« 2018年6月 | トップページ | 2018年8月 »

2018年7月30日 (月)

Amazon,co.jpアラートアカウント通知。(フィッシング)

数日前にこんなメールが来た。

20180727a

私の Amazon のアカウントに、インドネシアからログインがあったという。
ここ何年も Amazon を使った覚えはなく、「アカウント、あったかな?」状態だったのですが、焦ってしまった。

しかし、リンクにマウスを持っていくと、リンク先のドメインは

https://www.arnazonm-jp.com/.....

と、それらしいのですが、よく見てみると「-jp」も怪しいし、「amason」の後ろに「m」が付いている。

メールの差出人が hotmail だし。
更に、メールのタイトルを見ると、Amazon の後ろが「.(ドット)」ではなく「,(カンマ)」になっている。

 

冷静になる前に、ログイン履歴と書かれたリンクをクリックしてしまった。
出てきたページは、如何にも Amazon のログインページに見えた。しかし、IDもパスワードも思い出すことが出来ず。そして、冷静になった(苦)

皆さんもお気をつけてくださいな。

| | コメント (1)

2018年7月27日 (金)

お腹が空かない

この10年くらいで、味覚・臭覚・視覚・聴覚が明らかに衰えた。加齢というものだろう。

子供の頃から、自分でも困っている身体の癖のようなものがある。それは衰えない。
美味しいとおもって食べた後に体調を崩すことがある。何が原因なのか、だいたいの見当はついているのですが正確には分からない。アレルギーと呼ぶべきものなのか消化器系の不具合なのか、それも分からない。とにかく、著しく体調を崩すことがある。

口で美味しいと思っても、一時間後に後悔することがある。同じようなものを食べても飲んでも全く問題ないこともある。食べ合わせもあるのかも。

美味しくて体調崩さないものを食べたときは、何故か長時間お腹が空かない。時には、次の日も空腹感がやってこないことがある。
うーにーと旅行をしていたときは、そんな経験を時々していた。うーにーが居なくなってからは、そのようなことが少なくなった。

 

しかし先日、そんなことがあったので、備忘録的な意味も含めて書いておく。

何年か振りに、犬友達あり猫友達でもある人のお宅にお邪魔することになった。うーにーが若かった頃からの付き合い。その人は、そう遠くない将来、飲食店を開く予定らしい。折角の機会なのでお昼をご馳走になることに。

ご馳走になったものはこんな感じ(分かり難い写真ですみません)。

20180726_1  20180726_2

20180726_3  20180726_5

20180726_4ビシソワーズに見えるのは桃のスープ。
デザートのケーキは、我が家の近所のお店(トロッコさん)のパウンドケーキ。
お店の人に「一本売りしてくれますか?」とお願いしたら「いいですけど、動物性のものを使っていないので三日くらいしかもたないです。日にちが経つと、植物性の油が酸化してにおいがしてくるようになってしまいます」とのこと。事前に冷凍で送っていただき、解凍後二日経っていただきましたが、そのようなことは全く感じませんでした。

車で伺ったので飲み物はノンアルコール。(簡単に言えば)炭酸入り葡萄ジュース。甘めなのですが、食事時に飲めました。「どこが扱っているんだろう」と裏を見たら、我が家の近所の会社(カルディ)。

 
美味しいし、体にすんなり入ってくるし、見た目も綺麗。色々な意味で「気持ちよく」いただけました。

食事全体として、量的に多いことはないし糖分多目とか脂が多いとかもない。気持ちよく身体に入って、ちゃんと吸収されたようです。
晩御飯の時間になってもお腹が空きませんでした。一緒に行った女房も同じコトを口にした。

 

お店が開店したら通いたいですが、近所ではないのが残念。

食事も美味しかったですが、ゴールデンと遊ばせてもらえたことも嬉しかった。開店したらお店にいつもゴールデンが居てほしいとおもいますが、それは難しいかな。

| | コメント (2)

2018年7月16日 (月)

ちょっとした勉強会

今回も備忘録的なブログ。
分かる人にしか分からない内容だし。

 

とある週末、お泊りでフードをメインとするペットビジネスの勉強会に参加してきました。生体は全く扱わない世界ではありますが、フードが関わりますので生体(一般飼い犬・飼い猫、保護されている犬や猫)への配慮・援助ということも含まれる。

私的なものであったので、具体的なケースで話が進み、その内容はここには書けません。
ここに書けることは、私が「やっぱり、そうなんだ。今の飼い主さんは、ある意味大変だな」と感じたことを書いておく。

