、世に出るもの、他人に作用するもの、のレベルの高さを評価することが基にあり、そこからその人を評価しているように思えてなりません。

私にとって分かり難いのは、私のような凡人には「識見」と呼ばれるくらいの知識・経験がどれほどのものなのか理解できない。
また、私自身が「不特定多数の人に影響を及ぼすことが前提にある行動・行為・活動」なんてことを経験したこともなければ、身近で見たこともない。

 

こんな感じであれば「はだかのワニ」に出てくる「政治的識見」も、「動物の愛護及び管理に関する法律・第三十八条(動物愛護推進員)」に出てくる「愛護の推進に熱意と識見を有する者」も辻褄があるような気がしてきました。

ネット上には、以上のような理解を書いている人はいないようですが、私的の理解はこんな感じでした。

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2019年9月10日 (火)

2019年 台風15号

今回のは今までのと明らかに違うので備忘録。

「東京に凄い台風がやってくる」とニュースなどでも伝えられていましたが「大丈夫だろう」とおもっていました。
前夜は深夜2時過ぎに就寝。
「雨も風も強いけど騒ぐほどのことはないんじゃない?」とおもっていた。

朝、起きるともう台風は過ぎ去っていた。
ネットで天気予報を確認すると、この後、もう一度少し雨が降って、その後は猛暑らしい。

家の中でダラダラ過ごし洗濯をする。
洗濯機が止まったのが10時頃だったとおもう。そしてベランダへ。

「うわっ!、これは初めて!」と驚いた。ベランダに出しておいたコンテナボックスが動いているし、一つはひっくり返っている。(文末に写真)
もう20年以上出しているが、こんなことは初めてだ。
ひっくり返っているコンテナボックスを起き上がらせて中を開けてみると、中に水が入っていた
中のもを出して被害を確認。干したり、拭いたりすれば大丈夫なものばかりだった。一つだけ、可愛いマットが入っていたが、適当にビニールテープ袋に包んでいただけなのですが、濡れていませんでした。

中のものを確認した後、ベランダに並べて、まず洗濯ものを干す。
そして、コンテナボックスの中にあったものを拭いたり、乾かしたり。

ベランダへ出たり入ったりしたときに、この窓から随分と家の中に雨が入ってしまったことに気が付く。
被害が大きかったのは、カーテンとアイロン台。これだけでよかった。

 

家の中のことを凡そ把握したら、外に出てみる。
玄関に行く前に小さなドアがあるのですがここから随分と水が吹き込んだ跡がある。
玄関ドアからも随分と吹き込んだみたいだ。

草木が多少乱れているくらいだとおもったら、一本の木が見事に曲がっていた(文末に写真)。これも初めて。
その木の下にある小さなドアも、まるで蹴破られたように外れていた

細かく見て回れば、もっと多くの被害があるとおもいますが、分かると怖くなりそうなので、やめておきました。

 

東京にもこんな台風がくるようになった。
異常気象と言われますが、確かに変わってきているとおもいます。

20190909a 20190909b

<追記>
翌日(9月10日)、駒沢公園を歩いていたら、公園内の広い道に大きなクレーンが入っていました。その先を見てみたら、マンションの三階くらいから五階くらいまでのベランダの手すりやボードがひしゃげて、その辺りに緑色のものが付いていました。
公園の木が倒れて、マンションに直撃したようだ。
一室からは、不安そうに公園方面を見ている人の姿も見えました。

確かに今までにない大きさの台風だったようです。

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2019年9月 6日 (金)

藤城清治美術館

我が家から駒沢公園を越えて、九品仏方面に抜ける道の途中に「深沢」という交差点がある。もう五年くらい前かもっと前に、突然「藤城清治美術館」の看板が出来た。
「どこにあるのだとう?」と見たら那須高原と書いてある。「何故、那須の美術館の看板が?、ここに在っても意味がないのでは?」とその時はおもい、その後は素通りするようになった。

 

先日、那須の藤城清治美術館に行かねばならぬ用事が出来た。スルーしようと思えば出来たのですが成り行きとして行くことにした。

私の中の藤城先生と言えば、東京電力のCMくらい。ケロヨンのプロデュースのことも後から知った。その程度だった。

 

美術館の駐車場に着いた時、雨が少し降ったりやんだり。大きな門から林の中を歩く。まずチャペルがある。ステンドグラスが(私的基準で)素敵というより不思議な感じ。微妙なナウさのデザインと色彩。決して、クールやヤッベーではない。微妙なナウさだ(私的基準)。懐かしさがある。

