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2018年12月28日 (金)

(読書感想文)あのひの音だよ おばあちゃん

20181228a「100万回生きたねこ」(1977)で有名な佐野洋子さんの絵本。こちらは 1982年初版。

Twitter でちょっと話題になっていた(「バスる」とか云うそうですね)ので、読もうとおもった。図書館にあったので借りてみた。

Twitter でタイトルを知ったとき、「東京だよ、おっかさん」か?、と突っ込みたくなった。借りてきて何度も読みましたが、それでもこのタイトルには「何故?」という気持ちがある。
私に理解できることは、このセリフを喋るだろう登場人物は一人(猫だけど)しかいない。

 

主な登場人物は三人(猫二匹を含む)。
絵本の中では、雪に閉ざされた家の中での話が続く。期間は5~6年だろうか。話はいつも雪の中。
はじめは、何もできない「ねこ」と暮らしている「おばあちゃん」。そこに黒猫の「くろさん」加わる。
その登場人物たちを出会わせるのは、夜、雪に閉ざされた家にやってくる大きな豚。ピンポイントで登場。
登場人物はこの四人。

日々、平々凡々と、質素に、慎ましく暮らしている(人間の)「おばあちゃん」。
おばあちゃんと暮らしている名前さえない何もできない「ねこ」。おばあちゃんの家に来たとき病気だった。
「天でも天才」のなんでも出来る猫、「くろさん」。病気もしないらしい。
大きな豚は、大きすぎるので玄関には「おへそと おちんちんと 足」しか見えない。そして紳士でありながら、おばあちゃんに無理なお願いをする。でもおばあちゃんは「もしかしたら、あなた かみさま?」と手紙を書くこともあった。

幾つかの書評で、「天才」をどのように捉えるかを考えるようなことが書かれていた。
それは、あとがきによるものだろう。著者によるあとがきにそのようなことが書かれていた。「天才」についてと「凡人の幸せ」について書かれていた。

読む前からそのような情報が頭に入っていた私には、天才くろさんの置手紙の中にあった「ぼく さむいのが  とても にがてなんです」の一文に動揺した。タイトル同様、この一文だけは釈然としない。
 

絵本なので、猫たちを人間に置き換え、「身近に天才がいたら」とか「天才の人が凡人に囲まれて暮らすとはどういうことなんだろう」などと考えるのが一般的な感想なのでしょう。

 

私の感想は違った。


現代人が犬や猫と暮らす理由は何だろう。どのように共な「ともに暮らすイメージ」をもっているだろう。今はどのようなことが理想とされるのだろう。そんなことを問いたいように感じた(そんなの私だけだろけど)。

猫に期待することは、おばあちゃんのように平々凡々とした毎日を共に過ごしてくれればよくて、更に加えるとしたら、苦楽を共にしてくれている感覚が得られれば嬉しいとおもっている人が多いのではないでしょうか。

天才である必要はないし、何も出来ず病気になっても仕方がない。猫なんだから。
共に暮らしている人間のレベルによって、飼い猫の生活レベルが変わってしまうことも仕方のないことだとおもう。飼い主が困窮していれば、充分な医療を受けさせてあげられないかもしれない。高級な食べ物も与えられないかもしれない。それでもいい、というか、そういうものだとおもっています。

しかし最近の日本では、「それを許してはならない」と聞こえる声も耳に入ってきます。動物福祉とか言うらしいですが、私にはピンとこない。

飼い主が自分の感覚でなく無理をして「猫や犬に必要なことなんだ」と(必要なのか充分に理解できないまま、負担にも感じながら)行う行為に疑問をもつこともあります。
モノ(食べ物を含む)やサービス(医療を含む)をあるレベル以上与えることが出来なくても、「この人とこの猫は幸せそうだな」とおもうこともある。その逆もある。

私にとってこの絵本は、日本人が以前から持っていた身近な動物との生活における基本的な感覚・考え方の是非を問われているように感じました(そんなの私だけだろうけど)。

 

私は、家族(猫や犬を含む)のメンバーが、そこそこ不満なく日々暮らせれば良いのではないか、と常々考えています。

なので、くろさんの「ぼく さむいのが  とても にがてなんです」がとても引っかかる。

何もできない「ねこ」でも出来ることがあります。ミルクを温めて入れること。おばあちゃんとの日常です。

 

絵本ですから(笑)

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2018年12月26日 (水)

久しぶりの豪徳寺 2018.12.26

年末だからか何かと忙しい。そんなとき、急に散歩に行きたくなる。
今夜はボランティア関係の忘年会のようもの。何気なく集まって近況報告の予定。昨年は、夜の集まりの前に豪徳寺にも行った。そのことを思い出し、豪徳寺に行ってきました。

豪徳寺には幾つかのお堂がありますが、どのお堂の中にも年末年始の準備と思われるダンボールが置いてありました。大晦日の夜は多くの人で賑わいます。(近くの世田谷八幡の方が凄いですが。)
今年は暖冬だからでしょうか、年末でも色づいた葉をつけたままの木が何本か。