 

うーにーが我が家にやってきたのは、1994年。高温の夏が当たり前になり始めた頃で、エアコンの室外機が高温で止まってしまい、一人暮らしの高齢者が亡くなったことが問題になった年でした。
次の年には、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件。1994年に埼玉愛犬家連続殺人事件。この頃、大阪の自称訓練士が殺人事件もありました。
今ととなっては「とっても昔」の話で、2000年の動愛法改正以降に、ペットについて興味を持った人たちの中には知らない・感覚的に理解出来ない人たちも少なくないだろう時代です。

ちなみに、ドッグ・カフェという言葉はありませんでした。ドッグ・ランは「欧米にはそんなものがある」程度で、東京都や23の各区が管理している公園にそのようなものが設置されることは「有り得ない」とおもうような時代でもあり、夜な夜なノーリード集会が隠れて(?)行われ、「前回の咬傷事故がいつで、どんな人が関わっていた」等が公然の噂でした。

当時のドライフードといえば、日本に昔からある加工食品メーカーが直接か、その関連会社が作っていたり、輸入代理店になっていたり。また、獣医さんが療法食として扱っているメーカーのもの、ショーをやっている人たちが使っていたもの、などが輸入されていました。
私の記憶では「プレミアム・フード」という言葉はなかったと思います。一般飼い主が入手し易かった「良い」と言われるフードは「ショードッグ用のフード」などと呼ばれるようなことが多かったと思います。

(一般の人が気軽に手に入れることが出来る)ショードッグ用のものも数が非常に限られていて、中には「私は絶対に使いたくない」とおもうようなものも「良いフード」をされていました。しかし、そのフードはある程度の数の人に支持されて有名になっていたことも事実です。つまり、イメージ戦略、ブランド戦略が成功していたのです。

その後、植物性のものをメインにしたものや「ここまで考えているのか!」とおもったり、「アメリカにはペット・フードの法律があり、守らないと大騒ぎになるのか」と関心したりしたものでした。

そして「手作り」や「生食」の情報も広がってきました。
その頃の日本は、Windows3.1 から Windows95 への移行時で、インターネットインフラが整いつつある時代でしたが、まだまだ一般的ではありませんでした。ADSLのサービス開始は1999年と言われていますが、普及が始まり「ブロードバンド元年」と言われているのは、2001年です(Windows Me)。

それ以前のことですから、マスコミ媒体としては数少ない雑誌、それ以外は口コミが情報入手の主な手段だったと記憶しています。なので、ブランド戦略はし易かったとおもいます。
当時も「みんな、もう少し考えてみようよ」と感じることがしばしばありました。

 

現在、2018年。様々な情報が手にはいります。「あのペットフードは本当にいいの?」と思えば、色々な情報がインターネットを経由して入手できます。もちろん発信する側にもなり得ます。
そのような時代なので、イメージ戦略、ブランド戦略は難しいだろうとおもっていました。

今回の勉強会は、ちょっとした衝撃でした。戦略を仕掛ける側の手法も高度になっていました。また力の入れ方も昔とは違うと感じました。

現在、プレミアム・フードと呼ばれるものは多種多様あります。となると、どれか一つのフードに目をつけ、「これ、うちの子に良いかな?」とネットで調べた結果、著しくネガティブな情報がなければ「とりあえず使ってみよう」となります。しかし、身体はそれぞれ違うので、同じフードを食べても同じような変化が期待できるとは限りません。そうなったときは次を探せばいいのです。

以上は「買う側」の話ですが、次は「売る側」の話。

前の方で書きましたが、1990年代中盤くらいまでのペットフード業界は規模も限られていました。また(ペット関連に限らず)広告戦略も今とは違って紙媒体がメインでした(ペット関係は電波媒体はほとんど使っていなかったとおもいます)。戦略といっても分かり易かった時代です。

ちなみに、消費者金融会社のCMにチワワが採用されて、小型犬ブームに拍車がかかるきっかけとなったのは、2002年です。ちょうど、ブロードバンドの普及が顕著になった頃になります。そしてよく「ペット産業は、既に一兆円産業になった」などと言われてことも記憶しています。

それから15年以上経った現在の販売戦略は(ペットフードに限らず)、とても多種多様な媒体、高度な手法、戦略が行われるようになりました。ペット・フードに関しては、昔は(産業として)力を入れて広告を打つほどの部類には入らなかったのですが、現在のように多くのフードが販売されて、多くの人がペットと暮らす世の中となっている現在、売る側も苦労が絶えないだろうことは容易に想像できます。