さらに林の中を進むと池があり、その向こうに美術館がある。

建物に入ると、まず入館券を買う。自動販売機ではない。
発券の男性の方が、熱っぽく館内について説明してくださる。トイレの天井や一番奥の合わせ鏡のコーナーを強く薦められた。
この時も「東京電力の切り絵しか知らないしな~」程度にしか思えなかった。

トイレと売店の横を通り、廊下のような所に、自画像と猫の絵、それと若い頃描いたの絵(の写真も)があった。
このとき、「この人ヤバイ人だ、この人のものは観ないといけない」と直感した。
そして「もしかしてヒグチ先生って、藤城先生の影響受けているの?」と頭に浮かんだ。全く対局と思われる画風なのですが、猫の捉え方が似ているなとおもった。

館内を進み「白いねこの女王さま」を見たとき(私は白いねこの女王さまを除いて見ていました)に「えっ、え、えーーーー、この雰囲気って・・・・」と心の中で叫んでしまった。
(宗教画コーナーにあったノアの箱舟の後に、被災地コーナーの共徳丸の絵が来るのも不思議な感じもありましたが)その先にあった、ケロヨンのコナーを「うわぁぁぁ~~~」と目をひん剥いて見てしまいました。ケロヨンにこんな趣味があって、こんなことをやっていたとは!、センチュリーのV8エンジンを積んだこの車でレースって、、、、。(ごめんななさい。個人の感想です。)

この話の続きとして、一通り観て回って、売店に戻ってきたらmoe(絵本の雑誌)の2019年1月号(ヒグチ先生がメインで特集されていて、藤城先生も特集されている)が販売されていた。「やはり影響を受けているのか!」とおもって購入し読んだのですが、そのような内容はありませんでした。
やはり個人の「おもったこと」(素人の勘違い?のよう)です。

私は、ヒグチ先生のこともよく知らない。女房がヒグチ先生を好きでボリス絵日記を読んだりしていたので、たまにそれを私も読んだりした。また、何処から手に入れたのかシールが持ち物に貼られていることもあった。
そんな女房に誘われて、今年二月に世田谷文学館で開催されたCIRCUSを観たくらいで、深くは知らなかったが、このCIRCUSを観たときも「日本にもこんな凄い人がいたんだ」とおもったものでした。

両先生とも深くは知らない私が、猫の絵とレースから共通点を感じるなぁ~とおもった話でした。
なんの話かよく分からない人がほとんどだとおもう話はここまでにします。
(館内の配置は変わるかもしれないので、上記の順番ではない時もあるかもしれないし。)

 

冒頭にも書きましたが、私はこの美術館に特別の興味をなく訪れました。しかし、入って直ぐに自画像、猫の絵、そしてもう一つのテーマの絵を見て、一般的な芸術鑑賞以上の特別な興味を持ちました。moeに記事が載るように絵本的な要素(優しく分かり易い)が多分にありながら、人間のとても根源的なものに突き動かされながら(喜怒哀楽その他の混沌とした感情を自分の中で否定せず)創作活動を続けていらっしゃる先生なんだろうな、と感じました。また、表現方法について(影絵という手法によるもの以外にも)慎重にならざるを得ない何かがありそう、とも感じた。

 

それらを強く感じたのは、軍艦島や被災地の絵だった。
気仙沼の共徳丸の他、福島で防護服に身を包みデッサンしている写真もあった。そのデッサンで作られた作品には、宮沢賢治の言葉が添えられ、平和への願いを強く感じた。

絵本は空想・架空の世界で、被災地の作品は現実を模写し作られている。
それらには明らかな違いがありますが、どの作品も平和を願い、各個人(人に限らずです猫その他生き物もですが)が輝ける世の中を願っているのだろうなと思わざるをえませんでした。

 

館内はテ-マ毎の展示であり時系列には並んでいないと思いますが、表現方法が少しずつ変わっているのを感じた。最も奥の(発券の方が熱く語っていた)合わせ鏡の作品群は一つの到達点だろう。難しいこと抜きに楽しめる作品でもありますがが、これらの作品にも平和への願いを感じ、その意味でも到達点なのかも。

キリスト教との関わりからなのか、生きてきた時代的なものなか分かりませんが、今後も注目したいなと思える先生です。
1924年(大正13年)生まれの(2019年9月)現在、95歳。ピカソ画伯よりも長生きで、現役です。

 