2018122601  2018122602

いつも凄い数の絵馬がさがっていますが、今日はとても少なかったです。
お堂に近い方には日本語の絵馬が多かった。外のは諸々の外国語のものがほとんどでした。

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招き猫の奉納所の看板の裏に「梅月」と書いてあった。
「そんな月、あったかな?」と調べたら「梅雨の月」で陰暦五月だそうです。ちなみに「ばいげつ」と読む。「梅つ月」は「うめつつき」で陰暦二月。

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周囲の会話が耳に入ってくる。日本語が聞こえてこない。世界的な観光地になったみたいです。

今日気が付いたのですが、山門近くに自転車置き場が出来ていました。大晦日対応ですね、きっと。

2018122607  2018122608

ついでに、豪徳寺のちょっとしたお話。
猫以外にも井伊家縁の寺として有名ですが、その関係と言われている(詳しいことは分からないらしい)赤い門があります。この門の存在をしっていると効率的にお寺内を動けます。

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2018年12月25日 (火)

(読書感想文)ドン・キホーテ (下)

上と中で、概要と感想を書いた。
今回は、ふとおもったことを書いておく。

今の世の中にも、当時の騎士道物語のような存在のものがあるのではないか。それは、ネットからの情報。
そんなことが頭に浮かんだ。

ネットに物事の善悪の判断を問う人が多くなったという。
しかし(そのネットで)次のようなタイトルの記事も見た。
----------
ネットで質問し、期待するものは「答え」ではなく「共感」
----------

ドン・キホーテは騎士道物語の中に自分の理想の世界を見出し、そこに入っていけば、周囲の人たちは共感してくれると信じていたのかもしれない。
しかしそうはならず、現実の人間関係、村での立場はなくなってしまった。

ネット社会に自分の立ち位置を求めすぎる人たちは、顔と顔を合わせる付き合いにストレスを感じてゆくのではないか。最近では実店舗で買い物をするのが苦手な人が増えてきていると聞いたこともある。

昔はネット社会がありませんでした。人付き合いの基本は「顔と顔を合わせる付き合い」。なので、お中元お歳暮は直接届けた。盆暮れには親戚は集まり、職場では節目節目に飲み会があるのは当たり前。それが変わってきた。
それらが好きだった人は、それほどいなかっただろう。しかし当たり前の慣習になっていた。
今はこれらを行おうとする(行わせようとする)とハラスメントになりかねない。

(このような付き合いのない)ネットの中に友達を見つけることは当たり前になりました。友達でなくても、ネット上で意見を言い合う(←話し合いとはちょっと違う)こともあちこちで行われています。
それは良いことだとおもいますが、そこから導き出される結果が、顔と顔を合わせる社会での問題解決に必ず役立つものなのだろうか。
勿論、役立つこともあるだろう。しかし、そうでなくこともあるだろう。そうなったとき、本人がより辛くなるだけではないかと考えることがある。

 

ネット社会で得た(訊いた)世の中の常識により行動した結果、騎士道物語の常識により行動したドン・キホーテと同様の影響を周囲に与えることもあるのではないか、と頭によぎった。

20181225aこのようなことを考えるようになったのは、あの20数年前だ。
犬との生活は手間がかかる。しかしその手間以上の見返りがある。それを知ってもらいたいと願った。
知ってもらいたい人の多くは、(当時はネットが今ほど普及していなかったので)、書籍や一部の専門家と称していた人たちの言葉の中から、自分が共感できるものだけを選び出し、言い訳の理論武装のようにしていた。
勿論、何も改善されない。残念である。残念な生活が続くのは本人だけではなく、犬もだ。

これと同じことを今でも感じる場面がある。
ネットがこれだけ普及したので、その数は増えた。

 

ドン・キホーテは、1605年に前編が1615年に後編が出版されていますが、21世紀の現在でも「こういう人、いるな」と感じる内容となっていることに気が付いた。

名著と称される理由が分かったような気がした。

いつか、全6巻バージョンを読んでみたいとおもうようになった。

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2018年12月24日 (月)

(読書感想文)ドン・キホーテ (中)


(読書感想文)ドン・キホーテ (中)

ドン・キホーテを読んでみた。全然違った(苦)


まず感じたこと。

大きなテーマもありますが、しっかり小分けになっていて、まるで子供の頃に観たアニメ番組ようだった。各回パターンは決まっている。どうなるかある程度先が読める。そんなところも似ていた。その意味では面白い。

当時の人たちも大いに楽しんだようだ。
Wikipedia のドン・キホーテのページでも、当時の人気について書かれている。

大きなテーマは、宗教と騎士道物語。当時のスペイン(ヨーロッパのキリスト教圏?)で尊重されていたものらしい。それらに対して風刺的な内容を書くことで、大衆に考え直してほしいという感じだろうか。

決して浮き足立った内容ではない。騎士道物語という魔法まで出てくるバーチャルなものに影響されている世の中に対しての問いかけなのだろう。
そのような内容でありながら、娯楽物として多くの人に読んでもらえることが出来る内容に仕上がっている。