そんな現在の販売事情はどうなのか?
まず、他の主な産業と同じビジネス形態がとられてことに驚きました。フードメーカーや海外フードの輸入販売権が投資の対象にもなるようです。販売戦略は、やはりまずイメージ・ブランドの確立、販売網の整備と、日本における主な産業と全く同じ手法が取られているようです。

具体的な話を聞いていると、耳を疑い、目は白黒してしまいました。それくらい 1990年代との違いを感じました。

 

そこで感じたことは(ペットフードに限りませんが)それら情報を安易に信じ、それが(自分が得られる)最高のものだと思い込んでしまうことに危険はないのだろうか、と疑問をもってしまいます。
送られてくる情報が力強いものであれば(しかも多方面から同様の情報が入れば)そのように思い込んでしまうことは、当然のことだとおもいます。

このような情報に惑わされたとしても、フードを購入する側が危険な立場にさらされることは、ほとんどないでしょう。(現在、日本にもペット(犬猫に限りますが)フードに関するがありますので。)あるとしたら、「実は割高なフードだった(自分がおもっていたほどの効果が得られなかった)」「ちょっと体調が悪くなったような気がする」くらいで、ペットに著しい健康被害が出るようなことは、ほとんどないのではとおもっています。なので、「人間の食べ物も疑問をもつこといっぱいあるくらいだから、この程度ならいいんじゃない?」とおもってしまいます。

しかし、壁ではなく卵の立場を伝えてゆきたい人間としては、「ペットのためによりよいフードや日用品を」と(ビジネス目線ではなく)飼い主目線で、情報を提供してくれる人たちの声がもっと届いてもいいのではないか、とおもうことが多々ありました。
それくらい資本を注ぎ込んだ情報が出回っていることを感じています。

 

食べ物のこと、日常使うもののこと。それらのことを考える時間を、もっともってもいいのではないかと、いつも思ってところに行き着いてしまった。

皆さんには、こんなことを考えてほしい。

「カロリー」や「糖分」「脂肪分」などを気にされる方は少なくないとおもう(自分、家族、ペットに限らず)。
その理由は、肥満であったり血管内にへばりついてしまうものだったり、色々あるとおもいます。
ほとんどの理論展開は、これらの入口と結果です。「表示されているカロリーがこの数字だから肥満になってしまう」など。

同じものを同じ量食べたら、同じだけカロリーが摂取され吸収されるのだろうか。つまり個人差、個体差の問題です。
そもそも食品に表示されているカロリーの計り方は、摂取を前提として計られるものなのか調べてほしい。お時間ある方は、他の数値についても調べていただけたらとおもう。

更にお時間のある方は、「栄養素」や「治療薬の基本成分」についても同様の視点で調べてほしい。簡単に言えば、サプリメントの効果は人によって違うし、薬の効果もそうだし、副作用も。
食品について、そのような視点でみることに、皆さんがもう少し力を入れてもいいのではないかと常々感じている。

つまり、入口と結果だけでなく、真ん中の「摂取」にも注目し理解し考慮してほしいのです。これは、個人差、個体差があるので広告に載せるのが困難な情報です。インターネットで他の人が書いていることが、自分には、自分が共に暮らすペットには、当てはまらないだろうとこでもあります。

医療行為についても同様のことが言えます。同じ検査結果でも症状が違ったり、同じ治療でも効果が違ったり。この部分を担当するのが、医師や獣医師の「診たて」になるとおもいますが、多種多様な検査が可能になった現在は、その能力をしっかりともっている先生が少なくなってきていると感じます。
そのことについても、皆さんがもう少し力を入れてもいいのではないかとおもうことあります。

 

ペットの日常を考えてあげるとき、自分自身の日常を考えるとき、身近な人のことを考えてあげるとき、そのようなことを考えてあげる時間をとってほしいと、心から願ってやみません。

10個一パックの卵も、よく見れば一つ一つ違う形をしています。人間を含めた生き物は、規格化できないものだと、私は信じ続けていたいのです。

 

100年後くらいには人間も遺伝子操作されて規格化されるかもしれませんが、そのとき、私は生きていないことが、私にとっての救いです。
その世界は、人間が人間により管理される(現在でいうところの)家畜であるか、AIにより管理される家畜ということになるような気がし、その世界を見たくないのです。