素敵な美術館なので、改めてゆっくり訪れたい。

決して大きな美術館ではないので、平日のオフシーズンに行かれることをお勧めします。
観光地である那須を楽しみ、その中に少し時間を多めに割いてゆっくり回るのが良いかとおもいます。

先生は(極めて個人的に感じたことですが)とても個性的な方だとおもいますので、人によっては好き嫌いがあるかもしれませんが、50代以上の人であれば、想い出すものが幾つかあるとおもいます。
建物を出てから門までの林の中の道が、その余韻を楽しませてくれたりもします。

林の中のチャペルも、往きに見た時と帰りでは印象が違いました。微妙なナウさは、人を引き付ける普遍的な表現と力強い平和への願いを感じました。

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2019年8月31日 (土)

亡骸をどうするか(個人的な考え)

ブログなんて個人的な考えの塊であることは分かり切ったことがですが、たぶん「それって一般常識から離れ過ぎ」と思われる方も、少なからずいらっしゃるとおもいますので「個人的な考え」と前置きしておきます。

 

先日、こんなFacebookの記事を読んだ。
なるほど、こうやれば効率がいいというか、迷惑もかけないし、しっかり自然に帰るんだろうな、と納得した。
記事を書いている方とは知り合いではなく、どのような方なのか存じ上げません。偶然、この記事を読みました。

まず思ったことは「これを風葬呼ぶの?」ということ。
日本の幾つかの島での葬儀の方法を聞いている私としては違和感をもった。

Wikipediaで風葬を調べる。Wikipediaに書いてあるのは人間の場合ですが「風にさらし」とあるので、やはりちょっと違うような。でも、そんなことはどうでもいい。
沖縄のことも書いてある。私が沖縄に居た時に聞いた話とは違う部分があるが、そうしないとならない理由も分からないでもないので気にしない。

 

子供の頃、「墓」は自分に関係のない迷惑なものくらいに感じていた。父に連れられて行く墓参りにいい思い出がない。
成人して「そのうち自分も墓に入るのだろな」とおもったら、なんだか嫌になってきた。

若い時に、幾つかの土地で仕事をしながら滞在したことがあった。一ヶ月の場所もあれば半年以上の場所もあった。
島へ行き、ある程度島の人と仲良くなると、死体をどうするかという話になった。今、考え直してみると、私が滞在した時期がちょうどお先祖様が帰って来ると言われる時期であったからだとおもう。

Wikipediaの風葬を読むと、日本に於いて火葬をしなかったのは、少なくとも50年以上前のように読めた。私がお世話になった小さな島には火葬場はなかった。大きな島の病院で亡くなれば火葬となるが、私が居た島では高齢者でも島に残る人もいた。
そこで昔(50年とかではなくてもう少し最近)はどうしたかという話を聞いた。風葬の所もあった。風葬であっても墓が存在する。しかし自然に帰る部分も多い。

「墓」が好きになれない私は、風葬に魅力を感じた。

 

(ここで余談)
10年くらい前だろうか。
家の前のアスファルトの道にメジロが死んでいた。このままでは車に轢かれてしまう。以前、スズメが轢かれてペシャンコになった姿はなんとも哀れだった。
なので、我が家の庭とも呼べない建物と塀の間の場所に運び、地面を少し綺麗にならして横たえてあげた。
この場所は、アナグマの記事中にあるような微生物も多々いる場所で、菌類やミミズ、ナメクジ、ダンゴムシ、蟻、蜘蛛、ヤスデ、その他多様な生き物が生息している。ナメクジが増えた後にコウガイヒルが居ついていたこともある。
初夏の晴れた日だったと思う。メジロを横たえた後、どうしたものかとおもっていた。そして一時間くらい放置して見に行くと、小さな蟻たちがメジロの周りから土の粒の毛布を掛けてゆくように覆い始めた。三時間もすると綺麗な土饅頭のようになり、その下にメジロの骸があるとは分からなくなった。
それから何日を要したか覚えていないが骨もなくなった。全て自然に(命の循環に)帰ったのだ。
この時の感情を何と表現していいのか分かりませんが、たぶん「羨ましい」が近いのかもしれない。
(余談ここまで)

 

三年くらい前だろうか。長野県の南の方を車で走っていた。同乗者が急に、元善光寺に寄りたいと言い出した。
そこで九相図のようなものを見た。このとき九相図というものを知らず、後からそのようなものがあることを知った。(Wikipediaのページはこちら