以下、私の感想

思慮分別なくその場の思いつきや雰囲気だけで、風車を巨人の化身であると決めつけるとおもっていたがそうではない。彼なりの知識から導かれた確固たる答えなのだ。
現実から離れてしまう原因は、騎士道物語に出てくる魔法である。彼はそれを信じ込んでいる。(信じ込んでいる振りをしているのか?、とおもうこともあった。)

私は、騎士道物語を読んだことありませんが、ドン・キホーテを読む限り、日本で云うなら武者たちの武勇伝なのだろう。
日本でも昔は妖術などが出てくる話があり庶民が楽しんだようですが、騎士道物語では「魔法」がストーリーの中で大きな役割を担っているようです。

騎士道の根底にはキリスト教の精神が流れている。日本の武士道の根底に日本古来の宗教観などが流れているのと同じなのでしょう。命のやり取りをするのであればそうなることとおもいます。
今のヨーロッパの人たちにとっても、キリスト教というものが人々の心の拠り所になっていることは話に聞きますが、当時は今まで以上にその影響は大きかったようです。

そのような世の中で、騎士道物語を読みふけり「自分は世の為人の為に遍歴の騎士になるべきだ」と思い込み実行する。その道中は(魔法が出てくる)騎士道物語の常識により判断し、問題を解決をしようとする。

現実は魔法もなければ、問題さえないことが多い。しかし、騎士道物語の常識で考えれば、彼が出す答えは間違えではないのだろう。

馬鹿げているとおもうのは簡単。
今の世の中でも、何らかの教えによってゴタゴタを起こす人はいる。そのようなことを語りたいのだろうなと感じた。



私が抱いていたイメージとの違いを書いておく。

とにかく手柄を立てたくて、思慮分別なくその場の思いつきや雰囲気だけで、風車を巨人の化身であると決めつける話だと想像していた。お気軽なドタバタ小説だとおもっていた。つまり子供向けの単純な話だとおもっていた。
そのイメージとの違いを書いておく。

彼には「こいつと戦わねばならぬ」と決め付けるだけの、膨大な数の騎士道物語という根拠があった。
読み始めた頃は「それにしてもただのいかれたオヤジだ。人間としてもダメ。周りの人にどんだけ迷惑かければ気が済むの?」と感じたのですが、読み進めてゆくと「人間としては、いい人かも」とおもうようになる。騎士道物語に出会わなければ、いい人として一生過ごしただろうなとおもう場面が幾つかでてくる。それをおもわせるストーリーもある。

20181224a従者であるサンチョ・パンサは、無学であり欲深い人間のようにも読めるが、こちらも読み進めると、多くの諺を知っているし、思慮深く、生きるために必要なもののみを欲しっているだけであることに気づく。それに対し、学があり、生きるためには必要不可欠ではないもの(つまり必要以上のもの)までも欲するドン・キホーテ。この二人が対照的に描かれていた。

騎士道物語や騎士道、キリスト教の昔からの慣わしなどに疑問を抱くべきという想いが著者にはあり、その裏返しをドン・キホーテに投影した。
生きるためには、世間で云われているほど格好良くなくてもいいし、実際そんなことを言っていられない。そのようなことを伝えたかったのだろう。

読み始めるにあたり、少し調べた。
著者は(苦労の連続という意味で)波乱の人生であったことを知る。何度か投獄もされているが、真面目に仕事をしていただけではなかったのだろうか、生きることに真剣だった結果、投獄されたのかも、とおもう。

20数年前「自分はドン・キホーテに似ているのでは?」は明らかな間違えで、著者であるセルバンテスに似ているのかもしれない。
しかし、自分と比べるのはおこがましいの一言である。

このバージョンは、子供も楽しめるものだし、大人が真剣に読むには単純すぎる。
いつか完全バージョン(全6冊らしい)を読んでみたいものだ。

 

読み進めている内にあることに気が付いた。
そのことを次回書きたいとおもう。

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2018年12月23日 (日)

(読書感想文)ドン・キホーテ (上)

20181223a読書感想文、二つ目は「ドン・キホーテ」。
書いてみたら(毎度のこと?)長くなったので3つに分けて、上中下にします(苦)

Wikipedia のドン・キホーテのページを読むと、以下のような一文がある。
===========
2002年5月8日にノーベル研究所と愛書家団体が発表した、世界54か国の著名な文学者100人の投票による「史上最高の文学百選」で1位を獲得した。
===========

世界的に有名な小説らしい。

作者はセルバンテス。私が読んだものは牛島信明編訳。
「編訳」とある通りアレンジがしているものらしい。
ドン・キホーテは前後編に分かれているが、それを上手く繋げたバージョンとのこと。また、とても長い小説らしいのですが、これは一冊にまとまっている。

この本は図書館で借りたものですが小中学生向けの場所にあったものです。
その本は既に返してしまったので、記憶を手繰りながら感想文を書いてみます。

 