自分は世界に一人の自分であり、共に暮らす人間の家族もペットも世界に一つの存在だとして暮らすことが、幸せな日常の基礎だとおもいます。

 

そんなことを再確認した勉強会でした。

| | コメント (0)

2018年7月14日 (土)

ラブ ゼネレーション(読書感想文) その3

前回からの続きですが、今回は、書籍とはほとんど関係ないこと。

マスコミとは、マス・コミュニケーションの略であるから、「大衆とのコミュニケーション」だと思うのですが、「大衆への情報伝達」の方がしっくりくるだろう。
昔であれば、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などを使って不特定多数の人に同時に情報を伝達することであり、その情報を元に人々はコミュニケーションをとっていた。

インターネットが日常に根付いた現在、マスコミの伝達手段の一つにインターネットが入ることは確かではあるが、「不特定多数の人に対して同時に」ではないようなものが増えてきた。
また、受け手であった個人が、不特定多数の人に情報を発信できる世の中になってきた。

そのように、情報が交錯、氾濫している現在、情報がビジネスになるのは当然のことで、多くの人が求める情報には価値が生まれる。どのような情報を世の中の人が求めるかといえば、「明るい」、「前向きな」情報だろう。または、「押しが強かったり」、「過激な」、「刺激的な」情報も人は得ようとする。

情報だけではなくエンターテイメントもそうだ。音楽、テレビドラマや舞台、デザインなどもその傾向がある。

 

そのようなものは面白いかもしれない。刺激的なものを観ればワクワクするかもしれない。しかしそれが現実的なものではないとおもったとき、私は落胆する。ほとんどの人が現実的だと信じることが出来たとしても、私自身はそう感じることが出来ないとき残念な気持ちになる。

現実の個人個人は、そんなに強くないし格好よくない。私はそうおもってしまう。とても弱くどこか不恰好な部分を持っている人がほとんどだとおもう。
そんなことを伝え続けてきた早川さんが、皆の前で歌わなくなってしまったことが残念でならない。

 

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

村上春樹雑文集 [ 村上春樹 ]
価格:1512円(税込、送料無料) (2018/7/12時点)


このブログを書く直前に、二冊のラブゼネレーションを図書館に返しに行った。そのとき、何気なく図書館内をうろうろしていたら、村上春樹の「雑文章」をいう本を手に取り、目次の「壁と卵」という文字が気になり読んでみた。
エルサレム賞という社会的・政治的に微妙な地域の賞を受賞したときのスピーチ。その中で村上さんがコアにしたのは、次のような一文でした。

=============
「高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ」
=============

上記の文章は、こちらのページからコピーさせていただきました。なので書籍とは表現が違うかもしれませんが、私の記憶の限りでは同じだっとおもいます。

 

早川さんは「高くて硬い壁」どころか、自分が暮らしている町の誰か個人にさえ劣等感を抱いてしまうような感じではありますが、「壁にぶつかって割れてしまう卵」が如きであると認めていることは確かだろう。

再び、上記リンクを張ったページからのコピーですが、こんな文章もあります。

=============
皆、薄くてもろい殻に覆われた、たった一つのかけがえのない魂(たましい)である、と。
=============

 

さて、本題です。

私は、犬や猫など身近な動物との幸せな暮らしを送るためには何が必要だろうか。今の世の中に何が足りなのだろか、と考えることがあります。
そもそも、各個人の「身近な動物との幸せな暮らし」とはどのようなものなのか。インターネットが普及し、個人が不特定多数に情報を提供できるようになった現在、それはある程度のモデルが存在するようにおもえる。犬であればこんな感じ、猫であれなこんな感じ、と。

しかし、よくよく話を聞いてみると「こんな感じ」には、だいぶ幅がある。実際の行動だけでなく、根本的な考えにも随分と幅がある。「子供の頃からこのように(犬や猫と)接してきた」その接し方が現在では犯罪になることもありますが、法律のことを知らずに昔ながらの接し方をしている人もいる。法律のことは知らなくても、「世の中が変わってきて、自分の感覚(接し方)が非難されることがある」と感じ始めている人もいる。
(犬や猫に)色々なことをしてあげたいとおもっていても、時間的な制約などでそれをしてあげられないので理想的な関係が築けず、ジレンマを感じている人もいる。

情報が氾濫していると言われているこの現代に、このような人たちが多々存在する。30年前に比べれば、とても高度な情報が簡単に手に入る現在でも。
どれほど高度な情報であっても、個人が積み上げた知識・経験から得た各自の感覚と、現在の社会が「正解」としたスタイルとの溝を埋めることは容易ではない。人によっては「不可能」と言ってもいいだろう。