そして小野小町の老後といえばいいのか、死との向き合い方を知る。

更に、日本に於いて、市井の方々が亡くなった場合、火葬し埋葬することが義務の当たりなったのは、遠い昔ではないことも知る。
飢饉などがあると死体があちこちにゴロゴロしてよろしくないので埋葬するように、とお達しが出るようになったとか。それから誰でも何らかの形で埋葬され、私が産まれた時代では墓地の墓に入るのが当たり前だった。
この30年くらいだろうか。子供がいない(=墓守がいない)者が増えたからか、散骨そして樹木葬が広まりつつあるのを感じる。

それらは火葬が前提のようですが、個人的な考えとして、そのまま動物や微生物に喰われて自然に帰りたいとおもうこともある。

ならば検体や臓器移植がいいのかも。

 

元の記事に関連した話。

車で旅行をしていて、動物の死体に出会うことがある。
はじめの内は、車を止めて端に寄せてそれ以上のことは出来ないかと考えたこともあるのですが、その周りの土地は(山の中であっても)私有地だろうから、道の近くの土の場所に運ぶのも気が引ける。だからと言って、車に乗せて一緒に旅をするのも気が引ける。結局何も出来ないのがもどかしい(動物愛護法に従い通報すればいいんですよね)。
 

またまた話は変わります。

自宅の周りでも、動物愛護法の大改正施行(2000年)以後は道路で事故に遭った犬や猫の死体を見る回数がどんどん減ったとおもいます。最近はほとんど見ません。

 

これまた「とても個人的な考え」ですが、死体、つまり死そのものと直面する機会が減るのはいいことなのかな、とおもうことがあります。
人が死を嫌う理由の一つに(身体的・精神的)苦痛が伴うだろうということもありますが、死や苦痛がバーチャルなものとして感じる人が増えたような気がします。つまり苦痛という感覚について考えない人が増えたような気がします。とにかく、現実の死については、とても距離をとっているように思えてなりません。

もちろん、道路で犬や猫、メジロやスズメが死んでいるのがよいとは思いませんが、何か直面する機会があった方がよいのではとおもえてなりません。
昔は三世代世帯が当たり前だったし、家で息を引き取るのも当たり前だった。なので子供も死に際に直面した。
と、書いている自分も、その後の世代で核家族で育った。祖父母の死に際には立ち会っていません。記憶を手繰ってみても、誰か(人間)の死のその時に立ち会ったことはないかも。

亡くなった直後に病院に駆け付けたら、病室から霊安室に移され、すぐに葬儀の話になったことは記憶にあります。これは気が紛れていいとおもったこともありますが、その通り「紛らわしていて」受け止めることを避けているのかも。

そんなことを考えると、火葬場のない小さな島で高齢で亡くなることは、それだけでも価値のあることなのかも。

 

以上、散らかった文章になってスミマセン。
「個人的な考え」でした。

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2019年8月28日 (水)

いただきもの(桃、梨、水羊羹、アーモンド)

お世話になってばかりで、何もお返しが出来ない人間の備忘録。
宝くじで1億以上当たったら、お返ししよう。

 

先の土曜日、昼から出かけていて帰りは夕方。その途中、とあるターミナル駅で電車からバスへの乗り換える。7~8分行列に並び、上手いこと座席に着くことが出来た。乗車時間は約30分なので座れると嬉しい。
席に着き、タブレットを開き、何か連絡が入っていないか確認する。「おどろき、送りました」とある。
「おどろき」って何?、と調べると桃であることが分かった。すぐにお礼の連絡をして桃の到着を待つ。

次の日、日曜日の午前中に届いた。

20190827a 20190827b

冷やすといい、と書いてあるので冷蔵庫に入れる。
晩御飯の後に食べることにして、昼食は外食に出かけた。
 

外食から帰宅し、のんびりしているとまたまた荷物が届いた。今度は梨である。
毎年いただいているので、こちらのブログで見たことがある人もいるとおもう。富山県の呉羽梨。
こちらも、冷蔵庫で保存するようにと書いてある。

20190827c 20190827d

 

う~ん、、、、入らない。
こういう時は、ご近所さんにお裾分け。
そしたら水羊羹をいただいてしましまった。「極上本、水羊羹」と書いてある。
羊羹一本なので、これなら冷蔵庫に入る!