20181223b
子供の頃からこの「ドン・キホーテ」のことは知っていた。しかし本を読む習慣がない私は読まなかった。
「頭がおかしくなった男が英雄気取りで風車に戦いを挑む話」と聞かされ、それだけ知れば満足だった。

 

二十数年前、犬を迎えた。当時の私は一日のほとんどを犬と過ごした。また、犬について的確な知識を与えてくださる人たちにも恵まれた。
「恵まれた」ことに気が付かず、「なぁ~んだ、犬との暮らしって簡単じゃん。みんなちょっと勘違いして苦労し過ぎ~」と勘違いした。

その頃「犬とゆく」をはじめることを考える。
「ここを入口に、皆が勘違いに気付くれるよな、きっと」と勘違いしながら。
そして勘違いに気が付いてゆく。一つ気付き考え直して進むと、それも勘違いだと気が付く。

遠くの目標が見えるのに、次の一歩を何処に出していいのか分からない。そんな自分を情けなくおもいイライラもした。

そのようなとき、ドン・キホーテもこんな感じなのかな、とおもった記憶がある。
誰でもいいから相手を見つけて戦いを挑めば楽になれるだろうけど、その(とりあえずの)相手さえも分からない自分。
ドン・キホーテは戦う相手決め付けることによって手柄を得ようとしたが、戦いに負ける。そのように想像していた。
私は、おもいつく相手が本当は戦うべき相手ではないことを、的確な知識を与えてくださった人たちから教えてもらい、自分でもそれを確認していった。その違いはある。
違いはあるものの、その焦りのようなものは似ているだろうと想像していた。

今でも、勘違いが確認されたり、焦りを感じるとき、ドン・キホーテが頭に浮かぶ。
なので、そのことを確認したくて、いつかはこの本を読んでみようとおもっていた。

先日、女房に付き合って図書館に行った時、何気なくこの本を(図書館内の検索サービスで)検索したら館内にあったので借りてみた。

つづく

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2018年12月22日 (土)

(読書感想文)人生の旅をゆく2

年末になったので今年読んだ本の読書感想文幾つか簡単に書いておこうとおもう。


まず、「人生の旅をゆく2」、著者は、よしもとばなな(現:吉本ばなな)さん。エッセイ集。
小説をほとんど読まない人間なので、今まで彼女の本を読んだことはない。

この本は女房が誰かからいただいてきた。犬との生活の話もあるので、それで我が家に辿りついたのだろう。

 

冒頭の方に犬との話が幾つかあった。次は、著者の子供の頃、若かりし頃のエピソードなどがあり、さらに読み進めると亡くなった忌野さんへの想いを語る。そして、東日本大震災に関わる話になる。震災の翌年お父様(吉本隆明氏)を亡くし、自身の在り方を考えさせられる内容が多くなる。

このエッセイ集は書下ろしではなく、あちこちに書かれたものを集め編集し直したものらしい。それらは 2008年から2012年に書かれたものであり、出版は2012年の秋。
東日本大震災と存在感の大きなお父様が亡くなったこともあってか、心の内側に目が向けられる内容のものが多いと感じた。

下町で育った著者は、子供の頃、隣近所の家では留守でも鍵がかかっておらず、留守のときに子供がお邪魔して台所のテーブルの上に置いてある(用意されている)お菓子などを勝手に食べることが当たり前だったと書いてあった。
子供の頃、ご近所さんと生活を共有し合って日常を過ごしてきた著者は(震災やお父様が亡くなる以前から) 現代における人間関係の常識に違和感をもっていたようです。
なので尚更、もっと人と人は直接関わるべきではないのか、と震災の時に感じたのだとおもいます。

 

東日本大震災から8年経った今読むと、「あの時はみんなこんな感じだった。今読むと大袈裟に読める」と感じた。それが正直な感想。

そしてふとおもった。 

あれはブームだったのか。それとも心から願ったのか。
遠くの地で甚大な被害があっても、自分はそれほどでもなかったから、忘れてしまえばそれまでなのか。
世の中に対してよりも、自分に対しても問いかけたい。

あのとき自分は何を書いただろう。
今、大袈裟といわれようとも、綺麗事といわれようとも、この本に書かれていたようなことを、たまには書こうとおもった。

そんな一冊でした。

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2018年12月21日 (金)

ヒラタアブ

ブラウザのブックマークを整理していたら、「こんな虫のことを調べたらな」と思い出したので書いておく。

今年の春、まだ寒い時期だったとおもう。家の中に黄色と黒の縞模様の蜂のような虫がいた。驚いて出て行ってもらおうと考えたのですが、よく見ると蜂ではなさそう。そこで調べてみた。

どうもヒラタアブという虫らしい。ハエ(双翅)目ハナアブ科ヒラタアブ亜科の虫。
私が見たものは、以下のページの「オオヒメヒラタアブ」が似ていた。
http://chigaku.ed.gifu-u.ac.jp/chigakuhp/html/kyo/seibutsu/doubutsu/07hae/hirataabu/

この虫はどんな虫なのか調べた。
なんとアブラムシを食べてくれるらしい。
http://www.boujo.net/handbook/hana/hana-290.html

それが分かってからは大事にしてあげた。
今年はアブラムシの姿を見ることはほとんどなかった。

ヒラタアブのお陰か!