こんなことを日頃感じている私は、村上春樹の「皆、薄くてもろい殻に覆われた、たった一つのかけがえのない魂(たましい)である」に共感を覚えた。

またこのスピーチの中には、以下のような内容もあった。これも上記のリンク先からコピペさせていただきました。

=============
何が正しくて何が間違っているか、何かがそれを決めなければならないとしても、それはおそらく時間とか歴史とかいった類のものです。
=============

長年、犬や猫との暮らしについて調べたり考えたりしていると、このようなことを実感します。20年前、30年前、50年前の日本のことを思い浮かべてほしい。さらに、その日本の中の色々な地域のことを思い浮かべてほしい。
犬や猫との付き合い方は、とても変わってきています。しかし、誰が何をもって「これが正しい付き合い方」と断言できるのでしょうか。法律で色々定めて方向性を示していますが、違和感・反感を抱いている人もいる。

何が正しいかと決めるのは、「時間とか歴史とかいった類のもの」であると、私もおもいます。今は正にその判断を待っている最中なのだと。

 

「犬とゆく」や「人のため、犬のため」がやるべきことの一つに、そんな混沌とした時代でも、より多くの人が幸せが実感できる、犬や猫との暮らしを目指すための情報を提供してゆくことなんだろう。

ときどき、「あなたははっきりと答えを書かない!」とお叱りモードで助言を頂戴することがありますが、私は「何が正しいか」を書きたくありません。「今はこうですよ、こんな人もいますが、全く逆の人もいます。この日本の中で、各自その人の人生の中で自然に身についた感覚は違うのです。そんな色々な人がいるのが今の日本です」と伝えるのが、私の役目だとおもっています。

壁は誰でも見えますから伝える必要もないでしょう。日々消費されてゆく数多くの卵の中から、私が出会った卵のことを、これからも伝えてゆきたいとおもいます。

-----------
コピペさせていただいたページは以下。
(ブログ名)青山の昼と千駄木の夜 ~Indiana(インディアナ)暮らし編
(ページ名)『【全文版】卵と壁 ~村上春樹氏 エルサレム賞受賞式典スピーチ』
(URL) https://ameblo.jp/fwic7889/entry-10210795708.html

| | コメント (0)

2018年7月12日 (木)

ラブ ゼネレーション(読書感想文) その2

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

ラブ・ゼネレーション [ 早川義夫 ]
価格:2700円(税込、送料無料) (2018/7/6時点)


前回からのつづき。

2011年版の「ラブ・ゼネレーション」が図書館にあることを確認した後、「ちなみに、おいくら?」と調べてみた。なんと 2,700円!(文庫ではありませんでした)

図書館で予約をし、数日後、取りに行く。
何が変わっているのか。まず装丁が違う(当たり前?)。表紙の裏にも絵があったり文章があったり。
本文的には、7つのエッセイと写真が何枚かが追加されている。

 

まず、エッセイについて。
1992年版の印象は、アーティストとして歌とどのように向き合っているか、が主に書いてありましたが、2011年版で追加されたもののほとんどは、一人の人間としての考え方や感じ方が書かれている。

 

前半に加わった三章は、やはり音楽を仕事をしていることの苦悩がかかれている。

タイトルからしてそれが伝わる「僕には道楽などないとおもったらあったのですね -- JACKS解散理由 --」。

「あぶない音楽」では、デモや教育、冷戦について書かれている。
デモで女の子が機動隊に殴り殺されても報道されない。男の子が護送車から逃げようとして負った怪我が原因で骨での帰宅となったこともあった。
それについて感じること、考えることについて「僕の歌いたいことはちっちゃなちっちゃな、そう個人的なことなの。だから個性的なのよ。」と書いている。
最後には「原爆や水爆のふしぎな平和の中で、自分ひとりだけの美しさをみがいていくことはステキなんです。」と結ぶ。

続いて「ラブ・ゼネレーションにおいての序章」。
当時20代前半だった早川さん。子供の頃から大人に失望していたし、教育が目指すところも無理があることを感じ、失望さえ感じていたようだ。
しかし大人になっている自分。「どうしたらいいのか?」と考える。最後の一文は「まずは一つ一つの色は違う点になって出発を探そう。」で終わる。

 