 

その晩、何から食べようかと女房と相談。
実は女房が金曜日にパウンドケーキをいただいてきて、土曜日に開けてしまっている。これも食べないといけない。
水羊羹は急がなくても大丈夫みたい。梨の方が数があるので梨にしてみました。
美味しいです。甘いです。今年は特に甘いです。今年は当たり年(少なくとも私に届いたものは)。

呉羽梨とは、富山市にある呉羽丘陵で採れる梨のことで品種ではないようですが、幸水がほとんどみたいです。
今回送っていただいたものは、庄司梨園というところからでした(Facebookにページがありました)。

ご興味のある方はネットで調べてみてください。
生産量が限られているようなので、時期がずれると入手できないかもしれませんが。

 

次の日の晩、おどろき桃を食べる。
この桃の説明は「バリっとした触感」とある。桃で?、とおもいながら、まず皮をむく。
ペロンとはむけない。リンゴの皮のようにむいていった。
むきながら一つ食べてみる。やはり硬い。でも甘い。
このももの特徴は大きいこともある。確かに大きい。

いい加減にむいた桃を皿に入れ、女房と食べる。大小色々、形も色々。
食べるのが早すぎたのかもしれない。硬さ(柔らかさ?)が場所によって違う。味も場所によって違う。甘味の強いところ、いい感じで酸味が入っているところなど。
考えながら味わうことに慣れている人向きだとおもった。

硬くても美味しいのですが、何故か素直に受け入れられない自分を不思議におもって考えてみた。
子供の頃、本物の桃を食べたことがないような気がしてきた。食べたのは桃缶。あのトロトロ&甘々が自分の中の「桃」になってしまっているのかも。

ご興味を持った方は「おどろき、桃」で検索すると見つかるとおもいます。

 

桃を食べた次の日は、アーモンドをいただいた。
このアーモンドは時々いただくのですが、好みのものなので嬉しい。

 

いただいてばかりでお返しが出来ない私です。
いただきものがこんなにあることは、年に1~2回しかないのですが、忘れてしまう私です。
宝くじが1億以上当たったら、お返ししますので、そのときをお待ちください。

そのための備忘録ブログでした。

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2019年8月16日 (金)

GIMP(無料画像ソフト) インストール

「犬とゆく」を運営している関係で画像編集ソフトを利用している。
写真の大きさを変えたり明るさを変えたり程度のことですが、慣れと便利さから(20年以上前から使っている)有料のものをたまにバージョンアップしながら使っている。
「犬とゆく」は全くの赤字なので無料のものでいいものはないのかと常々探していた。

やっと良さそうなものが見つかったので、インストールしてみました。
その時のメモです。

インストールは以下のページを参考にしました。

https://meemee.work/gimp-download-and-japanese/

ちなみに、GIMP は、GNU IMAGE MANIPULATION PROGRAM の略。
GNU をご存知ない方は WikiPedia が分かり易いとおもいます。難しい思想的なことや歴史的なことは知る必要はなく、利用者として、GNUのものはフリーソフトである、ことだけは理解しておけばいいとおもいます。

 

上記ページに従い(2.10.12 を2019年8月中旬)インストールしてみた。

ある程度日本語化されているとは聞いていましたが、それがどれくらいなのか心配でした(私は全くと云っていいほど英語が分からない)。
インストールはすんなりいきました。
初めて立ち上げるときに時間がかかり「インストールに失敗したかな?」とおもいましたが大丈夫でした。キノコの写真が出て来てからも時間がかかり、また心配(笑)
 

早速、ちょっといじってみる。
まず、使えるだろうとおもったショート・カットが使えない。ベースとなるOSが違うのだから当たり前か。

結構日本語化されているので安心した。

ちょっといじって画像を保存しようとしたら、XCFという形式でないと保存できない!、というのである。
そんなことがあるのか!HELPを開くが、だいたい日本語化されているが完全ではなく少々苦労する。検索も上手く動いてくれない。

Ctrl + Shift +e
これで「エクスポート」として保存できることが分かった。

一括処理はできないんだろうなと決めてかかったら、どうやら出来るようだ。
以下のページを参考にプラグインをインストールしたらページに表示してある通りの画面を出すことは出来た。
https://kenkyu-labo.com/gimp/waza26.html
この部分は日本語化されていないので、未だ使っていません

最低限のことは出来そうだ。
GNUのものは機能的に優れているとおもっているので期待しているし、多くの人が携わっているので幅広いことは出来そうだ。
時間があるときに使いまわしてみたい。

 

少しだけですが使っておもったことは「パソコンを使い込んでいない人にいいかも」。
自分の場合「Windowsならこうだよな」という思い込みが使いにくさの原因になっているような気がしました。

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