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2018年12月14日 (金)

補助犬のステージ

先の日曜日、昼食は女房と外食をした。
帰り際、区役所の中庭で福祉関係のイベントがやっていたので寄ってみた。後から調べてみたら、障害者週間記念事業「第38回区民ふれあいフェスタ」、というものらしい。

通りかかったときに、ちょうど補助犬のステージをやっていた。その時のことを前々回少し触れましたが、もう少し詳しく書いてみたいとおもいます。

 

「何かイベントやっているね」と小さなテントが並ぶ世田谷区役所の中庭に入ってゆくと、ステージ上に犬がいて男性が何やら喋っている。補助犬を知ってもらうためのステージのようだ。屋外の小さなステージ前には50席くらい用意されていたが、半分も埋まっていなかったので、二人で最前列に座りステージを見た。

座った時、介助犬の見習いが物を拾うのを見せようとしていたのですが、集中力が定まらず、どうにか口で持ち上げるまで出来ても、ワチャワチャしてしまい上手く手渡せなかったり、ついにはキョロキョロした挙句、ステージから一人で降りてしまったり。

次に介助犬の退役犬が出てきました。さすがに落ち着いていました。なんてことなく、落としたものを拾い、人に渡す。それだけなのですが、前の犬がとてもストレスを感じていたのは分かったし、上手く渡すことが出来なかったので、こちらの犬には「貫禄だな」と見入ってしまいました。

この間15分くらいでしたが、足をとめた人の半分くらいは移動していました。見習い犬のときは私も「見る意味ないかも」とおもいました。退役犬はあまりに当たり前のように作業するので、犬のことに詳しくない人はこちらも興味を持たないかも。

貫禄の、介助犬の退役犬の後は、聴導犬の見習い君。
この犬はステージ上でマーキングしていました。それでも話続ける人も凄いなと思いましたが、やはり「食い入るように見る」という感じにはなれませんでした。

デモンストレーションは食い入るように見てしまうくらいの内容がいいのではないか、とおもったものでした。

 

犬の動きとは別に、お話の中には興味深いものがありました。その中から2つ紹介します。

(その1)
補助犬とは障害者が暮らすことが許される犬で、その生活の中で障害者をサポートする。

そうだよなとおもった。先日こちらで「補助犬はハイテク補助具に代わるのか」という3ページに渡る記事を書きました。その中でも似たようなことを書きましたが、ここまでの認識はありませんでした。
障害者には犬と暮らす権利はない、では寂しすぎる。このような考えには、ほっとしたものを感じました。

(その2)
補助犬を連れていることで、障害者であることを周囲に伝えることが出来る。

特に聴導犬だそうですが、聴覚障害者の方は街中を歩いていても周囲の人はそのことが分かりません。自転車のベルを鳴らされても避けなければ自転車の人はイラつくことでしょう。結果として怖い目に遭うこともあるそうです。
つまり、聴導犬がいることで視覚障害者であることを周囲に伝えることが出来るそうです。
聴覚障害者の方は街中を歩くときに、自分が聴覚障害者であることが周囲に分からないことで起こるトラブルに、常にヒヤヒヤしながら歩いているとのことでした。

「うんうん、ためになった!」とおもったものですが...

 

ステージが終わりに近づき、まとめに入ったとき、「補助犬には、盲導犬、介助犬、聴導犬という三つが法律で定められています」というようなことを説明していました。そして終わりの時間になり、総合司会と思われる女性がステージ上に現れます。
「介助犬といっても、、、」、補助犬と言うべきところを介助犬と間違って喋っていました。

小さなステージといえども区のイベント。プロの司会の方だとおもいます。正しく情報を伝えるのが仕事な人でさえ、この程度の認識なんだなと残念に思わざるをえませんでした。
補助犬については、福祉関係の中でもあまり興味をもたれない分野なのかもしれません。数がいないので仕方がないのかも。

 

ステージに立っていたのは、A.W.D.S.A という団体でした。この団体には、ほんの少しだけ思い出があります。

今から15年くらい前だと思います。うーにーは生きていました。私は東北のとある場所でうーにーと散歩していました。人家は全く見えないような所でした。そんな所で、初めて会った人と話をしていました。その人が語っていたのが、この団体でした。「今後、この団体の協力していこうとおもう」、とかお話されていたような記憶があります。

当時(ある程度情報を集めていた私でも)この団体を全く知りませんでした。そのような状態からですし、世の中としても、補助犬法が出来た頃だったので「補助犬の育成はとても大掛かりなので苦労しそうだな」と思った記憶があります。

 

