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2018年12月28日 (金)

(読書感想文)あのひの音だよ おばあちゃん

20181228a「100万回生きたねこ」(1977)で有名な佐野洋子さんの絵本。こちらは 1982年初版。

Twitter でちょっと話題になっていた(「バスる」とか云うそうですね)ので、読もうとおもった。図書館にあったので借りてみた。

Twitter でタイトルを知ったとき、「東京だよ、おっかさん」か?、と突っ込みたくなった。借りてきて何度も読みましたが、それでもこのタイトルには「何故?」という気持ちがある。
私に理解できることは、このセリフを喋るだろう登場人物は一人(猫だけど)しかいない。

 

主な登場人物は三人(猫二匹を含む)。
絵本の中では、雪に閉ざされた家の中での話が続く。期間は5~6年だろうか。話はいつも雪の中。
はじめは、何もできない「ねこ」と暮らしている「おばあちゃん」。そこに黒猫の「くろさん」加わる。
その登場人物たちを出会わせるのは、夜、雪に閉ざされた家にやってくる大きな豚。ピンポイントで登場。
登場人物はこの四人。

日々、平々凡々と、質素に、慎ましく暮らしている(人間の)「おばあちゃん」。
おばあちゃんと暮らしている名前さえない何もできない「ねこ」。おばあちゃんの家に来たとき病気だった。
「天でも天才」のなんでも出来る猫、「くろさん」。病気もしないらしい。
大きな豚は、大きすぎるので玄関には「おへそと おちんちんと 足」しか見えない。そして紳士でありながら、おばあちゃんに無理なお願いをする。でもおばあちゃんは「もしかしたら、あなた かみさま?」と手紙を書くこともあった。

幾つかの書評で、「天才」をどのように捉えるかを考えるようなことが書かれていた。
それは、あとがきによるものだろう。著者によるあとがきにそのようなことが書かれていた。「天才」についてと「凡人の幸せ」について書かれていた。

読む前からそのような情報が頭に入っていた私には、天才くろさんの置手紙の中にあった「ぼく さむいのが  とても にがてなんです」の一文に動揺した。タイトル同様、この一文だけは釈然としない。
 

絵本なので、猫たちを人間に置き換え、「身近に天才がいたら」とか「天才の人が凡人に囲まれて暮らすとはどういうことなんだろう」などと考えるのが一般的な感想なのでしょう。

 

私の感想は違った。


現代人が犬や猫と暮らす理由は何だろう。どのように共な「ともに暮らすイメージ」をもっているだろう。今はどのようなことが理想とされるのだろう。そんなことを問いたいように感じた(そんなの私だけだろけど)。

猫に期待することは、おばあちゃんのように平々凡々とした毎日を共に過ごしてくれればよくて、更に加えるとしたら、苦楽を共にしてくれている感覚が得られれば嬉しいとおもっている人が多いのではないでしょうか。

天才である必要はないし、何も出来ず病気になっても仕方がない。猫なんだから。
共に暮らしている人間のレベルによって、飼い猫の生活レベルが変わってしまうことも仕方のないことだとおもう。飼い主が困窮していれば、充分な医療を受けさせてあげられないかもしれない。高級な食べ物も与えられないかもしれない。それでもいい、というか、そういうものだとおもっています。

しかし最近の日本では、「それを許してはならない」と聞こえる声も耳に入ってきます。動物福祉とか言うらしいですが、私にはピンとこない。

飼い主が自分の感覚でなく無理をして「猫や犬に必要なことなんだ」と(必要なのか充分に理解できないまま、負担にも感じながら)行う行為に疑問をもつこともあります。
モノ(食べ物を含む)やサービス(医療を含む)をあるレベル以上与えることが出来なくても、「この人とこの猫は幸せそうだな」とおもうこともある。その逆もある。

私にとってこの絵本は、日本人が以前から持っていた身近な動物との生活における基本的な感覚・考え方の是非を問われているように感じました(そんなの私だけだろうけど)。

 

私は、家族(猫や犬を含む)のメンバーが、そこそこ不満なく日々暮らせれば良いのではないか、と常々考えています。

なので、くろさんの「ぼく さむいのが  とても にがてなんです」がとても引っかかる。

何もできない「ねこ」でも出来ることがあります。ミルクを温めて入れること。おばあちゃんとの日常です。

 

絵本ですから(笑)

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