中盤に一つだけ加わっている、「垂直的人間」。
商品、作品が作られ売られることについて書いている。少々長いが(おもわず「そうおもいます」と感じたところを)引用する。
===============
 病気をなおすことが目的なのではなく、問題は、その医者を信じるか信じないかの問題であり、知識を得るためだけに教師につくのではなく、その教師を信じられるか信じられないかが先であり、金のためにその会社に行っているのではなく、その会社及び社長を信じるか信じないかの問題である。
 その上で、金をふんだくったりふんだくられたりするのが望ましいのであって、いいとも悪いとも思わずモクモクと物品や金が動くのは、まるでゆうれいだ。
===============

私にとって一部意味不明なところもありますが、大筋では「信じるとか信じないとか考えずに(短絡的に)お世話になったりするから、妙な流れになり、時にはとんでもない結果になる」と、とても同感した。

 

終盤。本屋さんになってからの生活の中で。

「日陰者の一日」は、本屋さんの従業員としての一日と、奥さんのこと。人によっては「なんでこんなこと書くの?」とおもうかもしれないが、私は「そういうことが気になること、分かる」と妙な同感。

「里望君と長さん」の中で「僕は今、おつきあいしている友達が二人しかいないけれど、全然寂しくなんかない。」と書いている。ご近所の男性たちと休日を楽しんでいる。
下ネタを言い合うような仲ではあるが、「僕たちは、けっこう礼儀正しい。」とも書いている。この辺りも妙な同感。

「奥床しさについて」は、タイトルを読んでドキッとした。私は「おくゆかしさ」がこのように書くことを知らなかった。今となっては使う機会がなくなってきた言葉なのかも。
内容は、歩いていたら交番まで連れて行かれたときの話、お店に私服警官が来たときの話、お店にファンと思われる女のヒトが訪ねてきたときの話、音楽仲間が病院を探している電話を架けてきたとおもったら実はレコードを買ってほしいといい始める話。
他愛もない話の羅列。「もう少し、こちらの気持ちも分かってよ」と書きたいのだろう。何を伝えたいのか分かり難い。しかし、私も「こういうこと、書いておきたい」とも思う。
「奥床しさ」を皆がもてば、多くの人が生きやすい世の中になるだろうな、とおもった。

 

比較的後ろの方に、写真が何枚か。
音楽を仕事にしていたときの写真、ポスターやチケットも。当時の自宅近くで中川五郎さんと奥さん、お嬢さんの写真。本屋さんを開業し、その店内で猫を抱いている写真など。

本の中で、自分の見た目にコンプレックスを抱いていることを感じさせる文章が何度か出てきますが、写真の中にもそれを感じる。

 

早川さんの音楽や著書に共感を覚えるのは、そのコンプレックスかもしれない。
私も身長が低い。吊り下げの服ではぶかぶかである。立派な体格な人どころか、吊り下げの服を着ることが出来る人にさえ嫉妬をする。しかし「その分、頑張ろう」とは思わない。静かに、奥床しく暮らせればいいとおもっている。

私のコンプレックスは「見た目」ですが、人間誰しも何かしらのコンプレックスを持っているとおもう。それを克服し、頑張って生きている人もいるだろう。マスコミに書かれる文章の多くは、そのような人たちのもので、ときどき「こんなに頑張って疲れないのかな」と思ってしまうこともある。また「自分みたいに頑張らない人間はイケナイ人なのかな」とおもってしまうこともある。

そんなことを表現し続ける早川さんが魅力的に感じる。高度な演奏やとてもユニークな音楽的発想をウリとしない。大事にすることは「伝えること」。

犬との生活を長年考えている私にとって、この「伝えること」はとても大事にしている。そこが私にとって魅力的に感じるのかもしれない。

 

早川さんの作品とは関係なしに、書いておきたいことがあるので、つづく

| | コメント (0)

2018年7月11日 (水)

ラブ ゼネレーション(読書感想文) その1

犬猫関係ではありません。音楽関係ですが、今の音楽業界からかけ離れているエッセイです。昭和40年代に出版されて絶版になり、平成に入り再出版される。(たぶんこの本も絶版されていて、平成23年に別の出版社から改めて出版されている。)

これも備忘録的なブログ。

 

著者は早川義夫さん。
東京オリンピック直後の日本で数年活動し、惜しまれながらも音楽の世界から完全に離れてゆく。この本は、活躍した時期と音楽の仕事から離れる頃にかかれたものがメインとなっている。
平成に入りこの本が出版(シンコー・ミュージック)されて、その2年後に音楽活動を再開する。休止期間は23年だそうだ。
そんな早川さんが、先日こんなことを Twitter に書いていた。