HPを見てみると、災害救助犬の育成からはじめ、現在は介助犬と聴導犬の育成をされているようです。

このような団体を運営されている以上、ご苦労は絶えないとおもいますが、これからも日々研鑽を積んでいただければと願っています。
そして補助犬がどんな犬なのか、障害者の方とどのような生活をしているのか、広めていっていただけたらと願っています。

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2018年12月11日 (火)

キジトラ君と出会って

先の書込みで、キジトラ猫の死体を発見してしまったことを書いた。
法律に従って、お役所に連絡をしようと電話を架けたが日曜で繋がらず。それで終わりにしてしまった。しかし気になり(コメントに書いておきましたが)深夜に現場を見に行ったら、彼の姿はなかった。

女房は「我が家にある程度の広さの庭があったら埋めてあげるのに」と言った。私も似たようなことが頭によぎった。

ところで、役所に電話が繋がっていたらどうなっていたのだろうか。たぶん担当の人が引き取りに出向き、決まりに従いそれなりのことをしてあげるのだろう。

話は変わるが、生きている猫の場合。
お役所は、現在、外を自由に出歩いてるということだけでは、生きている成猫は引き取らない。その根拠は幾つかあるらしいが、その一つに「もしかしたら飼い猫かも知れない」というものがある。飼い猫が散歩しているだけの可能性があるからだ。

深夜、現場に行き、その姿がなかったときに「キジトラ君は飼い猫で、飼い主が気が付き、連れて帰ってあげたのかな」ともおもった。
そんな想像をしたときに、我が家に連れて帰り庭に埋めたり、役所がそれなりのことをしてしまうと、飼い主さんは途方にくれるのではないか。

飼い主さんとしては「いなくなった」と認識しているだろうから、数日後にお役所に届け出るかもしれません。そのときにはもう終わっていることになっていることでしょう。そのような場合、骨は何処にあるのでしょうか。

そんなことも考えてしまいました。

 

今の世の中では、やはり「猫は外で自由に出歩かせていけない」となるのかもしれません。
長年の感覚で、散歩中に猫を見たいものだとおもっていますが、猫にとっても飼い主にとってもリスクが大きすぎるのかも。

人間の子供でさえ(夜でなくても)一人で歩かせるのは危ないと言われる世の中です。ペットも家族と言うのであれば、完全室内飼いで、お出かけは必ず人間と一緒となるのでしょうね。

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2018年12月 9日 (日)

まいすの命日に

12月9日、今日はまいすの命日。

まいすはよくお出かけに連れて出かけた。お泊り旅行にも連れて行った。
猫を積極的に受け入れている宿でも、「こんなに物怖じしない猫は珍しい」と言われるくらい何処に行っても隠れることなくお出かけを楽しんでいた。
それが出来たのも、性格そのものが第一だとおもいますが、目がほとんど見えないので何処かに向けて走って行くことがなかったことと、自分の名前が分かっていて呼ぶと戻って来る猫だったからだとおもっています。

それに比べておばまは、お出かけらしいことはしない。家から出るのは病院くらい。
おばまの目も怪しいことがある。だからだろうか、何事に対しても慎重で、自分の決めた場所・時間以外は動かない。いつもの部屋の中でさえ、決めた場所以外は行かない。

 

今日の昼食は、人間二人だけで外食した。
帰り際、区役所の中庭で福祉関係のイベントがやっていたので寄ってみた。今、調べてみたら、障害者週間記念事業「第38回区民ふれあいフェスタ」、というものらしい。

ちょうど、補助犬のデモンストレーションがあったので、途中からだったので椅子に座って観覧した。椅子席が空いていたことを不思議におもったのですが、見始めて納得。見習い犬がステージ上に上がっていて、完璧に仕事をこなすことが出来ないし、粗相をしてしまう子もいた。これでは飽きてしまうかも、とおもった。

ステージ上の人が最後に、「補助犬には、盲導犬、介助犬、聴導犬という三つが法律で定められています」というようなことを語った後に、総合司会なのか若い女性がステージに上がってきて、お疲れ様のあとに「介助犬には、、、」と補助犬とするべきところを間違えていた。
正しく情報を伝えるのが仕事な人でさえ、この程度の認識なんだなと、おもったりもした。福祉関係の中でもあまり興味をもたれない分野なんだろうな、と。

 

その後、図書館行ったり、買い物したりした後、自宅に向かい喋りながら歩いていた。
女房が「あれ、生きているのかな」というので指差す方を見たら、現在空き地になっている土地の入口に猫の死体が。一瞬寝ているのかと思ったが、既に硬直している感じがあった。
また毛並みも綺麗な姿だったが、口から少し舌が出て、口の周りが固まっているような感じだった。
交通事故に遭った後、誰かがここに移動したのだろうか。外傷は確認できなかったが、頭だけ強く打ったのだろうか。首や背中はしっかりしているように見えた。
まさかとおもうが毒餌なんて言葉が頭に浮かんだりした。
私は、キジトラだったと記憶していたのですが、女房は斑点っぽい模様があったと云っていた。

場所的にも通行の邪魔にならない場所だったし、猫を飼っている身としては、寄生虫の心配もあり安易に触りたくなかった。
しかし、日本国民の務めとして最低限のことはしようとおもった。

 

動愛法36条をご存知だろうか。
疾病・負傷の犬猫等や犬猫等の死体を発見したら、都道府県知事等に通報するように努めましょう。
だいたい、こんな内容だ。

よく云われるのが、お役所の業務時間外だったらどうすんの?
今日は日曜日、まさにそんな感じ。
念のため、東京都のセンターと世田谷区保健所に電話を架けてみた。どちらも業務時間外を伝えるテープが流れるだけだった。

とりあえず、私は法律に従った。

横たわっているのは、世田谷保健所からすぐの場所なので、たぶん明日の月曜日には対応してくれることでしょう。

 

現在、動物愛護に関わる活動は大小多々行われています。
それらの活動は必要なことだし、素晴らしいとおもう。これからもさらに広がっていってほしいと願っています。

それに対して、市井の一個人の目で日常を見たとき、「蔑ろにされている」または、各自が「している」場面を目にしてしまうことがある。

動愛法1条は以下のようなことが書かれている。

第一条 この法律は、動物の虐待及び遺棄の防止、動物の適正な取扱いその他動物の健康及び安全の保持等の動物の愛護に関する事項を定めて国民の間に動物を愛護する気風を招来し、生命尊重、友愛及び平和の情操の涵(かん)養に資するとともに、動物の管理に関する事項を定めて動物による人の生命、身体及び財産に対する侵害並びに生活環境の保全上の支障を防止し、もつて人と動物の共生する社会の実現を図ることを目的とする。

青字の部分は「動物愛護の精神を広めましょう、根付かせましょう」との意味だと思うのですが、「日曜だからお休み、後回し」の現状は如何なものかとおもってしまう。

 

おばまのこれからは、部屋と病院だけで終わるだろう。外に出て交通事故など酷い目に遭うこともないだろう。
20181209_20130414しかしどうしてもまいすと比べてしまう。
それでいいのか。

こんな世の中だから、それでいいのだろう。

写真は在りし日のまいす。道徳時の参道入口辺り。
この桜の木ももう切られてしまっているかも。

時間が経つのは早いですね。

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2018年12月 6日 (木)

11月の「犬とゆく」

暖かい日があったので油断していましたが、もう12月、師走ですね。
暖冬ではありますがそれなりに寒い。犬が居たときは、喜んでお出かけしたものですが、犬なし生活の今は部屋に篭りがち。お出かけどころか部屋から出ることも一大事な猫とだらだら暮らしています。
犬と暮らしている方は、是非お出かけしてあげてください(寒さに弱い犬は除く)。

11月も週一以上ペースの公開ができました。
月間公開数は7件。年間通算公開数は70件。

犬とお出かけする皆さんのお役に立てれば幸いです。 

 

■11月に公開した情報

所沢航空記念公園
埼玉県所沢市にある飛行機やヘリコプターが展示されている公園。屋内施設等には入れませんが散歩するにはいいようです。ドッグランもあります。

相模湖公園
神奈川県の相模湖畔にある公園。中央道相模湖東出口インターから比較的近い。
さがみ湖リゾート・プレジャーフォレストなどへ行く前の休憩や時間調整に利用するのも良さそう。

さがみ湖リゾート プレジャーフォレスト
神奈川県の相模湖近くにあるリゾート施設。ドッグフィールドや併設の宿泊施設、冬はイルミネーションもあります。年末年始もイルミネーションの開催があるようです。

信州国際音楽村公園
長野県上田市にある信州国際音楽村の公園。3月下旬~4月中旬頃「すいせん祭り」、5月下旬~6月上旬頃「春のばらまつり」、7月上旬~中旬頃「ラベンダー祭り」などがあり、冬以外は花が楽しめるようです。

深谷グリーンパーク
埼玉県深谷市にある花や野菜の公園。最寄のインターは関越道の花園。4月頃、桜とチューリップを同時に見ることができるかも。冬は花がないとおもいますが、他の季節は花が楽しめるようです。

白浜オーシャンリゾート(旧:リゾートイン白浜)
千葉県南房総市白浜町(房総半島の南端)にある犬連れOKの大きなホテル。犬連れ「も」OKのホテルで、一般のお客様も利用されます。
夕食は部屋食も可能。ドッグランもある。芝生が綺麗。海まで近い。

野島崎公園
千葉県房半島最南端にある公園。芝生の場所や散策路がある。(犬は中に入れませんが)灯台もあります。伝説の岩屋で「大蛸の海神」に開運祈願するのもいいかも。

 

今年ももうすぐ終わりですね。犬が居ないと一年が何気なくあっという間に終わってしまいます。
犬っていいですね。

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2018年12月 3日 (月)

同行避難「訓練」のお手伝い

過日、とある区の同行避難訓練のお手伝いに行ってきました。

その区の一般向け避難訓練の中に、地元獣医師会さんがテントを出して犬の一時預かりをする(飼い主側からすると「お預け体験」となる)。私は、愛玩動物協会東京支所の一員として、そのお手伝いをさせていただきました。