==========(2018年)
5/20(日)鎌倉歐林洞のライブを最後にしばらく休みます。再び歌い始めて25年ありがとうございました。
==============

音楽業界のルールに疑問を持ち続け、しっかりと声を出し続けた忌野さんが亡くなったときもショックでしたが、音楽業界にほとんど関わらず活動を続けてきた早川さんの活動休止は、私にとっては同じくらいショックでした。
ちなみに、早川さんの曲のほとんどは(他のアーティストが歌っているものは、そのバージョンがありますが)カラオケにありません。歌詞がネットに載っていることもあまりありません。

彼は 1972年、ある曲で多くの人に知られるようになりますが、別のグループが歌いヒットし、その後多くのアーティストがカバーすることになります。しかし、その歌い始めたグループが歌うにあたり、早川さんに対し何の話もなかったようです。(井上陽水さんの「陽水生誕」が発売された3年前のこと。そんな時代だったようです。)
(ちなみに、1972年には完全に音楽の世界とは離れ、本屋さんを営みはじめる。)
早川さんは、著作権などややこしい権利などについては深く考えることなく、「歌いたいこと伝えたいことがあるから歌う」というスタンスでやってきました。
復活後も(テレビに出たこともあるようですが)大きなホールで行うことも少なく、一人ひとりに言葉が届くような小さなライブハウスで歌い続けていました。

復活してから一緒に活動してた相棒的な存在の人が 2014年に亡くなり、その後も続けてくださるだろうと願っていましたが、ついに活動休止されてしまいました。

そのようなことがあり、この本を読んでみようとおもいました。図書館で探したら見つかりました。

 

20180707読んでみました。はっきり書いてしまえば、ほとんどの部分は酷いです。色々な意味で酷いです。読むのが疲れるし、「実名書いてこんなこと書いていいの?」とおもう内容ばかり。

今の世の中で好まれる表現は「ポジティブ」で包んで輝かせる感じですが、この本は「包み隠さず」。「私はこうおもっています・感じています」の羅列。
音楽で仕事をする人間というより、人に感動してもらうものを作る人間としての苦悩。神様が与えてくれた特殊能力があるとか、すごく知識があるとかではなく、ただただ「伝えたいことがある」だけで活動している人の苦悩という感じ。

ビートルズが好きだけど、ビートルズのことはよく知らないという。知り過ぎることが怖かったようです。常に自分が完全なる自分であり続けることが、この仕事をする人間の条件のように考えていたようです。

しかし、最後はおもわぬどんでん返し。人間とは、生きてゆくとは、こういうもんだよなとおもった。

 

再出版されるにあたり、中川五郎さんが書いた解説を含めると全222ページ。
最終的な部分、苦悩から開放されてゆく頃のことが書かれている部分についてメモしておきます。

185ページから始まる「棄てるものがあるうちはいい」の冒頭は「しばらく、歌仲間とも離れ、」で始まる。音楽活動を休止し始めた頃。
次の「いろいろなこと」(189ページ)の冒頭は「考えてみれば、もう二〇ヵ月も続けてきたわけで、そろそろ終わろうと思う。」で始まる。他の人のことも書いていますが、自分のことが書かれている部分が多くなる。
その章の最後は、誰かの歌の引用なのか、自分の歌の引用なのか。それともこのとき書かれたものなのか、以下の5行がある

=============
あげるんじゃなくて、すてるんだね
もらうんじゃなくて、ひろうんだね

恋もお金も身体も心も

あげるんじゃなくて、すてるんだね
もらうんじゃなくて、奪うんだね
=============

次の章は「強姦論」。今の世の中だったら出版できないのではと思われる内容も含まれている。
この後、「卒業について」「父離れ」は、全く自分のことを語っている。どれだけダメな人間かを語っているようにも読めるし、人間誰でもダメな部分をもっているんじゃないのか、と問いかけているようにも読める。
子供の頃の環境は色々だ。でも、同じ環境に置かれても誰も同じように感じ・育つわけではない。そんなことも感じた。

 

本編はここで終わる。
続いて「作品歴」があり、昭和四十七年に書かれた「あとがき」、平成四年に書かれた「文庫版あとがき」が続き、最後に「解説」を中川五郎さんが書いている。