一般向け避難訓練は中学校の校庭で行われ、そこには多くのテントや体験コーナーなども幾つか設置されます。よくあるタイプの避難訓練です。

勿論、参加者もいらっしゃいますので、多くの人が歩いたり立ち止まったりしていますし、なにかしらの放送があったりして、日常の町中の雰囲気とは異なります。このような中での「お預け体験」となります。

お預け体験をした犬が20頭以上。私が知る限りとても多い数です。
そのテントで(預けている間に)東京支所長が災害時のことを話したのですが、予想以上に人が集まってしまってアタフタする場面もありました。
私は(あまりの混雑で)その内容を聞くことが出来なかったのですが、災害に備えて飼い主として何をしておいた方がいいのか、そのような話だったようです。途中退席する人の姿は記憶にありません。皆さん興味をもって聞いてくださっていました。

今までの大規模災害直後の犬などの避難状況をパネルにしたものをいつも掲示するのですが、今回は熱心に見てくださった人たちが多々いらっしゃいました。

「みんな興味もってくれているんだな」と実感できたのですが「今まではそうでもなかったのか?」と自問したとき「そんなことはないはず」と答えが返ってくる。
ならば何故?、と考えると「近寄り易い雰囲気だからでは?」と、その場に居て感じた。

こちらの区ではもう何年もこのような訓練をやっている。獣医師会の先生方が主に動き、保健所の方々もお手伝いに来てくださる
「獣医師会でやっているということは持ち回り?」と考える人もいるとおもいますが、いつも同じメンバーだとおもいます。
開催日は日曜日。日曜日といえば動物病院は忙しい日のはず。そんな日にボランティアをするのです。しかも、準備も大変。犬を預かるのでケージを大量に準備します。たぶん事前のチェックをするだろうし、終われば綺麗にするだろうし。その他諸々のことを考えると、熱意なくしてできないことだとおもいます

そのような活動が何年も続き、余裕のようなものが出てくるのだと感じました。「私たち頑張ってやっています!」ではなく「まぁ、慣れればなんてことないですよ」的な雰囲気。

私たち手伝いの者も回数を重ねると、テントに来てくださった方から質問があっても質問者が理解できるような回答がお返しできるようになってゆきます。
(※ 回答は獣医師先生方や地元行政の考えを理解の下、行わなければなりませんので、その意味でもお手伝いの回数を重ねることが必要だと実感しています。)

犬を預かるには幾つかとても気をつけるポイントがありますが、手伝いメンバーの中には回数を重ねている人も何人かいるので、それも何気なくクリアしていて安心感のようなものがありました。

災害時のペットのことに強く興味を持っている方は、自主的にセミナーなどに参加し、既に情報を得ているとおもいます。
今必要とされていることは「よく分からないけど、よく分からないから、なんとなく、とりあえず聞いてみたいな」と感じている人に「今はこんな感じになっています。今まではこうでした。これからはこうしていきたいですね。だから日常からこういうことをやっておくといいですよ」程度のことを伝えることが必要だと感じています。
そのような人たちが「近寄り易い雰囲気で」「手軽に」「安心して訊ける」、そんな情報提供が必要なんだな、とおもった体験でした。

 

(おまけ)

一般の避難訓練には色々なブースが出ていたり、体験コーナーのようなものもあります。楽しそうなものも幾つもありますが、この時「へ~」と思ったのは、太陽光発電と蓄電池で日常の最低限の電気くらいは確保できるものが出ていました。まだ高価ではありましたが、電気が確保できない状況ではとても力強い存在になりそうです。

お手伝いが終わった後に、消防庁のVR防災体験車も利用してみました。
待っている間、「お金かかっていそうな車体。その価値あるのかな?」と思いましたが、利用してみて「これ、必要だ」と実感。利用前と後では気持ちが違います。
http://www.tfd.metro.tokyo.jp/ts/bousai_fukyu/

他にも、地震の揺れを体験できたり、火災時の煙の状況を体験できるものなど定番のものもありました。
定番と云えば、備蓄食料の(賞味期限が近づいてきているものを)配布するのもありました。水を入れて待っていればご飯になるというもの。よくあるタイプのものではありますが、私はこのような機会がなければ馴染みがありません。もしものときに「これって、ただ水をいれて待っていればいいだよなぁ」と知っているだけでも意味のあることです。

大規模災害時など、今まで経験したことがない状況で、かつ、自分及び身近な者の身体や財産に甚大影響が出そうなときは、普通に出来ることが出来なくなります。発災直後の記憶がなくなる人も多いそうです。「水を入れて待っている」を理解するのに苦労する可能性は大きいのです。

ちょっと難しい言葉が並んでいたり、専門的にもおもえる部分もありますが、一般向けの資料としてこちらのはじめの数ページを読んでみると「そうなのか」とおもえるかもしれません。

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