中川五郎さんの文章の最後には、早川さんが再び歌い始めることを期待している。そしてその二年後、1994年(我が家にうーにーが来た年)にソニーからCDが発売される。

うーにーの関係で知り合った人が、早川さんと仕事をすることになり、早川さんを知る。その人が興奮気味に話をしていたことをよく覚えている。そして、初めて聴いたとき「この音楽の何処が魅力的なのかよく分からん」と思ったこともよく覚えている。当時は、CDが100万枚売れることが珍しくなかった時代で、きらびやかな音楽が溢れていた。そんな音楽とは全く異質だった。

 

ここまで読んでくださった方の中には、早川義夫という人を知らない人も多いとおもう。
こんな曲を作った人ですと書けば、「へ~」と思い出してくださる人もいるかも。

サルビアの花

天使の遺言
作詞を担当した森雪之丞さんのNoteはこちら

 

見返りやその後の義理のことを考えて、「あげたり・もらったり」するのではなく、自分の意志で、感情で、「すてたり、奪う」感覚でやり取りした方が、お互いの関係がより確かなものになってゆく。
それは、早川さんを教えてくださった人からも、うーにーからも教わったような気がする。

 

ここまで書いて、平成23年に別の出版社から発売されたものを調べてみた。
あったのですが金額にビックリ!、エッセイの追加と写真が加わっているらしい。
念のため、図書館にあるか調べてみる。あれ?、あった!!

借りて読んでみます。

なので 「つづく」(笑)

| | コメント (0)

2018年7月 3日 (火)

6月の「犬とゆく」

毎回、月がかわったら早く書こうと思いながら中旬になるパターンが多い。今回はまだ上旬!

6月公開は5件。年間通算は38件に。
いい感じだとおもいます。

 

石挽きそば処 もえぎ野
地図で見る限り、スキー場やキャンプ場などがあるエリアにあり、一般的な観光地ではない。
蕎麦メニューも豊富ですが、飲み物(特に日本酒)や一品料理、ご飯物もメニューもある。
自然に囲まれた地でゆっくり蕎麦を楽しみたい人、向け。

国営アルプスあづみの公園(堀金・穂高地区)
国営アルプスあづみの公園には、大町・松川地区という公園もある。今回紹介の公園とは別の場所となるのでご注意ください。
とても広い公園で、遊歩道やお花畑が楽しめる。次に紹介するドッグ・ランもある。

国営アルプスあづみの公園(堀金・穂高地区) 田園文化ゾーン内 の ドッグラン
前に紹介した公園内あるドッグラン。
特徴は、地面が土や芝生などであることと、木陰が多いことだろうか。何気ないことですが、犬の健康にはいいことだとおもいます。

お宿たんたん
前に紹介した国営アルプスあづみの公園(堀金・穂高地区)を北上していった辺りにある。最寄駅だと安曇追分だとおもいます。駅から比較的近い場所にありますが、宿の前の道は緑豊かな道のようです(ストリート・ビューで見る限り)。
ページ内の写真を見て、料金を確かめた限り、リーズナブルだとおもいます。

花の都公園
東富士五湖道路の山中湖IC近くにある大きな公園。お花、庭園、滝、大きな三連水車、遠くには富士山と写真を撮りたくなる場所が多い公園。なんと洞窟もあります。

 

ここのところの暑さは困りますね。人、犬どちらも熱中症には気をつけましょう。
はやく涼しくなってほしいです。

| | コメント (0)

2018年7月 2日 (月)

ねこ画展 @Gallery AaMo(水道橋)

(2018年)7月8日で終わってしまいます。今度の週末で終わりです(悲)
イベントのページは、こちら

女房がどこからかチケットをゲットしてきたので、7月1日に行きました。この日を選んだのは、「のめらにゃん斎(目羅健嗣先生) 猫狂言紙芝居」もあったから。
先生はそれなりの格好をして、尺八の人、鼓の人を引き連れ、進行役の女性も歌い、箏もひく。このステージは別途料金は必要なく、お得なイベントでした。

それは特別として「ねこ画展」ですが、冒頭にリンクを貼ったページを見ていただければお分かりと思いますが、多くのアーティストの方が参加しています。また、ほとんどの絵が撮影OKでした(但し、ネットに載せていいのかは別の話だとおもいますが)。

猫好きの人にもいいとおもいますが、絵やデザインがすきな人なら楽しめるとおもいます。漫画も少しあります。

目羅先生の狂言芝居は、一部を除いてネットにもアップしてもよいとのことなので、短いものを YouTube にアップしました。ご興味のある方はご覧ください。

| | コメント (0)

« 2018年6月 | トップページ | 2018年8月 »